【Z=1】そもそも論の多用は禁物です
パソコンを立ち上げ、メールのチェックを始める。
月曜日の朝、いつもと変わらない週の始まり。
でも、頭の中はMさんから聞いた昨日の話が占領していた。
これまで知らなかった数学の仕組み。
論理がなによりも優先される、厳しくも純粋な世界。
まるでMさんそのものみたいだ。
頭を仕事モードに切り替えようと、会議室のそばに備え付けられたコーヒーメーカーに向かっていると、会議室からMさんをはじめとした人事部の人達がぞろぞろと出てきた。
月曜朝一から会議なんて、お疲れさまです。
そんなアイコンタクトを送るも、Mさんはいつも以上に無愛想な仏頂面で歩いていく。
もしかしたら会議が上手くいかなかったのだろうか。いや、きっとそうなのだろう。
後ろ姿からでも、不満に満ちた雰囲気が伝わってくる。
そんな彼女を見送りながら、コーヒーが淹れられるのを待っていると、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
[もしよかったら、今晩お酒にお付き合いいただけませんか?]
画面に表示されたMさんの名前を見た瞬間、俺は反射的に[ぜひ!]と送信していた。
・・・・ ・ ・・・・・・………─────────────………・・・・・・ ・ ・・・・
「ねえ、聞いてますか!?」
「もちろん聞いてますって。これまで詰めてたことが白紙に戻っちゃったんですよね。大変でしたね」
「もう、ほんと信じられないです!」
会社から一駅離れた居酒屋で、Mさんが
この人、意外とお酒に飲まれるタイプなんだよな……。
「今日になって『そもそも、なぜそれが必要なのか、改めて考えるべきじゃないか』なんて!」
これまで何度か一緒に飲んだことはあるが、ここまで荒れるMさんを見るのは初めてだ。
彼女が言うには、これまでずっと議論してきた内容が、とある役員の発言で全て白紙に戻ってしまったということらしい。
「そもそもですね! “そもそも論”の多用は禁物だと思うのです!」
なんだか矛盾しているような気もするが、俺は黙ってうなずく。
「それを言い出したら何も進まないじゃないですか!」
たしかにそうだ。
まるで昨日教えてもらった話みたいで——。
「あ。もしかして、それって公理と同じじゃないですか」
思い付いたことがそのまま口に出てしまった。
Mさんは、きょとんとしている。
「あ、えっと。“そもそも論”って、議論の前提に疑問を持つことじゃないですか。それって公理を変えようとするのと同じことなのかなって」
「そ……そうです! そうなんです!」
Mさんが俺の手を取って、激しく同意をする。
熱を帯びた小さな手に、少し戸惑ってしまう。
「そうなんですよ! 矛盾が生じたり弱かったりする場合なら公理を疑うのってわかるんです! でもそれは今することじゃないんです!」
「ええと……それって、今の数学で問題がないのに、『なんで1+1=2なんだろう』みたいなことを言い出すような感じです?」
「まさにそれです!」
満足したようにMさんは俺から手を離し、ビールジョッキを傾けた。
「定義の振り返りなら、いくらしても構わないんですよ」
ジョッキを空にしたMさんが、さっきよりは落ち着いたトーンで言う。
「定義のなかで取りこぼしたものがないかチェックをするのは大事だと思うんです」
「ええと……営業だったら、『顧客』はこの層でいいのかとか、『競合他社』は他にないのかとか、そういうことです?」
「そうです。そういうことです」
うんうん、とうなずきながらMさんは続ける。
「でも、公理を変えると、それまで積み重ねてきたこと全部を揺るがすんです。何も問題が発生しているわけじゃないのに公理に手をつけるのはナンセンスです……」
空のジョッキを握りしめるMさんの手が、彼女の無念さを伝えている。
自分の彼女が落ち込んでいるとき、彼氏としてとるべき行動はなんなのだろう。
共感? 慰め? 傍聴?
いや、そんなのは人によっていくらでも変わる。
俺は、俺にできることをするだけ。
「俺はあまり数学のことはわからないですけど——」
Mさんは、数学みたいに、厳しくて、純粋で。
「仕事って、意外とみんなテキトーにやってる部分あるじゃないですか。あ、手を抜いてるって意味じゃなくって、数学みたいに厳密に考えないっていう意味で」
Mさんが顔を上げて俺を見る。
「ほら、数学みたいに前提をしっかり作り込んで議論を進められれば理想なんでしょうけど、現実ってそうもいかなくって。えっと……ほら、帰納みたいに、実際の事例を見てから決めるところもありますし、周りの環境もどんどん変わっていきますし」
ゆっくりとMさんがうなずく。
「だから、完成間近になって『これで良かったんだっけ?』って不安になるのって、仕方ないのかもしれないなって、思いました」
思索に耽るように、Mさんは顔の前で手を組み、何度か小さくうなずいた。
会計を済ませ、ふらつくMさんにハラハラしながら電車に乗る。
Mさんの最寄り駅に近くなり、気持ち良さそうに寝ている彼女を起こす。
別れ際、眠そうな目で、でもしっかりとした声で、Mさんが言った。
「……ありがとうございます。おかげで、私のするべき道が見えました」
それならよかった。
俺は彼氏としての務めを果たせたのだろうか。
翌日の昼頃、今度は会社のアドレスの方にMさんからメールが届いていた。
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例の案件について
当初の目的を再確認し、現状に応じた修正を加えた上で、
協議を継続することになりました。
大変お世話になりました。
取り急ぎ、ご報告まで。
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そんなメールの堅さに、俺は少し笑ってしまった。
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