1-2-16)返らず、足りず、終ず

「必要ないさ。俺にはこれっぽっちも、必要ないんだ」

 言葉は、存外穏やかだった。浮かんだ嘲笑と分離したような穏やかさは、憐憫すら含まない。泥野がじっと山田を見つめる。手を引くか否か。否定が拒絶に足りず、そうして同情でもないからこそ泥野はその判断が遅れた。

「泥野さん」

 これまで山田が泥野を呼ぶとき、敬称を付けていても敬意がひとつ足りない音だった。にもかかわらず、たった今続いた音はまっすぐと泥野に向き合った。伸びた背筋と同じだけまっすぐに。サングラスに隠れた瞳の意味を、泥野は知り得ない。

「終いにしよう」

 泥野の眉が少し動く。それは恐らく不服か、いぶかしむものか。どちらにせよ山田の言葉への肯定ではないと、山田は理解する。

 素直に言えば、泥野は先ほどまでの興奮がひどくつまらないもので退屈に変えられる心地だった。終いという言葉ほど泥野の望まないものはない。これは連なるものだ。続けねばならぬものだ。生涯をかけても終わらず、ただ、ただひたすらその時が来るまで続けられてきたもの。

 泥野にとってこれは、恩恵を正しくするためのものだ。幼き時から、ずっと。伝えられた時から、いや、そもそも生まれたときから泥野には決まっていたことだ。今更終わることなどない。

 結局言ってしまえば、これは終わる日を待っているのだ。偉大なる、すばらしきものが起こす祝福を。たとえ今の覧に間に合わずとも、泥野はひたすら、ただひたすらに。でなければ終わらない。全て返し切れていない。探偵は知らないのだ。広めることと戻ることの意味を。

「アンタのしてきたことを俺はおそらく予想ができている。そしてもう、それは成り立たない。終わるきっかけだと思わなくてもいい。ただ、運が悪かったんだアンタは。もう、終いだ。だからアンタも終いにすべきだ」

 泥野はようやく、差し出していた手を引いた。それは了承ではない。申し訳程度に張り付けた笑みのまま、山田を見下ろす瞳は冷たい。

 もっと年若いときなら、泥野は強硬手段に出ていただろう。今はまだそうするには足りず、しかしすべき時が来たときのために泥野は拳を下げた。腰に下げた鍵の数は変わらない。身につけているのだから当然で、泥野は小さく呼吸を整えた。

「なにをおっしゃっているのか、少々理解しがたいですね」

 取り繕ったものではなく、それは泥野の本音だった。それでいて言葉を引き出すための一歩でもあった。山田の言葉は曖昧だ。おそらく知り得るだろういくつかはわかっても、そこからさらにいくつを知っているのかわからない。

 成すことをやめろ、というのはわかる。それでもその成すことをどこまで踏み込んでいるのかわからない。泥野にとっては結局どこまででもどうでもいいが、せっかくの興奮を退屈に変えた探偵に、最後の期待と機会を渡す。

「足りないひとりは増えたひとりだ。きっとそれが原因。遠目にみて人の形をしたなにかであるのなら、そういう大きさであり得るもの――どろン子さんだとかそういう、泥に関係した人間のようななにか、だ」

「お伽噺ですよ」

 あり得るというには滑稽だろう。むしろそれはあり得ないと言える推測だ。常識的観点でもって、泥野は笑った。同時に、またあのもったいないという心地が沸き上がる。

 何故そこまで判った上でこの探偵は終いを選ぼうとするのか。そしてそこまで判りながらもやはり真実に一歩遠いことが、泥野の優越感を誘った。選ばれていないのだから当然だが、踏み込んだ山田の足りなさと過ちは愉快なものがある。

 だってそう、お伽噺は本物には欠けている。

「可能性の話さ。子供がなにかの面倒を見るのも、その子供がなにかを知るのも、その子供が持ち得ないことを望まれたのも」

 声は静かなまま、しかしそのサングラスは泥野を映すことを止めない。その外見には見合わない、ひどく穏やかな追求だ。さり、と、玄関の床を擦る。乾いた泥が小さく音を立てた。

