【Y=2】すり合わせるべきは公理です

「デートの定義……?」


「そうです。定義です」


 つまり、『デート』という同じ言葉を使っていても、込める意味が異なれば、そこから擦れ違いが生じる。

 だから、まずはそこから確認をしよう、と。そういうことなのか。

 

「なるほど。言葉の意味をすり合わせるわけですね」


 だが、Mさんの返答は、俺の想像の範疇を越えていた。


「いえ、違います。すり合わせるべきは、です」


 公理こうり

 学生の頃に授業で聞いたことがあるような気はするが、どういう意味だったか思い出せない。


「公理……ですか。えっと、すみません、よくわからないです」


 わからないことは正直にわからないと言う。

 知ったかぶりをしても良いことなんて無い。


「公理というのは、証明を必要としない自明な前提のことです」


 Mさんは端的に説明してくれたのだが、さっぱりわからない。

 ええと、証明しなくてもいい当たり前の前提……。

 脳内で簡単な単語に置き換えるものの、やはりよくわからない。

 俺が理解できていないのをMさんは察したのか、どう説明すればいいかと考えてくれているようだ。


「……学生の頃、部活は何かされていましたか?」


 Mさんが突然、俺にそんな質問を投げかける。

 どういう意図かはわからないが、俺は正直に答えるのみ。


「大学生のとき弓道をやってました。卒業してからはそれっきりですけど」


「へえ、弓道ですか。いいですね。弓道の試合って、たとえばまとにあてたら1点だとか、的までの距離とか、的の大きさとか、きっと厳密に決まってますよね」


 正確には1点という数え方ではないが、きっと話の本筋ではないので俺は黙ってうなずく。


「試合のルールって、それが正しいかどうかなんて考える必要はありませんよね。それがです」


 なるほど。たしかに証明なんてする必要のない当たり前の前提だ。

 でもそれが言葉の定義とどう関係するのだろう。


「そして、弓道で『的』と言えば、矢で狙う白黒の標的を指しますよね。でも、これは『的』という言葉でなくても構いません。みんなが、あれを『的』と呼ぶと、そう決めたのでそう呼ばれます。これがです」


 俺はMさんの熱弁に黙ってうなずくことしかできない。


「そこに違うルールに則る人……たとえばアーチェリーの選手が入ってきて、同じ『的』という言葉を使ったとき、どうなるでしょうか」


 アーチェリーの経験は無いが、弓も矢も的も全く違うはずだ。

 Mさんが言いたいこと、少しわかってきた気がする。


「きっとお互いに想像するものは違いますよね。なので、話に齟齬そごが出てしまう。でも、どちらが間違っているというわけではありません」


 その通りだ。どちらも間違っていないのに、きっと話は噛み合ない。


「なるほど! なんとなくわかりました! 言葉の定義を考えるとき、どっちが正しいとか間違ってるとか、そういうことではなくて、それぞれの公理が違ってるなら、定義も違って当然ってことですね!」


 Mさんは少し驚いたような顔をしたあと、安心したように微笑んでくれた。

 

「はい。私はそう思います。ですので、さきほどの……『デート』という単語をお互いに異なる定義で用いているのであれば、その前提となる公理をすり合わせる必要があると、考えます」


 Mさんが言いたかったことをやっと理解できた。

 普段からこの人はこんなことを考えているんだろうか。


 感心する俺に向かって、Mさんは恥ずかしそうに小さく呟く。


「ですが……それぞれの公理って、なんでしょうね。私も自分で言っていて、わからなくなってしまいました」


 ここまで喋ってわからないんかーい!

 と、心のなかでツッコミを入れる。


「なので……一緒に考えましょう」


 そう微笑みかけるMさんの目はキラキラと好奇心に満ちていた。

 その目があまりにも綺麗で、俺はまた、うなずくことしかできなかった。

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