【Y=3】白とも黒とも判断ができない
不完全性が証明された。
Mさんはそう言った。
「さっきMさんが言った、数学は不完全なもの、っていうのは、そのことですか」
Mさんがゆっくりとうなずく。
「ヒルベルトをはじめとした数学者は、こう考えていました。数学という確実な方法で、一つ一つ証明を積み重ねていけば、どんな真理にも辿り着ける、と」
それは数学だけじゃなく、科学全般に言えることじゃないだろうか。
物理でも化学でも生物でも、少しずつ進歩していって、世の中の謎をどんどん解き明かしていく。俺が文系だから、そう思っているだけなんだろうか。
「そんな壮大な目的のため、『ヒルベルト・プログラム』の名のもとに世界中の数学者が集まっていたときでした。当時、まだ二十代だったクルト・ゲーデルという数学者が、証明をしたのです」
Mさんは用紙の余白に大きく『ゲーデルの不完全性定理』と書いた。
「ゲーデルは数学の文法を用いて、数学の不完全性を証明したのです。あまりにも衝撃的な証明だったため、“ゲーデルショック”と呼ばれたほどでした」
真理に手を伸ばそうとみんなで協力していたら、それは幻想だと叩き付けられたようなものだろうか。
「『ゲーデルの不完全性定理』は二つの定理で構成されています。有名な定理なのでご存知かもしれませんが」
いや、例のごとく、全く知らない。
Mさんは用紙の下部に『第一不完全性定理』『第二不完全性定理』と縦に並べて書いた。
カレンダーの裏という大きなメモ用紙がフル活用されている。
———————————————————————————————
完全性 ← \ /
[ヒルベルト・プログラム]
無矛盾性 ← / \
●ゲーデルの不完全性定理
・第一不完全性定理
・第二不完全性定理
———————————————————————————————
「“第一不完全性定理”はシンプルです。『ある矛盾の無い理論体系のなかには、肯定も否定も証明不可能な命題が必ず存在する』、というものです」
「ええと……」
Mさんの難解な言葉を必死でオセロに置き換える。
「矛盾の無い理論体系っていうのは……さっきの例で言うと、“白”と“黒”が混ざった不良品みたいな石は無い、ってことですよね」
Mさんは小さくうなずき、俺の言葉の続きを待ってくれる。
「で、肯定も否定も証明不可能な命題、ですっけ。正しいとも間違ってるともハッキリ言えないってことですよね。……要するに、“白”とも“黒”とも判断できないものがある、って感じでしょうか」
「その通りです」
そう言って、Mさんはおもむろにオセロの石を縦にして盤上に置いた。
「このように、証明することも反証することもできない。そんな命題が存在することが、証明されたのです」
“白”とも“黒”とも言えないもの。
立てられた石が盤上でゆらゆらと動いている。
こんな不安定なものが在ると、証明されてしまったのか。
これはたしかに不完全だ。
「あ、これ、俺じゃないですか」
「え?」
Mさんが不思議そうな目で俺を見る。
「いや、今、俺は疑われてるわけですよね。浮気をしたとかで。正直、全く心当たりは無いんですけど」
ゲーデルの話のおかげで、俺も、そしてMさんも、少し冷静になれた気がする。
もう一度、ちゃんと話をしよう。
「俺はシロのつもりですけど、それを証明する手立てはない。Mさんは俺をクロだって言うけど、なんでそう思われてるのか、俺にはわからない」
立てられたオセロの石を指でコロコロと動かす。
「なんで俺が浮気をしたって思ったんですか? ちゃんと教えてください。そうじゃないと納得できない」
パタン、と石を倒す。
もちろん、シロの方に。
「……そうですね」
Mさんはようやく俺が出したお茶に手をつけて、こくりと飲んだ。
そして、ぽつりと言う。
「目撃証言が、ありました。あなたが知らない女性と手を繋いでいる場面の」
想像だにしなかった言葉に、俺は衝撃を受ける。
きっと、ヒルベルトさんが受けたゲーデルショックと同じくらいの。
もちろん、そんな心当たりは全く無い。
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