1-1-15)チエ

「チエを、返してくれるっていったんだ」

 ぽつりと子供が落とした言葉に眉をひそめたのは横須賀だ。対して、山田は表情を変えない。

「返してくれる、か」

「そう。チエはヤシロ様の元に行ったけれど、俺とチエは一緒にいたかった。ヤシロ様のところならチエは幸せになる、って言われて、俺は我慢しなくちゃいけなかったんだけれど。でもさよならも出来なかった。だから俺はヤシロ様のところに行って、――でも、チエはいなかった」

 ヤシロ様。チエ。横須賀は単語をメモ帳に書き込みながら、子供の苦しそうな表情に眉根を寄せた。子供の説明は主観で進むためそれらがなにかはわからないが、チエ、という名前が子供にとって大切なことはよくわかる。

 山田はあくまで子供の言葉選びを遮らず、いなかったんだね、とだけ復唱した。

「ヤシロ様の家の人が言ったんだ。チエはしなきゃいけない事があるんだって。チエは声が出ないんだけれど、そんなチエだから出来ることがあるって。もう会えないって。お屋敷にいるなら一目だけでも、って言ったんだけれど、やらなきゃいけないことがあるからいないって。おかしいって思ったんだ。だってチエはまだ八歳なんだよ? それなのに、施設から引き取った家にいないでなにをさせているって言うんだよ!」

 最後の言葉は叫びに近かった。大声でないのが不思議なほどの悲痛な叫び。チエ、八歳、施設。ヤシロ様、家の人。単語が少しずつ増えていき、子供の表情は険しくなっていく。

「チエに会いたいんだ」

「そう、チエに会いたかった。でも話を聞いて不安になった。俺、あんまり頭良くないけれど、それでもおかしいって思う。ヤシロ様の家の人は俺のこと心配してくれた、みたいで、『声が出ないから必要なんです』『チエ様の声が出れば、出来なくなる』『――声を拾いに行ってみますか』そう言って、この場所のことを教えてくれた」

 子供の顔が先ほどの壷に向く。もう、手にすることはない。その蓋を開けることも、求めることも。それを許されないことはわかっているのだろうが、しかし諦めきれない戸でも言うように表情は険しい。

「声壷は元々泥神様のものだから、そこに入れてあるものを貰ったって構わないだろうって。元々これはなんだ。ただ返して貰う理由がないから、拾いに行くならその理由を言ってはいけなくて。チエ、チエの声が欲しかったんだ。

 俺は、チエに会いたい。そりゃいいところに貰われたけれど、その場所でなにをさせられているかわからないなんて、そんなの怖い。寂しいだけじゃなくて、最後のお別れだけじゃなくて、チエは、チエがいる場所はもっと」

 その先は言葉にならなかった。どう言えばいいのか、なにを望んでいるのかが曖昧なのだろう。理想とするものがはっきりと言語化できるほど近くなく、しかし違うことはわかる。そういうような子供に、そうだね、と山田は頷いた。

「もっと優しい場所がいい」

 山田の言葉選びに目を見開いた子供は、すぐにぎゅっと顔をしかめた。泣きそうな、少し悔しそうな色は言葉にならない。ただ、こくりと首肯が返った。

「チエ、は君の妹?」

「妹。俺は施設で暮らしているんだ」

 子供の言葉に山田は頷くと、それじゃあ、と言葉を返した。

「君の話はわかった。いくつかすりあわせをするためにも質問をするよ」

「……」

 逡巡を見せた子供は、しかしこくりと頷いた。横須賀はそれにあわせるように、メモをめくる。

「君の名前は?」

「シゲユキ。重なる、に幸せって書く。チエは、数字の千に重なるって字」

「ヤシロ様は、知っている人?」

「見たことは少しだけ。昔施設に寄付してくれてから、ずっと施設の経営によくしてくれているんだって」

「施設の名前は?」

「つくしの里」

 質問と答えが繰り返される。しかしややあって子供――重幸しげゆきの顔を見据えたまま、山田は問いを止めた。

「こちらで調べることはいくつかある。その間、君はいくつかしなければならない」

 問いの代わりに続いたのは宣言だ。びくり、と少し体を強ばらせた重幸は、不安そうに山田を見つめる。

 にこり、と山田が浮かべた笑みは穏やかだ。サングラスで瞳が見えない故の底の知れなさを、まっすぐとした声が覆う。

「重幸は警察で保護をして貰う。君が最初に願い出た土蔵さんから窃盗の被害届を出す形だな。どういう理由であれ犯罪だ。ヤシロ様についても調査が入る」

「それ、は」

「これは決定事項だ」

 穏やかな語調は、静かな断定で閉じる。ぎゅ、とまた重幸の拳が固くなり、それに会わせるように山田は息を小さく吐いた。

 それはため息と言うには優しく、少し憐憫めいた色を含んだ呼気だった。

「あちらも君が失敗する可能性を考えると思うんだ。だから、すぐになにかあるってことはないと思う。君が間違えた、という結論を出すには早すぎるんじゃないかな。君がなにを答えたか、どういう理由かまで警察は誰かに教えたりはしないはずだよ。大丈夫、この手の事件にはそれなりの経験がある部署が対応する。時間を稼げば――」

