【Z=1】判例が出るまではグレーです
「あ、そういえば今日、契約社員の方から相談受けたんですよ」
終業後、会社近くの定食屋でМさんと一緒に夕食をとりながら、今日の出来事を話す。
Мさんは実家暮らしなので普段は外食をしない。そのかわりノー残業デーの毎週水曜日だけは、仕事帰りに一緒に晩御飯を食べる。
どちらともなくそう言い出して、いつのまにかそんな決まりができていた。
「仕事内容は全く変わらないのに、契約社員と正社員とで待遇に差がありすぎじゃないかって」
食事のときまで仕事の話をするのは申し訳ないと思いながらも、人事部で働くMさんの意見を聞きたくて、この話を振る。
「前から気にはなってたんですけど、俺の立場だとどうしようもなくって。Mさん、どう思います?」
「……会社も同一労働同一賃金を意識して、就業規則を少しずつ対応させてはいるのです。でも、なかなか追いつきません」
Mさんは困ったように眉をひそめる。
「契約社員やアルバイトだけでなく、定年再雇用の場合の契約条件など、手をつけなければならないものが多いのです」
珍しくMさんが弱音を吐く。
「その辺りって、法律的にはどうなんですか? ガイドラインとか無いんです?」
どこの会社でも「法律でこう決まりましたから」と言えば、否応無しに対応すると思うのだが。
「いわゆる労働契約法は“
「判例法理……って?」
これは数学用語、じゃないよな。
「裁判の判例を集積してできた方針のようなものです。個別の事例を集めた、まさに帰納的な考え方です」
法律用語の説明をするのにも数学用語を使うのがMさんらしい。
「なるほど。それって演繹みたいに、これが正しいって一概に決められないってことですよね」
「ええ。一つ一つの事例を見て判断するしかないのです」
「じゃあ、実際の判例が出るまでは法律的にはアウトともセーフとも言えないってことですか?」
Mさんは渋々とうなずく。
「判例が出るまではグレーなのです。非常にもどかしい限りです」
白黒をはっきりさせたいMさんからすれば、そうなのだろう。
「裁判の結果次第で、日本全国の就業規則はいくらでも変わるんです。法律と言っても、そんなものです」
Mさんが自嘲的に小さく呟く。
不本意だというのが嫌というほど伝わってきた。
労働環境も社会情勢も、どんどん変わっていく。
法律で曖昧な部分は、実際に裁判が起きてみないとわからない、ということか。
「あ。これって無限だ」
しまった。思いついたことがそのまま出てしまった。
「どういう意味ですか?」
Mさんが不思議そうに聞く。
「あ、えっと……いや、なんとなく思っただけなんですけどね。この前教えてもらった“可能無限”の考えに似てるなって」
「……あ。“排中律”の否定、ですか」
“可能無限”の考え方に基づくと、未完成のものには『真か偽か』という二者択一は当てはめられない。
つい先日、Mさんから教わったことだ。
「社会ってどんどん変わりますよね。それに対応するために、法律もどんどん変わる。それって、未完成ってことと同じかなって、なんとなく思いました」
Mさんはしばらく考え込むように視線を伏せていたが、突然顔を上げたかと思えば、手を上げて店員さんを呼んだ。
「瓶ビールを一つ。グラスを二つでお願いします」
「あれ? 飲むんですか?」
しかも、俺の分のグラスまで。
いや、全然構わないんだが。
「今日も私の公理に一つ、大切なものが加わりましたから。そのお祝いです」
わかったような、わからないような。
「ここは私に奢らせてくださいね」
「ええ?」
いつになく上機嫌のMさんに戸惑いながら、恐る恐る乾杯をするのだった。
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