【Y=2】いつまでもゴールできません
「無限という概念は非常にデリケートなものだと私は思います」
Mさんが足を止めて言う。
図書館内だからか、こころなしか小声になっている。
「下手に扱うとパラドクスを生じます」
「パラドクス、ですか?」
「はい。無限はパラドクスの宝庫と言っても過言ではありません」
そう言うMさんはなぜだか少し楽しそうに見えた。
「あの……パラドクスって、“矛盾”って意味ですよね。数学って、矛盾があっちゃマズいんじゃないです?」
「致命的にマズいです」
「それなのに……宝庫?」
「ええ。なので、そうならないように注意深く進むのです」
そう言いながら、Mさんはゆっくりと数歩分だけ進み、振り返って俺に向けて手を伸ばした。
「ここから、あなたの場所までは数メートルの距離があります」
「……? そうですね」
「受け取ってくださいね」
そう言ってMさんは自分の頭から何かを取り、それを軽くこちらに投げた。
「っと。ん? ヘアピン?」
「ナイスキャッチです。ちゃんと届きましたね」
「……? どういうことです?」
彼女が何をしたいのか全く理解できず呆然としてしまう。
Mさんは俺の手からヘアピンを受け取り、またさっきいた場所に戻った。
「いま、私が投げたヘアピンはこの距離を進みました。だいたい1秒間でしょうか」
頭の中で1秒間を数える。おそらくそのくらいだったように思う。
「1/2秒が経ったときは、この半分の距離まで進んだことになります」
Mさんは数歩進み、俺との距離を約半分ほど詰める。
「では、さらに1/4秒が経ったときは、このくらい」
そう言って、一歩だけ近付く。
「そして、そこから1/8秒が経過したときは、このあたり」
半歩、彼女が近付く。
「もう言わなくてもわかると思いますが、1/16秒、1/32秒、と細かくしていきます。そうすると、ヘアピンはいつまでもゴールできません」
さあ何かコメントを、と言わんばかりに俺にヘアピンを向ける。
「それが……パラドクスですか?」
「はい。古代ギリシアの哲学者ゼノンが作り出したと言われる“ゼノンと矢のパラドクス”です。元弓道部ならご存知かもしれませんが」
全くご存知ではない。弓道部をなんだと思っているのか。
そもそも、なにがどうパラドクスなのかもよくわからない。
「これって、ただ1秒間を細かく分けてるだけですよね。時間の概念がおかしいだけでは?」
「そんなに甘いものではありません」
Mさんはヘアピンを頭に付けながら、あっさりと言う。
「1秒間を細かく分けているだけ、という解釈はごもっともです。でも、ただそれだけの話であれば、パラドクスとして名前が残ってはいません」
たしかにそうか。
なら、何が問題だというのだろう。
「1/2秒、1/4秒、1/8秒、1/16秒、1/32秒と、どんどん細かく分けていきます。これをずっと続けていきます」
1/64秒、1/128秒、1/256秒、と頭のなかで暗算をしてみる。
「この細分化には限りがありません。それこそ無限に続けられます。ですが、実際には1秒間でヘアピンは届きます。つまり、1秒間という有限の時間に、無限の細分化の作業が含まれることになります」
「……んん?」
わかったような、わからないような、変な気分になる。
有限の時間に無限の作業が含まれる。
確かにおかしいような気がするが、おかしさの正体をつかみきれない。
「1……2……」
気付くと、Mさんはまた少し離れた場所に立っていた。
「1/2秒のときに“1”と数えます。1/4秒のときに“2”。そしてここで“3”」
半歩、足を踏み出しながらMさんが言う。
「これを続けていくと、どうなるでしょう。1秒間の間に、自然数(※)を数え尽くすという作業が完了することになりませんか?」
なるほど。
無限の作業というのは数字を最後まで数える作業と同じで、それを1秒間という有限の時間のなかに収まっている、ということがパラドクスの本質なのか。
この気持ち悪さの正体がほんの少し見えた気がした。ほんの少し、だが。
「……なんとなく、わかったような気がします。でも、実際にはちゃんと届きますよね」
「さきほど、それを確認しましたね」
わざわざ投げなくてもいいのでは、とも思うが。
「えっと……つまり、なにかがおかしいってことですよね」
「そうです。つまり、無限の解釈に注意が必要だということです」
Mさんはそう言いながら、無限の作業を経て、俺の横に立った。
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※自然数
これはそのまんまだね。自然な数。1、2、3・・・って続く数のことだね。もちろん無限に続く、限りのない数。
数学系の人は“1”から数えるけど、論理学系の人は“0”から数えるって話だよ。
なんかいろんな派閥があるんだね。
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