【X=4】証明の話

【Y=1】確かなものなんて存在しない

「なにか私に言うことはありませんか?」


 Mさんが正座をしたまま、目の前のお茶にも手をつけず、鋭い目つきで俺をにらむ。

 その声は明らかにいつもより冷たい。


 怒られるようなことをした心当たりは無いんだが……。

 もしかして、なにか大事なことを忘れてしまっているんだろうか。


「ええっと。付き合って一ヶ月記念は……まだですよね。誕生日は……もう過ぎましたし。なんだろ。すみません、思い当たらないです」


 そもそも、こういう記念日系を忘れたくらいでMさんが不機嫌になるとは思えない。

 むしろ「ただの日付になんの意味があるのですか」とか言いそうだ。

 そんな想像をすると、つい口元が緩んでしまう。


「……そうですか。わかりました」


「え? どこ行くんですか。来たばっかりなのに」


 急に立ち上がり、玄関に向かおうとするMさんを呼び止める。


 そう。ここは俺の部屋だ。

 休日の昼下がり、俺の部屋でMさんと二人きり。


 つい先日、Mさんから急に「大事な話があるから、人のいない場所で話がしたい」と連絡があり、それなら俺の部屋でどうだろうかと提案した。

 それでいい、というMさんの返答に俺は大いに浮かれ、昨晩は必死で部屋中の掃除をした。


 そして訪れた“彼女が自分の部屋に遊びに来る”という重大イベント。

 だが、その期待を大きく裏切り、なぜか今こんな険悪な雰囲気になっている。

 

 玄関の手前でMさんは立ち止まり、こちらを振り返る。


「……あなたが、浮気をしているという話を聞きました」


「はああ!?」


 なんだそれ。まったく意味がわからん。


「そんなことあるわけないじゃないですか!」


「なぜ、そんなことが言えるのです?」


「だって、俺、そんなことしないですし!」


「しないから、しない。循環論法になっていますね。無意味です」


 いったい誰からそんなデマを吹き込まれたのか知らないが、俺のことを全く信じようとしないMさんに少し腹が立ってきた。

 駄目だとは思いつつ、どうしてもヒートアップしてしまう。


「俺がそんなことするわけないでしょう!」


「なら、なぜそんなにムキになっているのですか? 後ろめたいことがあるのでは?」


「なんでそうなるんですか! そんなこと、絶対ありえないですって!」


 つい声を荒げてしまう。

 どうして信じてもらえないんだろう。

 

 Mさんは俺の目を覗き込むように、首をかしげる。


「……なぜ、そう軽々しくなどと言えるのですか?」


 消え入りそうなMさんの声が、やっとのことで耳に届く。


「確かなものなんて、どこにも存在しないのに」


 いつも不思議な自信に満ちあふれていたMさん。

 それが今は見る影も無い。

 疑われていることよりも、そのことの方がなぜか哀しくなった。


「……いつもMさんが話してくれる数学って、あれは“確かなもの”じゃないんですか」


 彼女が楽しそうに語ってくれた数学。

 厳密で、融通が利かなくて、純粋で。

 それがMさんの芯になっているんじゃないのか。


「ちがいます。数学はなものです」


 Mさんの言葉を、俺はすぐには理解ができなかった。

 数学がだとしたら、いったい他の何がなんだろうか。


「この話、最後に相応しいかもしれませんね」


 Mさんは何かを吹っ切ったように、リビングに戻る。

 誤解を解くことと、Mさんの話を聞くこと。

 どちらを先にすべきか一瞬悩んだが、俺は後者を選んだ。


「なにか、書くものを貸してください」


 ほんの少し。

 ほんの少しだが、いつものMさんが戻ってきたようで、俺はちょっとだけ安心していた。

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