1-3-11)田中花

 告白は唐突だ。けれどもその可能性は板垣から田中花という名前を聞いた時点であり得ていた。もっと言えば、屋代家で死に返りを聞いた時点で、か。

 言葉もなにもかも成さなかったそれが百パーセントの泥でないのは不可思議で、それでいて百パーセントでも田中花と主張するだろうという予想は自然だ。

 スワンプマンという言葉は、ただの記号でしかない。山田はおそらく、田中が思うよりも随分と単純なところがあった。

 直臣が直臣と判断するのなら、山田は彼を直臣と理解する。それでも自身を優先した。あれは山田の罪悪である。直臣が直臣でない、一度死んだなにかわからないものだったから横須賀に任せたわけではないのだ。山田は直臣だとしながらも、ある一点では優先順位を下げ、そして我欲を優先したのがあの日。だから山田はその存在の是非を判断はせず、ただ理解をし、選び、捨てた事実だけがある。危険があるとしながらもまさかあの結果が訪れるとは考えなかった、山田の短慮だ。山田はその事実を失わない。

 だからこそ、山田は単純だ。直臣の時から変わらない。田中花が田中花だと判断するのなら、山田は田中花と理解する。それ以上を山田は決める立場にいない。

 佐藤が聞いたら顔をゆがめるかもしれない。だとしても山田はそういう人間だ。他者を他者は理解しない。コミュニケーションにより成り立つ世界で、自己すら理解が難しいのに他者の定義までするつもりがなかった。

 ともすれば、思考の停止。けれどもそれは逸見五月という人間にとって当たり前の、山田の本質だ。それが何者であるかよりも、それがどう成り立つかの方が重要であるという考え方。

 死んだ田中花を思う家族だとか友人だとか、近い人間だったらまた別の基準があるだろう。そういった人間の判断を、山田は否定しない。これはあくまで山田の理解でしか無く――そう、たとえばこれが自身の兄ならば、山田も目の前の存在を受け入れられたかどうか。山田は今無きもしもに内心自嘲した。おそらく、山田はそれを認めない。同時に目の前の存在を泥に沈めることも出来ないだろう。

 山田はそういう人間だ。無条件に信じる無邪気さも、罰する強さもない。ただ、生きている。それが答えだ。生を絶つ判断を、山田は出来ない。それをしてしまえば、たとえば誰かを救うために誰かの命を奪う判断すら正しくなってしまいかねない。そんな覚悟などないし、一瞬でもそれを喜んだ、あの日の自身が抱いた罪悪を肯定することは山田太郎を否定することでもあった。

 無責任で自分勝手な臆病だと山田は自嘲しながら、それを山田の倫理ともしている。

「アタシは、泥神様に知を届けるだけのもので、四〇パーセントは戻った後でさ」

 山田の内心を知らぬまま、とつとつと語られる告白は人の理解を超えている。それでも山田は聞くだけだった。

 言ってしまえば、それだけが山田に出来ることなのだ。話をしましょう。事件の度山田は依頼人、被害者、関係者にそう言葉を差し向ける。なにもかも理解する物語の探偵に、山田は成り得ない。市民を守り危険に立ち向かう警察にも成り得ない。

 たとえ事件の渦中に踏み込んでも、山田はまず山田を守る。そして依頼人、被害者、関係者。そこから掬ういくつかのピースをはめ合わせて、ひとつの終着点を探すしかないのだ。

 誰もが納得する真実を見つける頭脳も、誰かが救われる強い力も山田は持ち得ない。

 だからこそ、田中花が語る言葉聞くのだ。そのピースを田中に並べさせる。その上で、山田は山田の主観で、判断する。

「アタシが歩けるようになってから、白鷺病院でいくつかのをした。アタシが泥神様に届けるのは六〇パーセントでよくて、四〇パーセントは白鷺病院の研究所にいた鼠と、猫と、犬に貰われた」

 貰われた。その言葉選びに疑問を示すように山田がやや顔を動かすと、ん、と田中は小さく声を漏らし微苦笑を浮かべた。

「泥神様は召されまし、安泥あんでいきんを紡ぎまする。泥神様が召しますは、暗澹あんたんきんでござりまする。泥神様の召しますは、安寧あんねいきぬでござりまする」

 それはするりと紡がれる音だった。つい身構えそうになる自身を押さえ、山田は黙したまま田中を見る。

 ともすれば呪文と言えるようなその音は、わらべ歌の詞にもあったものだ。先に調べた資料にあったもののひとつで、百戸森の泥神伝説に関係するもののひとつ。

「泥神様の思し召し、泥神様のお目示し。泥神様に伝えまし、泥神様に祈りまし。……知ってる?」

 惰性とどうしようもない自嘲を瞳で歪めたような表情に、山田は憐憫を示さない。ただ、事実として首肯した。知っていることを隠す必要はなく、小さく息を吐く。

「百戸森戻りておし召して、だろ」

「うん。山田はいろいろ知っているね。それが、全部だよ」

 田中は静かに目を伏せた。百戸森戻りて教召して、泥神様を召されまし。ぐるりめぐりてひとなりて、泥神様を召されまし。続くのはそういう詞で、おそらく山田が屋代の屋敷で想像したものとあまり違いはないのだろう。

