【Y=8】どうあがいても矛盾なのです
「この“カントールのパラドクス”を発見したのは、数学者ゲオルグ・カントールです」
Mさんは少ししんみりとした声で言った。
「このカントールって人は“可能無限派”なんですか? 集合論のパラドクスを見つけたってことは」
Mさんは首を横に振る。
「いいえ。カントールは無限集合論の体系を作り上げた偉大な数学者です。ですが、自らの手でパラドクスを見つけてしまったのです」
そういうこともあるのか。
せっかく作り上げた理論の矛盾を自分で発見したとき、その数学者はどんな気持ちだったんだろう。
「パラドクスって、あったらマズいんですよね。カントールはどうしたんですか?」
数学で矛盾が生じるというのは致命的だという。
なら、なんとかしてパラドクスに折り合いをつけたのだろう。
「存在……しないことにしました」
「え?」
Mさんが何を言っているのか、よくわからない。
「全ての集合を集めた集合、つまり、国立国会図書館のような集合は、存在しない。そう、判断をしました」
「ええー?」
いまいち
数学者達がそれでいいと決めたのなら、構わないのだろうか。
納得できていない俺をなだめるようにMさんは言う。
「ただ……再び、別のパラドクスが立ちふさがりました」
またパラドクスか。
無限は本当にパラドクスが豊富だ。
「今度は“ラッセルのパラドクス”と呼ばれるものです。バートランド・ラッセルが考えました」
「あれ? その名前はなんか聞いたことがあるような気が」
「数学者で論理学者で平和活動家で、教育や政治などにも精通し、さらにノーベル文学賞も受賞している多才な研究者です。アインシュタインや他の科学者とともに核兵器の放棄を訴える宣言をしていますので、そちらの方で名前をご存知なのかもしれませんね」
経歴がすごすぎて、なんだかよくわからないくらいすごい。
「“ラッセルのパラドクス”によって、集合論は大きく変わることになりました。それまでの集合論はシンプルな集合を扱うという意味で“素朴集合論”と呼ばれるようになります」
分野の名前そのものを変えてしまうほどのパラドクス。一体どれほどのものなのか。
俺には理解できないだろうとは思うが、気になるので聞いておく。
「その“ラッセルのパラドクス”っていうのは、どんなパラドクスなんです?」
「自身を要素として含まない集合全体の集合……と言っても、イメージが湧きませんよね。せっかくなのでこれも図書館に例えてみます」
それはありがたい。
Mさんは何かを考えながら、確認するように何度か小さくうなずき、ゆっくりと話し始める。
「さきほど、図書館が持つ本で、あらゆるパッケージを作る、という話をしました。その組み合わせの中には、その図書館が持つ全ての本を集めたパッケージもあるはずです」
図書館Aが所蔵する本の組み合わせを全通り考える。組み合わせたもの、それら一つ一つを本として集めたものが、“
図書館Bが所蔵する本の中には、『図書館Aまるごとセット』とでも言うような、図書館Aが所蔵する本全部が一冊のセットになったような本も含まれる。
うん、奇妙な気はするが、たしかに理屈の上ではありえるか。
「ここで、様々な図書館が持っている本をチェックしていきます。図書館によって、持っている本はもちろん異なりますが、一つのルールで分類をしていきます。それは、『自身の持つ全ての本のパッケージを持っているかどうか』という線引きです」
「それは……ええと、『図書館Aまるごとセット』って本を図書館Aが持っているかどうかチェックする、みたいな感じですか?」
さっき頭のなかで考えた単語がつい口をついた。
もうちょっと
「その通りです。……『まるごとセット』という言い方、わかりやすくていいですね」
やった。褒められた。
「そして、チェックをして分類したうえで、自身の『まるごとセット』を持たないものだけを考えます」
持つ方が不自然だと思ったが、持たない方に注目するのか。
「当然ですが、ここの図書館は自分の『まるごとセット』を持っていません」
そりゃそうだ。
「もし、俺が今からこの図書館が所蔵する本を全て本屋さんで買い集めて、それをセットにしてこの図書館に寄贈したりすれば、『まるごとセット』を持っている、ってことになるんですよね」
「ふふっ。そうなりますね」
Mさんが可笑しそうに笑うが、すぐに真剣な顔になって言う。
「ここからが少しイメージしづらいのですが、『まるごとセット』を持っていない各図書館の『まるごとセット』を、“ラッセル図書館”という場所に納めることにします。つまり、“ラッセル図書館”は、【自身の『まるごとセット』を持っていない図書館の『まるごとセット』だけを集める】というコンセプトに沿って本を収集しています」
ええと、図書館Aが『図書館Aまるごとセット』を持っていないなら、『図書館Aまるごとセット』は“ラッセル図書館”に納められる。
もし図書館Bが『図書館Bまるごとセット』を持っているなら、『図書館Bまるごとセット』は“ラッセル図書館”に納められない、と。
ここまでは理解しました、ということを示すように俺はMさんに向かって強くうなずく。
「さて、ここで問題です。“ラッセル図書館”は、『ラッセル図書館まるごとセット』を持っているかどうか、です」
まるで難問を出すクイズ出題者のように、指を立ててMさんが言う。
「そりゃ……持ってない、でしょ」
「それはなぜ?」
「だって、“ラッセル図書館”の収書方針は、【自身の『まるごとセット』を持っていない図書館の『まるごとセット』だけを集める】、ですよね。もし、持っていたとしたら、“ラッセル図書館”は『ラッセル図書館まるごとセット』を持っていないことに……あれ?」
Mさんが楽しそうに微笑んでいる。
「んんと、じゃあ、持ってる? でも、持ってたとしたら、そもそも“ラッセル図書館”の収書方針にそぐわないわけで……」
「そうです。どうあがいても矛盾なのです。これが“ラッセルのパラドクス”です」
ああ、なるほど。
だからパラドクスということなのか。
ゼノンと矢のパラドクス、カントールのパラドクス、ラッセルのパラドクス。
無限が導く様々なパラドクスたち。
そんな途方もない世界が、少しだけ目の前に開けた気がした。
その瞬間、くぅ、という変な音が響く。
横を見ると、Mさんが恥ずかしそうにお腹を抱えていた。
壁にかかっている時計を見ると、とっくに昼は過ぎていた。
そりゃ、お腹も空く。
「……俺たちは有限の世界の人間ですしね」
フォローになっているのか、なっていないのか。
つい、そんなよくわからないセリフを吐いてしまった。
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