 そうして泥野は思い至る。衣服に乱れがないから悟らなかったことの意味が、はっきりと形を成した。

「行かれたのですか」

 泥野の問いに、山田はゆっくりと笑みを浮かべることで答えた。言葉はないが、状況で核心する。いくら玄関で泥を落としたところで多少は汚れが残る靴が磨かれていたのは、再度外に出たからだ。車に予備があるのかどうかまではわからない。この雨の中外を歩けば来たときよりも悪化する。それを隠したからこそ、靴が汚れていないのだ。

 ならばなぜ子供の場所を聞いたのか。なにを望んでいるのか泥野にはわからず、しかし小さな動揺は呼吸で外に捨てた。

「見たのなら理解されると思ったのですが」

「なにを根拠に言ってるか知らねぇが、俺は他人を使う怪しげなモンを良しとしない程度には良識的な一般人だぜ?」

 くつくつと、山田が少しだけ顎を引いて笑った。ふざけた物言い故にともすれば相手を激高させるかもしれないその言葉は、しかし泥野にとっては警告を成していた。

 どこが良識的だ、なんて泥野は言うつもりはない。確かにこの探偵は好ましくない態度を見せるが、明らかに泥野の手段を糾弾しているのだ。

 だとしても泥野は、山田のその知り得るにも関わらずあくまで常識に近い感性にため息をつきたくなる。

 無駄なことだ。ただただ、無駄な徒労。

「子供を保護したなら、それで良いのでは? 屋代家の子供を誘拐したというのならば警察に出しますが、貴方の成したいことは違うのでしょう。なぜ居場所を聞いたのか不可思議ですが、お休みなさるか、それとも共に参りますか?

 あの子は屋代家として務めを果たしているだけです」

「子供を保護するだけじゃ、終わらねえだろ。終いにするんだよ壷泥棒サン」

 泥野の顔から、笑みが消えた。それは核心を突かれた動揺からではない。泥野はまっすぐと山田を見下ろし、ひとつ認識を増やした。

 恐らく山田は声壷の件を知っている。あの子供が失敗するのは予測していたが、関わったのがこの探偵だったことは偶然とは言え運命じみていた。ならば声の理由も知るのか。どちらにせよ、そう、足りないまま探偵はずぶりと一歩踏み込んでいる。

「私は百戸森から出ていませんよ」

 静かに、言い聞かせるように泥野が答えた。微苦笑を含んだ音は、しかし表情にまで変化を乗せない。山田はそのことを指摘せず、あっさりと首肯した。

「だろうな。そこを論じるつもりはねぇし、壷についても未遂だ。ただただ、終いにするにはアンタに諦めてもらう必要がある」

「なにをですか? 貴方の言う子供は」

「人の死だよ」

 とん、と落とされた言葉は特別な色を含んでいない。あっさりとした言葉はまだ予想の範囲内から出もしない。泥野は小さく首を傾げた。

「矢来様がおっしゃっていた件ですね。屋敷で人が死ぬという話。しかし誰も死んでいないのに諦めるもなにもないと思いますが」

「『死に返り』と言われているらしいな」

 泥野の否定を、山田は別の言葉で遮った。それは会話と言うには突拍子もなく、しかし確かに会話の中身には触れた内容だ。泥野の瞳が弧を描く。

「死んでいない、でしょう」

「死んでいるさ」

 二人の言葉はかみ合わないようで、しかし意味は成していた。泥野はついに笑い声を漏らす。再度こぼれた音は先ほどよりも愉快げな色が強い。山田の表情は変わらず、とん、と綺麗すぎる革靴が床を鳴らした。

「ここで死んでもらうことがアンタの務めなら、それを止めるのが探偵の務めかもな」

「お連れ様と貴方で、私をどうにかするつもりで?」

 山田の言葉に、くすくすと泥野は笑いながら尋ねる。あの大男が加われば可能ではあるだろう。編集者の協力も得ているのだし、手は今見えるよりも多いはずだ。

 それでも、泥野は気配を探るつもりはさほど持たなかった。静かな屋敷だ。スイッチの場所が複数とは言え、躍り出ればよく見えるだろう。しかし、見えることが理由ではない。泥野は元々暴力的に優れた人間では無いし、なにより老いた。見える未来はひとつで、だからこそ、足を少し引く。

 外に出ればなんとかなる? 否。ひと呑みには足りない。けれども、そう、糸を切ることだけは出来る。もったいない、その理由が冒涜でもあるが、泥野は笑っていた。

 だって結局、

「それじゃあ終いにならない、だろ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る