1-3-9)願う声

 田中の純然たる問いかけは、不思議そうですらなかった。困ったように山田は微苦笑を浮かべて、いえ、と否定を返す。

「正直探偵の手に余ります。私が行うのは調査ですから。ペット探し、事件になりきる前の心配事の原因究明までが関の山。板垣さんとお話しして、ここから先は警察に任せる予定なんです」

「でも調べてるってことは、誰かのペットが混ざってた?」

「いえ」

 田中の疑問に、最後の否定はその一言で終わっていた。言葉を続けず、あくまで笑みで見返す。それ以上は疑問の答えを返しはしないと示すような姿に、田中は顎に手を当てた。

「んー、アタシがなにか見てないか、ってことか」

「ですね。あと、貴方自身が見ていなくても貴方が見られていた可能性もある」

 考えるような田中の言葉に寄り添うように山田は言葉を差し込んだ。見られていた、との言葉に、田中が眉をひそめた後ゆっくりと首を傾げ板垣をみる。

「……板垣のこと?」

「板垣さん以外にも、動物を悪戯に殺した犯人に見られた可能性があるという事です」

 悪戯、との言葉に田中から少し表情が消えた。しかしそれが気のせいかどうか考える時間も無い程度のもので、微苦笑を浮かべた田中が頭を掻く。

「大丈夫だと思うけどなあ。まあ、板垣に見られてたの気づかなかったけどさ、見られたってアタシ散歩してただけだし」

「貴方は見ていなくても、非情な犯人が貴方を見て「見られた」と勘違いをし、口封じをしようとするかもしれない。愉快犯が対象を変えるきっかけの事件になるかもしれないし、その日散歩していた貴方と貴方をみた板垣さんは、私からすると正直だいぶ心配ですよ。私が親なら警察に相談させて、夜間の一人行動はできるだけ避けさせる。近辺をうろつくなんてもってのほか、なんて思ってしまいますね」

 山田の言葉に、はは、と田中が笑った。山田があえて眉をひそめると、ごめんごめん、と愉快そうに笑いながら謝罪が返る。

「山田、見た目の割に心配性っつーか過保護なんだな。それに親って、イメージできなくて。歳そんな違わなそうだもん」

「そうですか? 私の歳でもあり得ないってことはなさそうに見えますが」

「アタシだいぶ若く見えてる? 二十五だよにじゅーご」

「おや、それは失礼」

 別にいいけどさあ、と笑う田中は気分を害した様子を見せない。板垣から聞いていた年齢とも調査報告の書類とも間違いがないのを確認した山田は、ややおおげさに肩を竦めた。

「私はアラフォーなのでそれなりに違うのは変わりないですけど、まあそうですね、子供には大きい。でも、他人を子供と見なす趣味はありませんが危険であることは事実ですよ。ご自宅が近いのだとしたら余計――ああそうだ、ご自宅は科那江市ですか?」

「いや、科那江にはちょっと出かけてたんだ。ここからだとさすがに遠いだろ? 普段は向こう行かないし、そんな心配しなくても大丈夫だよ」

 心配ない心配ない、と続ける田中に山田は息を吐いた。そうですか、という音はさほど興味なさげな色をしていて、あっさりと地面に吸い込まれて消える。

 少しの空白に、横須賀がメモ帳をめくる音が挟まった。

「田中さんはなにも見ていない、と解釈してよろしいでしょうか?」

 確かめるように、山田が改めて問いを重ねた。ぱち、と瞬いた田中が肩を竦める。

「まあ、アタシはあんま。気にしてないからなぁ、板垣がアタシを見たって聞いたけどアタシそんな周り見てないし――」

「板垣さんが見かけた場所をご存じないようですが」

 田中が困ったように言葉を連ねるのを、山田がそこで遮った。遮ると言うことは聞く姿勢よりも一歩、発する色が強くなる。じ、と山田を見る田中の表情は穏やかだ。

んですか?」

 山田の言葉はそれまでよりも、やや一音一音がはっきりとしたものになっていた。板垣の緊張を見て取ったのは、おそらく山田だけではないだろう。

 それでも田中は、静かだった。

「アタシ鳥目だから」

 言葉の後、へらっと笑った田中は相変わらず人の良いものだった。白いマフラーの裾を遊ぶように握り、手をその中に隠しながらもじっと見返す先は山田である。山田はしばし黙し続く言葉がないのを確認すると、先ほどの問いかけから変わらぬ調子で口を開いた。

「板垣さんは、貴方を白鷺病院で見たと言っていますが」

「うん」

 穏やかな相づちは、肯定というには穏やかすぎた。相づち以上にならない、それでも肯定に使われる二文字。意味を成さない相づちととるには、このタイミングではやや難しいもの。それでも意味を持ち得ないほどの穏やかさ。

