【Y=9】実在していないのと同じです
図書館に備え付けられたカフェで向かい合って座る。
ピークの時間帯は過ぎたとはいえ、店内には他にも客がたくさんいる。
注文したものが届くまで、もう少しかかりそうだ。
「いやー、お腹空きましたねー」
「……すみません。長々と話してしまって」
Mさんは申し訳なさそうに、というより恥ずかしそうに、小さく呟く。
「いやいや、メチャクチャ面白かったです!」
「……そう言ってもらえると、嬉しいです」
俺の好きな人が、好きなもの。それを知っていくのは楽しい。
そういえば先週、同じように向かい合いながら、ついそんなことを口走ってしまった。
自分の発した言葉を思い出して、身体が少し熱くなる。
「そ、そういえば聞きそびれてましたけど、“ラッセルのパラドクス”はどうやって解決されたんですか?」
Mさんは顔を上げ、さっきまでとは打って変わって、はっきりと答えた。
「“実無限派”が選んだのは、公理と集合論を分けることでした。考えるのは公理系のレベルのみ、と割り切ることで、有限と無限を切り離したのです」
「あ、公理って先週教えてもらったアレですか? スポーツのルールみたいな当たり前の前提ってやつ」
「そうです。前提となる公理系、言ってみれば数学そのものを扱う姿勢は、“メタ数学”や“超数学”と呼ばれます」
なんだかカッコいい響きだ。
「えーと、競技のプレイヤーじゃなくて、ルールを考える運営側に回る、みたいな感じです?」
「そんなイメージです。たとえば将棋の
「へええ」
これも、発想の転換とでも言うべきなのだろうか。
でも、それで何が変わるんだろう。
「ルールを考えるのは人間の作業です。つまり有限の
そう言って、Mさんは少し恥ずかしそうに自分のお腹をさする。
「なるほど。有限の範囲内に収まる作業なら、パラドクスは起きない、と」
「そういうことです。さらに言うなら、将棋そのものに意味を持たせる必要すらなくなります。大事なのは仕組みだけですから」
突き詰めて考えると、そうなってしまうのか。
でも、それってなんだか寂しいんじゃないか。
「ルールばっかり考えるより、実際に将棋を指した方が楽しいと思うんですけどね」
浅はかな素人考えを、つい口に出してしまった。
「……あなたは、“可能無限派”かもしれませんね」
Mさんが微笑みながら言う。
どういう意味だろう?
「“可能無限派”からすれば、数学はそんな無機質なものではありませんから」
そういうものなのか。
よくわからないが、久しぶりに“可能無限派”の話が出てきたので聞いておこう。
「そういえば“可能無限派”だと、パラドクスは出ないんですか?」
「ええ。“可能無限”は、完結した対象として扱うことができません。ですので、“カントールのパラドクス”も“ラッセルのパラドクス”も起こりません」
そうか。パラドクスが起きる原因は無限そのものを扱おうとするから。
無限を可能性として考える“可能無限”なら、関係がないんだ。
「しかし、“可能無限”にも大きな制約が課せられることになります」
「制約、ですか?」
Mさんは深刻な顔をして言う。
「無限に関して、“
「排中律……?」
そう質問をしたとき、ちょうど俺が注文した『パイ包みのシチュー』が運ばれてきた。
ポット型の容器を香ばしいパイがフタをしている。
Mさんが注文した『そら豆のカレー』も、少し遅れてテーブルに置かれる。
「そのシチューの中には、ニンジンが3個入っている」
突然、Mさんが妙なことを言う。
「という命題は、
「えっと……どういう意味です?」
「ニンジンの数は3個か、もしくは3個ではないか。そのパイのフタを開けて確認をしなくても、そのどちらかであることは自明です」
「そりゃ、まあそうですけど」
「これが“排中律”です」
真か偽か、なんて言われると構えてしまうけれど、Mさんが言っているのは当たり前のこと。
このシチューに入っているニンジンは、3個か、3個でないか、どちらかだ。
「しかし、無限のもの……たとえば円周率の
あれ? もしかして、これはパイとπをかけた数学ギャグなのだろうか。
「円周率は代表的な無理数です。不規則に、そして無限に続きます」
ちょっと前に聞いた無理数の説明を、Mさんは繰り返した。
“実無限”の立場だろうが、“可能無限”の立場だろうが、無理数が無限に続くことに変わりはない、ということか。
「延々と続く小数点の先に、たとえば『“7”が100回続く部分がある』という命題を考えます。もちろん、現在はそんなことは確認されていません」
もしそんな場所が見つかったら、さすがに計算間違いじゃないかと疑ってしまいそうだけど。
「“可能無限”の立場では、この命題は真か偽か、どちらかである、ということが言えなくなります」
「へえ……ええ?」
一瞬、納得しかけたが、おかしいんじゃないか。
「えっと、それっておかしくないです? 『100回続く部分がある』かどうかって、わからなかったとしても、『ある』か『ない』か、それってどっちかじゃないんですか?」
「“可能無限”を徹底するなら、そうなるのです。円周率の小数点の先、まだ解明されていない数字は、実在していないのと同じ、と考えるのです。なんだか哲学的ですよね」
これまで聞いてきたなかで、一番不思議な話だ。
解明されていない小数点の先は、実在していないのと同じ。
真っ暗な宇宙の果てを進んでいくような、そんなイメージが浮かぶ。
「冷めないうちにいただきましょう」
Mさんはそう言い、スプーンを手渡してくれた。
ぼんやりした頭のまま、パイのフタを開けてみる。
ニンジンは3個、入っていた。
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