「だめだ」

 今度の断定は重幸のものだった。山田が口を噤み、重幸を見る。重幸の逡巡は、長く無かった。

「……俺はあんまり、詳しくないけど。でも知ってるんだ。ヤシロ様は、ちょっと変なんだ。だから、俺のことだってきっと、チエは」

 そこで重幸は口を閉ざした。言葉にする形がわからないのか、言葉にしたくないのかまでは理解できない。顔を伏せた重幸を、山田は覗き込んだ。

「重幸に頼んだのは、ヤシロ様じゃないんだろ?」

「うん」

「重幸は、ヤシロ様が何をしているのか知っている?」

「知らない、けど」

 けど。続きを示唆する言葉に、山田はじっと次を待つ。重幸は顔を伏せたまま、ややあって息を吐いた。

 長い呼気は深呼吸じみている。吐いた分吸い込んだ空気で、重幸の胸がゆっくりと上下した。

「ヤシロ様は、何度か施設から子供を引き取っていて。頭のいい子を大学まで支援する為、らしくて。でも、施設を出た後、落ち着いたらまた施設に顔を出すって言っていた人が来たことはないって、斉藤さん――事務員さんが言っていたんだ。

 引き取った子が大学卒業してしばらくしたらまた新しく引き取る、ってペースだから、そんなにたくさんじゃないし偶然かもしれないけれど。でも、なんだかちょっと、変、で」

 つっかえながら話す重幸の表情は、山田の顔色を伺うようだった。自分の言葉に不安があるのかもしれない。新しく出てきた名前を隅にメモした横須賀は、ちらりと山田の顔を見た。

 当然と言うべきか、山田の表情はサングラスでわからない。それまで反応を見せなかった山田は、重幸の言葉が再度とぎれたのを確認するとのぞき込んでいた姿勢を伸ばし直した。

「……それでも警察に行くのは決定事項だ」

 口を開いてからほんの少し遅れて出た音は平坦だった。不安そうな重幸を、山田はまっすぐと見据える。

「そもそもテメェが戻ったところで、チエが助かるわけでもない。声を持ち帰らせる事はないし、メリットがネェんだよ。テメェを心配する人間に対してこれ以上迷惑かけるわけにもいかないだろう」

 粗野な物言いに切り替えた山田の言葉は、重幸にとってどうしようもないものだ。顔をゆがめた重幸は、少し飲み込めない様子で「心配」と繰り返した。

 山田は大げさなため息をその復唱に重ねると、革靴をとんと鳴らした。

「テメェがチエを心配するように、施設の人間も、ただ関わっただけの土蔵さんも心配してんだよ。心配に答える義務はネェって言うのも勝手だが、俺はそっちを無しとはしない。俺の判断に、テメェは従うしかないんだよ」

 言葉は、ある意味では横暴だろう。けれども責を自身に置く、そういう形を選ぶ山田のことを横須賀は知っている。

 あの時の横須賀と状況は違えど、重幸は山田の言葉に首肯しきらなかった。

「失敗した、から」

 呟きに、山田が眉間の皺を深める。きゅ、とその唇の端が引き結ばれたように見え、小さな沈黙が佇んだ。

「運が悪かったんだよ。俺が関わったんだ、成功させるわけねえだろ」

 は、と吐き捨てる笑いに重幸は息を吐いた。ささやかなため息は、しかしそれ以上にはならない。

「おじさんは、なんの人?」

 代わりに出たのは疑問。じっと見据える子供の瞳に、山田はにやりと笑った。伸びた背筋はまっすぐなのに、手がポケットに入れられるのでやけに尊大に見える。

「探偵だよ。そっちのデカブツは相棒だ」

「たんてい」

 かみ砕くように復唱する重幸は、考えるように指をまばらに動かした。伏せた睫の下、瞳が何を見ているかはわからない。

「残念ながらこの手のネタと関わることがいくつかある。ただここに来させられたテメェとは違って、な。

 ――だから、重幸は運が悪かったんだよ」

 もう一度重ねられた言葉に、重幸は顔を上げた。真っ直ぐと射抜く視線と握りしめられた拳に、山田がポケットに入れていた手を下ろす。

 はく、と重幸の唇が震えた。遅れて呼吸音が静かに響く。

「俺が依頼をしたら、聞いてくれる?」

「……あ゛?」

 重幸の言葉に、山田は歪んだ音を返した。

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