1-3-10)六〇パーセント

「貴方は、動物の死を知っていた。それは間違いないですか」

「うん。板垣が見たものを、アタシも見た。それが、生きていたのもね」

 語調はあくまで平坦だ。山田が先を促すように頷くと、田中はふらりと足を揺らした。

 一歩、二歩、三歩。そうしてジム前の段差に腰をかけ、山田を見上げ直す。

「山田はなにが知りたいんだ? それがわからないと、アタシも話し方がわかんない。

 なにが知りたい? なにを知ってる? アタシは板垣になにもしない。それだけわかればいい、ってのとも違うんだろ?」

 田中の言葉に、山田は頷かなかった。正直に言えば、最後の言葉で十分としてしまうことは可能である。依頼人である板垣になにもしなければ、ひとまずのところ問題はないのだ。板垣が見かけたのが田中かどうか、そして田中に危険が無いかどうか。そういう単純な部分で言えば、答えが得られてしまう。

 けれども同時に、それだけでもないのは事実だ。板垣は田中を案じている。原因が田中とわかれば警察に引き渡して問題ないという山田の主観と、板垣の主観は違う。警察に任せることに変わりはなくとも、おそらくこれからそれが関わるだろうとわかっている田中が作った時間を捨てるつもりは山田になかった。

「小動物から対象が移り変わる、と言った。ある程度問題を把握して置いた方が安全だろうとも思うだけですよ」

「そっか」

 沈黙。一分にも満たないがそれでも長い空白に、はは、と田中が吐き捨てるように笑った。ひざを曲げ抱え、その上に頬をつける。鍛えているからかおそらく身長より大柄に見える彼女の所作は、やけに少女じみていた。

「アタシが殺した、とは言わないんだな」

「言って欲しければ考えなくもないですね」

「言って欲しくは、ないなぁ」

 じんわりとした声が、そのまま肌に染みるようでもあった。理解しがたい状況を誰かのせいにすることはある一面では簡単だろう。状況で言うなら、一番可能性が高いのは田中だ。刃物でもって人間が行ったと見るのが常識的な考え方でもある。

 だが、情報はそれだけの解答を許さない。あの土は、写真から横須賀が読みとるのを悩むような場所に付着していた。量も多くないそれは、写真だから断定は出来ないがおそらく内部にも入り込んでいるとの報告を受けている。

 田中花。死に返りの当事者。どろン子さん。泥人形。泥神。いくつかの要因がその泥を偶然と呼ぶには躊躇わせ、しかし解答を得るにはなにものにもなり得ない。

 事故の怪我が治った人間。完璧な足。

「大きいもの、に移ることはないよ。それをするのはここじゃできない。ろくじゅっぱーせんとの水分で人間は出来ている」

 常識的な事実の言葉は、理由に足りないだろう。けれども当然である六〇パーセントは、事実と言うより比喩のようでもあった。

「信じて貰えるかどうかはわからないけど、アタシはもう、六〇パーセントしかないんだ。だから安心して、って言っても、意味ないかなあ」

 山田は言葉を差し込まない。とすとすと落ちる言葉は、ほんの少しの寂しさで滲んでいる。朗らかなひまわりが、沈んだ太陽を思って首を傾げるような滲み。

 板垣を殺さないという宣言だろう言葉に、安心するもなにもないのは事実だ。そもそも板垣が不安なのは、板垣自身の問題でもあの地域の安全でもなかった。

 あれだけ言葉を渋り、躊躇い、それでもなにもないとしきれなかった理由。依頼人が安心したい一番のものは、依頼人の為のものではない。

「貴方はどういうものなら、意味があるとするんですか」

 山田は感情を挟まない。嘲笑でも軽薄でもなく淡々とした敬語は語らせるものだ。

 山田の語調で言葉が揺れるならいい。揺れの端を掴めばなにかが振り落とされる。そういう時なら、山田は言葉を選ぶ。けれども今はそうではない。山田太郎として見せるよりも、もっと静かに。田中は田中の言葉を既に選んでいる。選ぶ指先が震え言葉が落ちることがないように、無機質にはせず、しかし寄り添いもしない。そこにただ在る音。

 どういうもの、と復唱した田中は、困ったように息を吐いた。

「難しい。全部を言った方がいいのかな、って思うけど、全部は聞いたら多分、意味がないって思われるか、嘘だと思われるか、って感じだし。信じて貰って意味が出来たら、アタシはアタシじゃなくなるし」

「アンタは田中花じゃないのか」

「田中花だよー……」

 淡々とした音のまま、敬語ではなく差し込むように尋ねた山田に田中は少し弱々しく答えた。田中花なんだよぉ、ともう一度繰り返し、それはやはり肌に吸い込まれる。

 死に返り。死んで返る。死んで、返すもの。田中花は死んだのだと、佐藤は怯えた。

「六〇パーセントで出来たまま、四〇パーセントはおしまいになった。だから、もう、ああいうのはないと思うよ。もう還った。本当の本当に還ったから、って言ってもなぁ」

 はあ、と田中がため息をつく。やっぱり難しいよ、と続ける表情に、山田は革靴を少しずらした。じゃり、と、足下の石が鳴る。

 コンクリートで出来た場所だろうと、石はある。そういうものだ。田中の言うかえった、が、還るのか返るのか帰るのか、どれを言うのか山田は理解しないがそれらは田中が説明する言葉の中では些事だ。山田は些事だと断じてしまえる。

「屋代家に警察が入った」

 田中が自身の脚からゆっくりと顔を上げ、山田を見た。山田の表情はサングラスの奥、田中にわかるわけなど無い。

 オールバック、サングラス、黒いスーツとコートからかろうじて見える赤いネクタイ。それらが悪いという訳ではないが、揃うとどうにも威圧的に見える外見。背丈は一般的に言えば小さいと言えるのに、そう感じさせない態度。

 けれども見上げる先で見えない表情は、田中を責めているようには思えなかった。威圧的なパーツを静かに纏める無感情は、ともすれば底の知れなさ。

「泥神の為に行う人間はもういない。儀式は遂行されず、終いとなった」

 けれども見えない底は、何故か沈むためにあるものには感じない。隠し、有り、そのままでいいような、寛容なのか拒絶なのかわからない奇妙な温度。

「アンタの問題があるなら把握しておくか、程度のモンだ。問題がないならいい。別にこれまでとアンタの生活は変わりない。――動物云々の件は警察に報告するし、貴方の問題を私に言う必要はありませんよ。田中花さん、貴方が関わっていたこと、なにかあること、それが今すぐ貴方の驚異にならないこと。それがわかって、それだけでもいいんです」

 話す相手は私でなくても良い。そう続ける山田に、田中はもう一度顔をぺたりと伏せた。思考を途絶えさせないような常体の言葉は、そのままでいいというように少し距離を見せる敬語にあっさりと変わる。自然なそれを、田中はどう受け取ればいいのかわからない。

 物事の解決に、田中は関わることが出来ない。

「山田は色々知ってる?」

「ほとんど知らないが、知らないというには知っているってところですかね」

 曖昧な返答だ。けれども田中は笑わなかった。怒らなかった。不満にもせず訝しがりもしなかった。

 ただ、アタシもそうかな、と静かに同意した。

「アタシは田中花で、六〇パーセントの水分と六〇パーセントの泥で出来ている。合わせて一二〇パー、じゃなくて、それとこれは多分別で、でもそのまま一緒なんだ」

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