 板垣が田中を見る。田中は、板垣を見ずに白いマフラーを見下ろしていた。田中の伏せたまつげが、夜の照明から影を作る。横須賀のペンが、揺れる。

「……散歩の目的を伺っても?」

「散歩の目的なんて、普通はないんじゃないか? 散歩がてらコンビニに行く、とかはあるけどさ」

 山田の疑問に、田中は疑問で返した。そうですね、と山田は頷き、しかし聞く姿勢を崩さない。

 ぶしゅんっ、と破裂音が響いたのは、板垣からだ。

「すんませ、」

「なんか話長くなっちゃいそうだな。板垣、先帰っとけよ。風邪引くぞぉ」

 板垣のくしゃみに田中が穏やかに笑う。平気だ、とむっつりと答える板垣の背中を、ぽん、と田中は叩いた。

「探偵さんはアタシに聞きたいことがあって、板垣はその付き添いだろ? どんなひとたちか、ってのはわかったし、だいじょーぶ。そこのお友達とファミレスでおしゃべりしてたらどうだ?」

 なあ、と続ける田中に、山田は頷きも否定もしなかった。すぐに終わる、と先に告げていた。用件だけで言うのなら見たものを答えればよく、なにも見ていないと既に宣言されている。追加の質問は、散歩の目的。返ったのは回答に足りなかったものの、それが答えでも十二分に押し切れる。長く掛からないって言っただろ、と言って、押し帰すことだって可能だ。

 けれども田中が選んだ言葉は『長くなっちゃいそう』だ。答えが出きっているのならあり得ない。ならばいくらか話すことがあるという姿勢。

 板垣を気遣っているのか板垣に聞かれたくないのか、それとも両方か、はたまたなにかしようと企んでいるのか――横須賀を板垣に連れ添わせる提案は、もし後者だった場合田中の提案を汲むことはやや危ういと言えるだろう。

 けれども山田がそれを切り捨てるには、少しばかり別の要素が多すぎた。

 もし板垣に聞かれたくないだけでなくそもそも多くの人間にあまり語りたくないのだとしたら、話しやすい環境を整える必要もあるわけで。

「だったら一緒にファミレスで良いだろ。田中だって風邪引くぞ」

「アタシはマフラーあるからだいじょーぶだって」

 にこにことマフラーの端を上下に揺らし、田中はそのままマフラーに顔半分を埋めた。朗らかな唇が隠れても、柔らかく弧を描く瞳は優しい穏やかな表情をそのまま伝えてくる。

「な、板垣」

 話しかける声は、寛容を望む音をしていた。板垣の息が白む。寒さで赤い鼻を人差し指の背で押した板垣は、じっと田中を見た。

 はくり。声にならなかった音があったことを、冬の夜は暴いてしまう。

「……横須賀は仕事で必要だろ」

 板垣の言葉に横須賀は三度瞬いた。メモ帳を見、山田を見、田中を見、視線を戻し終わるとこくりと頷く。そうだなぁ、と田中が漏らした声は、微苦笑を含んでいた。

 微量な苦みは、穏やかなあきらめのため息を作る。

「贅沢言っちゃ駄目かなあ」

 あきらめの色は、しかし同時にどうしようもなさに微笑むしかないような声を含んでいた。田中の表情を見、板垣を見た山田は、とすり、と横須賀に近づく。

「メモ帳貸せ」

「はい。えっと」

「それでいい」

 手に持っているものと鞄の中で迷った横須賀に、山田は横柄に言い切った。横須賀がメモ帳のページをめくりなおし、ペンを添える。

「どうぞ」

 開き渡されたのは横須賀が先ほど書き始めた最初のページだ。様子を窺う田中と板垣が声をかけないのを良いことに山田はぺらぺらとメモ帳を雑にめくり、ペンを持ち直す。

「板垣さんと一緒に待機してろ。用があれば呼ぶ」

「わかりました」

 横須賀は素直に首肯した。板垣の表情がなにかいいたげに歪むが、山田を見下ろす横須賀は案の定気づかない。とん、と横須賀の手首あたりを促すように手で押した山田は、田中を見上げた。

 驚いたような表情が、ややあって安堵に変わった。眉を下げたゆるい笑みは、懇願が叶ったような言葉にならない感謝だ。横須賀と板垣が背を向け進むのを少しだけ見送った後、山田は開いていたメモ帳を仕舞った。

「話をしましょう、田中花さん」

「うん」

 肯定は穏やかで落ち着いている。故に一つ、面倒だ。その面倒を内側にしたまま、山田はおもむろにつま先で地面を軽く鳴らした。磨かれた革靴がほんの少し擦れ、しかしそれは夜に紛れる。

 横須賀のメモにあることは、事前に得た情報のようなものとは違う。ただ、横須賀から見た田中の様子だ。

 視線の動き、言葉と体の様子。それらは雑然と、それでも横須賀のルールで走り書かれている。その内容から推測するのは山田の仕事。そして、話を促すのも山田だ。

 だから、この先は一人でいい。

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