【Y=3】新しい定理が生まれるのです

 公理。証明をする必要のない前提。

 定義。議論を円滑にするための呼び名。


 そんな数学用語を現実生活に当てはめることに、どんな意味があるのだろうか。

 でも、こんなに楽しそうに話すMさんを会社では見たことがない。

 そう思うと、真剣に考えてみたくなってきた。


「その公理って、そもそも途中で変えたりできるものなんですか? さっきの例だと、スポーツのルールを変えるようなものじゃないですか。それって難しいんじゃないんですか?」


 公理をすり合わせる。

 そうMさんは言うが、そんなに簡単なことじゃないように思える。


「数学でも、公理を追加する、もしくは変更することはあります」


 Mさんがあっさりと言う。

 数学みたいな厳密な学問でも、そういうことがありえるのは意外だ。


「とはいえ、もちろん条件はあります。矛盾を生じさせないことはもちろんですし、逆に追加する意味もない公理を加えても仕方ありません」


「追加する意味……?」


「はい。新しくを導けるようなもの、ということですね」


 定理。また新しい単語が出てきた。

 けど、これはなんとなくわかるぞ。


「えっと、定理って……ピタゴラスの定理とか、そういう公式みたいなあれですか」


「ええ。もう少し厳密に説明をすると、定理とは公理から導かれた命題めいだい(※)です。言い換えると、その公理の中では正しいということが証明されたものです」


「公理の中では正しいもの……。ええと、試合のルールブックには細かく載ってはいないけど、ルール上はセーフだってわかってる行為、とかそういう感じです?」


 あまり自信はなかったが、俺の言葉を聞いたMさんは大きくうなずいてくれた。


「その例で言うならば、ルール上は問題がなく、そして有用な行為、ということになりますね。その行為をすることで競技がより面白くなったり、その行為を基にして新しいやり方が生まれたりと。そうやって競技そのものが発展していくような、そういうイメージです」


「なんだか、くさびみたいですね。登山をするとき、打ち込んでいくみたいな」


 なんとなく思ったままのことが口をついてしまった。

 その言葉を聞いたMさんは、驚いた顔をして固まってしまった。


「あ、全然ちがいました……?」


「楔……なるほど。正しい位置に打ち込めば、次の人はそれを使える……そうやって楔を使ってさらに高みへ……それを私たちに置き換えると……」


「あの……Mさん?」


「そんな定理を生み出せるような……公理系に変える……いや、加えていく……。つまり私たちの公理というのは……」


 なんだかスイッチが入ったようで集中している。

 しばらくそっとしておいた方がいいのだろうか。 


「あ。おかげで私、少し、わかりました」


 数秒後、Mさんは何かを思いついたように突然顔を上げた。

 これまでに見たなかで一番、目がキラキラと輝いている。


「私たちの公理とは……人生観、恋愛観、仕事観。そういった価値観なのではないでしょうか」


「価値観……ですか? ええと、それは証明が不要なくらい当たり前? ……ああ、そうか。本人にとっては当然のことだし、それを基準に行動するわけだから……。そうか。たしかに!」


 急に大きくなったスケールに、なんとかついていく。

 Mさんは少し安心したように微笑み、さらに続ける。


「そして、異なる公理系に、つまり違った価値観を持つ人に出会って、お互いの公理を取り込んでいく。そうすることで、新しい定理が生まれるのです」


 そう言ったMさんは満足したように、そして少し恥ずかしそうに、目を伏せた。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


※命題

Mさんはさらっと“命題”なんて言ったけど、普通はそんな単語わからないよね。

あとで聞いたところによると、“命題”ってのは「真か偽か」つまり「正しいか間違ってるか」をはっきりと断言できるもの、ということらしい。

数学だけじゃなくて理系科目ってだいたいそういう感じだよね。曖昧なものは許してくれない。

世の中には「真か偽か」だけじゃないものがたくさんあって、もちろんMさんもそんなことはわかっているんだろうけど、だからこそ数学には厳密さを求めてしまうのかな、なんて思ったりしたよ。

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