 は、と田中が吐いた息は白い。

「アタシもそんなに知らないんだけれど、泥神様は見ることを、知ることを望まれた、らしいの。人に成るために、泥神様は求めている。

 だから泥は分け与える。その分け与える場所は別に人じゃなくてもよくて、アタシの四〇パーセントはさっき言った鼠、犬、猫。泥は血と混ざって、そのまま眠る。還る合図はヤシロ様がなさって、アタシは見送り係。板垣が見たのは泥が戻った後のそれだから、もうおしまいなんだ。百戸森は、戻る場所。戻森もどもり

「アンタはどうなんだ」

 残りの六〇パーセント。あくまで素っ気ないまま尋ねた山田に、田中は苦笑した。

「アタシはに泥神様に伝え終わっている。アタシの六〇パーセントは、アタシがアタシであるうちはアタシのもの。届ける時は、アタシが死んだ後かな。子供ができたらその子に巡るけど、子供の中だとあんまり泥は育たない。アタシの泥は、減った後もアタシの中で増える、んだっけかな。六〇パーセントまで。水と言うより血液みたいなものだからアタシの場合は」

 言葉だけで信用できるかどうかといったら不明だろう。ほんの少しふるえる指先は、田中の信仰と田中自身がいびつであることを示している。信仰が嘘というわけではなく、単純な話だ。田中は田中花だと言う。その自我を、捨てたいと願っているわけではない。

「だから多分、大丈夫。泥は戻るしかできないから、板垣は危なくない。アタシがアタシじゃなくなったとき、泥は戻るはずだけど。それがどうやってかはわからないから、そのときになにがあるかわからないから多分だけど。ほら、板垣とアタシは知り合いなだけだし。ダイジョーブ。いつか誰かと子供は作らなきゃいけないけど、子供についてはまあ、誰でもいいんだ。アタシじゃなくてもいい。山田が死に還りについて知ってるなら、わかるだろ?」

 穏やかな事実の羅列に、山田は眉根を寄せた。単純な話だが、納得するかどうかはまた別だった。

 田中花の言い分は素直に受け取れる。親から子に正式に伝達するのなら、十年に一度の儀式は必要ない。もしくは、もっと不定期になるだろう。死に還らなければ泥神の言葉が届かず、また泥神に知が届かない。だからこそ人の中でつながりながら、泥神が関わる儀式が必要なのだろう。

 その儀式に必要なものは、山田が見ただけでも泥神の系譜である佐藤たちをはじめとする屋代家の関係者達、つくしの里から得た千重、儀式を行う泥野。泥神が足を怪我していた田中花を治したということは、なにか神経に関わるのか、それとも死に還る故のものなのかは不明だが――田中花の意識は田中花であり、泥神への信仰がありながらも田中花を捨て去れないのは幸いというべきかどうか、山田にはわからない。

 それでも山田が眉根を寄せたのは、田中花への憐憫ではなく、どうしようもない事実からだ。

「貴方は田中花でしょう」

「うん」

「なら、貴方はやはり人の目があった方がいい」

 山田の言葉に、田中が不思議そうに首を傾げた。ため息と一緒に山田は眉間のしわをゆるめる。どうしようもないことを山田はどうしようもしない。そんな力がある人間ではない。

 ただ、山田は人と関わる仕事をしている。

「これを」

 山田がコートのポケットから無造作に取り出したのは、木工細工だ。それを田中に差し出すと、田中は不思議そうに瞬く。

「富泥野の泥神信仰で出てくる、壷を代々受け継いでいる人間の作ったものですよ。富泥野の話は知ってますか」

「知ってはいる、けど」

 受け取ればいいのかもわからないまま田中が答えると、山田は木工細工をくるりと回した。どちらが裏か表かもわからない、しおりのような形に細工を彫っているものだ。細かい細工を田中が観察するには、光が足りず距離がある。

「泥神の土で作った壷の中に山のモンを閉じこめたものの、そいつは存在している。そこに声を入れて宥める時に、木の型で囲って声を馴染ませる。この細工を作った人間は儀式に詳しくない人間だが、そういうことを繰り返した人間のモンだ。まじない程度にはなる」

「おまもり……?」

 そういうのも奇妙で仕方ないというような戸惑いを含んだ疑問に、山田は小さく笑った。皮肉じみているのにやけにトゲがないのは不可思議で、しかしそれよりも山田の言いたいことの方がわからず田中は眉をひそめる。

「アンタのことは警察、俺の知り合いでこっち関係に詳しい人間に教えておく。貴方が望むなら、この細工を作った人間のとこもありだが――生活もあるだろうし、それは可能性だけにしておく」

「ごめん、意味がわかんないんだけど」

「人の目は足枷であり武器ですよ」

 はっきりとした断言に、田中が口の端を下げる。くつり、と笑う山田は、ほんの少しだけ顔を伏せた。

「邪魔だし面倒だし無い方がマシに見えても、どうしようもないときになにかが増える。マイナスだけの時もあるが、貴方が求めればそれを増やせる提案をしているだけです」

「なんで、そんなこと」

 戸惑いに山田は顔を上げた。これは勝手な提案だと、山田もわかっている。それでも山田がここにいる理由を思えば、大丈夫、という田中の言葉にうなずくだけでは足りない。

 だってそうだろう。

「田中花を見ている人間が既にいるからですよ。そこからの縁だ」

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