【Y=10】無限を飛び越えられますから
食事を終えたあと、それぞれ興味のある本を読んだり、紹介し合ったりしていたら、あっという間に閉館時間が近付いていた。
Mさんが利用登録の申請や貸出の手続きをしている間、ソファーに座ってぼんやりと考える。
昼に食べた『パイ包みのシチュー』。シチューの中身は、既にパイの中に存在していた。当たり前だ。
でも、“π”や“√2”は違う。小数点の先は、実在していないのと同じ。
最初は突飛な考えに思えたけれど、実はそうでもない気がしてきた。
「お待たせしました」
5冊もの猫の写真集を大事そうに抱え、Mさんが満足した顔で立っている。貸出限度いっぱいまで借りたらしい。
俺以上に図書館を満喫してくれたみたいで喜ばしい限りだ。
「では、帰りましょうか」
図書館を出て、駅までの道をゆっくりと並んで歩く。
まだこの時期は陽が落ちるのが早い。辺りはもう暗くなり始めている。
「今日、いろいろ教えてもらいましたけど……俺、“可能無限”の考え方が好きかもです」
肌寒い風を感じながら、さっき考えたことを口に出す。
マフラーを巻いたMさんが不思議そうな目をする。
「きっと、無限っていうのは、最初からどこかに在るものじゃなくって、これから作っていくものだって、そんな風に考えたんじゃないかな、と」
シチューみたいに、作られたものが出されるわけじゃない。
目の前にあるのは材料だけで、これから自分たちで作らなきゃいけない。
「Mさん、言いましたよね。“可能無限”の考え方を突き詰めたら、『πの小数点の最先端は、まだ実在していないのと同じ』って。それって、“π”っていう完成品を掘り当てていくんじゃなくて、未完成のものをちょっとずつ完成に近づけていくっていうイメージなら、そう考えるのも自然かなって」
宝探しみたいに考えるから、違和感があるんだ。
どこかに宝が埋まってるって考えたら、それは『ある』か『ない』かのどちらかなのは当然だ。
でも、まだ宝を作っている途中だとしたら話は別だ。今はまだ『ない』かもしれないけど、いつかは『ある』ようになるかもしれない。
「えっと、“排中律”……ですっけ。『ある』か『ない』かっていう二択。それを未完成のものに当てはめるのは無理があって当然かな、って思いました」
急にMさんが立ち止まった。
「……私はあまり“可能無限派”の考え方を理解できなかったのですが」
顔を上げ、こちらを見ながらMさんが言う。
「おかげで少しだけわかった気がします」
マフラーに隠れて表情は読み取れないが、きっといつもみたいに楽しそうに話している気がする。
「未完成だからこそ、そこに可能性を見出だす。そういうことなのですね」
Mさんはまた歩き出し、俺の左隣に立つ。
たくさんの本が入ったカバンを左肩に掛け、手袋を外して右手を差し出してきた。
握手?
“実無限派”と“可能無限派”の和解的な?
「……手をつないでも、いいですか?」
「え?」
一瞬、思考が止まる。
「あ! は、はい!」
出しかけていた右手を引っ込め、慌てて左手をズボンで拭き、Mさんの右手を取る。
二度目のデートだし、手くらい、つなぎたい。
本音を言うと、一日中ずっと考えていた。
でも、なかなか言い出せなかった。
いつまでたってもたどり着かないゼノンの矢みたいに、たった数センチが無限のように、遠かった。
「ありがとう、ございます」
冷え性なのか、Mさんの手は冷たかった。
どの程度の速さで歩けばいいのかわからないくらい、頭が混乱する。
ぎこちない歩みのせいで、駅まで向かう足はさらにゆっくりになる。
「……私の公理に新しい考え方が加わったので」
Mさんがぽつりと言う。
「行動指針が、多少変わったようです」
どういう意味だろう。
でも、Mさんの言葉は続かない。
しばらく沈黙が続く。
少し迷ったが、俺も正直に話すことにした。
「あの……本当は、俺も手を、つなぎたかったんです。ずっと。でも……なかなか言い出せなくって。すみません」
情けない話だ。
自分の意気地のなさが嫌になる。
「あなたは“可能無限派”ですが、私は“実無限派”です」
俺の目を覗き込むように、Mさんが言う。
「この距離の間に無限の作業が含まれていようが」
つないでいる手にMさんは目を落とす。
「このくらいの無限なら、一括りにして飛び越えられますから」
そう言うMさんの小さな掌は、いつのまにか暖かくなっていた。
駅なんて、もっと遠ければいいのに。
俺はずっと、そんな乙女チックなことばかり考えていた。
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