【X=1】公理の話
【Y=1】デートの定義を決めましょう
「……美味しいですね、このタルト」
静かな喫茶店の中で、俺の間抜けな声が響く。
今日は「寒いですね」と「美味しいですね」しか言っていない気がする。
あ、あと、店に入ったとき「ここは暖かいですね」も言ったな。
でも、その後の言葉が続かない。会社でならいくらでも話せるのに。
どうした、俺? 緊張してるのか?
初めてのデートだからか?
「え、ええ。でしょう。お口に合ってよかった、です」
Mさんも緊張しているのだろうか。
もともと静かなタイプではあるが、普段よりも口調がたどたどしい。
「このお店、学生のときからよく来てたんですよ」
彼女はそう言い、自分の前に置かれた皿を懐かしそうに眺める。
Mさんは俺と同じ会社の人事部で働いている。
いつも毅然とした態度で仕事に臨み、誰に対しても臆することなくものを言う。
そんな姿に、俺は惹かれたんだ。
彼女がフォークを口に運ぶ様子をつい見つめてしまう。
そういえば、いつもの銀縁眼鏡をしていない。今日はコンタクトレンズなのだろうか。
もしかして、デートだということを意識してくれたのだろうか。
もしそうだとしたら、すごく嬉しい。
注文した品物が全部運ばれたあと、少ししてから店員さんが伝票を持ってきた。
俺は何も考えず、置かれた伝票を手元に寄せて言う。
「ここは俺が出しますよ」
「え? どうしてです?」
Mさんが突然、驚いたような声を出した。
「え? だって、ええと、デートですし」
「え? どういうことですか?」
「え? デートって、そういうものでしょ」
「そういうもの、でしょうか?」
あまりにも意外なところで反論が来た。
純粋に疑問に思っているらしい。
それにしても俺ばかりデートという単語を頻発していてなんだか恥ずかしい。
「ほら、そういう文化みたいな感じかと」
「……文化。なるほど」
あまりにも意味の広い言葉だけど、そうとしか言いようがない。
だが、そんな曖昧な回答ではMさんは止まらなかった。
「しかし、何故そのような文化があるのでしょう?」
「えっと……、一般的に男側からデートに誘うことが多いから、とか」
「でも、誘いに応じるかどうかは自由意志ですよね」
「えっと……、
「でも、お付き合いをしている状態なら、好意があるのは必要条件(※)ですよね」
「ええっと……、ほら、やっぱりカッコつけたいじゃないですか」
「経済力のアピールということでしょうか。それならわからなくはないですが」
やっとわかってくれたのだろうか。
「でも、私たちはほとんど給料同じですよね」
ですよねー……。むしろMさんの方が多いと思う。
「とにかく、一般論としては理解できましたが……」
やはりMさんは納得していない様子だ。
指先を下あごにあてて何かを考え、数秒間の沈黙のあと口を開いた。
「では、私たちのデートの定義を決めましょう」
デートの定義。
彼女は凛とした声でそう言った。
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※必要条件
「AならばBである」という命題が成り立つとき、Aを“十分条件”、Bを“必要条件”と呼ぶ。
っていうのが一般的な説明らしいけど、この「ならば」ってのがクセのある表現だからわかりづらいよね。言い直すと、「A状態だったら、必ずB状態でもある」っていうことらしい。
今回の例で言うと、Aを「付き合っている」、Bを「好意がある」としていて、「付き合っているのなら、好意があるのは当然」というのがMさんが言いたかったことみたい。
たしかに「好意があるから、付き合えて当然」とはならないからね。(これはストーカーの発想だ。)
数学脳の人は、会話をするたびに「これは必要条件。こっちは十分条件」みたいなことを考えるらしいよ。
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