1-2-4)不幸な訪問者

『……きたの』

『ええ』

『名前は!?』

 最初の声はごく普通の声量だったのか末尾しか聞こえなかったが、次の言葉ははっきりと部屋に届いた。焦ったような女の声に対し、泥野の声は静かで聞き取りづらい。

『そういえばうかがってませんでしたね。どうでしょう』

『ああもう!』

 半ばヒステリックな女の声に、横須賀は身を竦めた。戸惑いを隠さない横須賀に、山田が手で部屋の奥を指し示す。

 横須賀が首肯して部屋に下がるのと入れ替わるようにして、山田は扉の前で腕を組んだ。

 なにがなんだか横須賀にはわからないが、シャワーでは無く部屋に下がらせたことからペンとメモ帳を取り出した。仕事では無いのだが、自分が必要とされるならという横須賀の習性のようなものだ。

 幸い出入り口の扉正面にあたる位置に鏡がある。部屋の奥だが、故に確認はしやすいともいえた。反対に移るので左右の表記を気をつけなければならないが、それでも間接的に様子を窺い見ることは出来るだろう。

 横須賀が奥に入るのとほとんど時間を置かず、ゴンゴンと扉が鳴った。随分乱雑な音だが、山田は焦ることなく緩慢に扉を開ける。

「なんだ」

 山田の語調には苛立ちが敢えて混ぜられており、それを受けた女はびくりと体を強ばらせた。女の上背は山田よりも大きいが、見た目で言うならごく普通だろう。

 女は二十代半ば、特別体を鍛えているような様子もなにか目立つ所持品を身につけている様子もない。肩にギリギリ着くか着かないか程度の長さで整えられた明るい茶色の髪は、サイドが後ろに引っ張られているのでおそらく髪留めかなにかで止めているのだろう。だが、そこからこぼれた髪は耳の前ではらはらと揺れている。手首の袖は少し上にめくれ、当人の本来していたお洒落と現状の違和がそこで揺れているようにも見えた。

 対する山田は同じように体に特徴はないものの、オールバックとサングラスは威圧的な風貌を作っている。元々その見目は山田が意識して作っている物であるし、今も敢えてその外見を裏付けるような態度を取っているのだろう。女と十センチほどある身長差など物ともしない伸びた背筋と真っ黒いスーツに目立つ赤いネクタイは、人を追い返すような強い印象を持たせる。大声を出すわけでも追い払うわけでもなく尋ねただけだが、女が怯んでそのまま部屋を出ても不思議はない態度。

 だが、女はその一点だけは行わなかった。

「貴方、名前は!?」

 それどころか躊躇う気持ちを押し出すように叫び、自身の勢いに押されるようにして山田に詰め寄る。対する山田は相変わらずの伸びた背筋で、しかしその手が伸びるよりも一歩先に引いた。

 すんでのところでたたらを踏んだ女は随分と切羽詰まった様子と言えるだろう。それでも部屋に入り込まない程度の良識は残っているようで、山田と女の間にひとつ分の距離が開く。

「人に尋ねる前には自分から、っつぅと思うがね」

 まあ招かれざる客はこっちでもあると、やや大袈裟に山田は溜息を吐いて女を見上げた。後ろ姿しか見えないが、恐らく笑みを浮かべているだろう。

「山田太郎。あのお節介な執事から善意で部屋を借りたとこだ」

 山田が聞かれた内容に対して一対一ではなくもうひとつの情報を追加するのは少し珍しい。たいていその場合山田が質問を返し会話を応酬するのだが、今回はあっさりとした返答で終わった。しかし、対する女は後半に対して聞こえているのかやや疑問が残る。

 女はまるで自身を抱きしめるような勢いで、それでいて抱きしめるのでは無く勢いのまま両手を組む。胸の前に揃えられたその手の所作は、横須賀でもなんとなく見覚えがある物で――

「ああ、神よ!」

 女の叫びに、横須賀は自身のイメージがずれていなかったことを知る。まるで神に祈るような所作に追従したのは、神からの救いに感謝するような名前を叫ぶものだ。芝居がかって見えるような言葉選びは、しかし切迫した声音でやけに女に馴染んだ。

「……なんなんだアンタ」

「よかった、よかった……! いやよくないけど最悪は多分回避されるわ!」

 神、というものを山田は否定しない。けれども同時に、救うばかりではないことも知っている。ただ女の言葉は信仰と言うよりも反射のようなものに聞こえた。ある意味では信仰だ。しかし、神のために命を賭すと言うよりは生活に根付いた感謝の信仰。生きている故の呼吸のようなそれまでを案じるほど、山田は神経質ではない。

 しかし、だからといってこの状況を良しとするかといったら別だ。先ほどから女は聞いているようでどこか別の興奮を見せているため、見事に会話が成り立たない。

 山田の舌打ちと、それ以上にはっきりと響く革靴の音が鳴った。床を蹴った音が届いたのか、ようやく女の視線が山田に戻る。

「状況の説明をしろ。流石に不愉快だ」

「ああ……ごめんなさい興奮して。貴方の不幸を喜んだけれど、私も私で必死だったから」

 ゆるくウェーブのかかった髪を右にかけ直し、女は嘆息のような呼吸と共に謝罪を口にした。それは山田への返答であり、感情の吐露だ。言い訳にも足りないような女の言葉は女の現状を伝えるもので、状況の説明にはなっていない。

 しかし、ひっかかる単語は存在する。

「不幸っつーのはどういうことだ」

 このまま女に任せても埒が明かない、というのも含めて山田がつっけんどんに尋ねた。唸るような攻撃性はなくとも不愉快を見せる山田に対して、女は安堵の息を吐く。少々奇妙なやりとりにも見えるが、しかしその呼吸の後、ようやく女は山田を真っ直ぐと見下ろした。

「私の名前はとうかず。多分、どうせすぐ知ると思うけど」

 そこで女――佐藤は一度言葉を切った。今更なされた自己紹介はタイミングがいびつだ。しかし山田は言葉を待った。先ほどとは違い、佐藤は佐藤の感情だけに浸ってはいない。

 そうして一呼吸。やや芝居がかった神妙なタメのあと、佐藤は口を開いた。

「この集まりで、人が死ぬの」

 唐突、と言えるだろう。先程までの勢いとは逆に静かな言葉はあまりに日常からずれていて、横須賀はペン先を折りそうになった。遠すぎる言葉は、しかし一笑できないものを見てきた横須賀にとっては嘘になりきらない。じくりと手のひらが粟立つ感覚に、横須賀は眉をひそめた。

「それで? だとして俺がいることを喜ぶ理由には成り得ないだろ」

 発言の真偽は置いて考えたところで、不幸という理由になり得ても喜ぶには足りないだろう。確かに人が死ぬような現場に踏み込んだのは不幸だが、不幸な人間が増えたことを喜ぶ道理にはならない。

 動揺も嘲笑もせず、しかしそっけなく言い捨てた山田に佐藤が小さく息を吐く。

 溜息では無い。静かな音は、整えるためのもの。

「佐藤は平凡。和子、は最近では少し古いけれど、それでも特別では無いと思うわ。私の年代からすると珍しいかも知れないけれど、至極普通」

 山田が腕を組み直す。ほんの少し下がった頭は、すぐに佐藤の顔に向き直った。佐藤は眉を水平にしたまま、引きつった笑みを浮かべみせる。

「特別な物を捨てる、なんて早々ないでしょう? にえの条件よ」

にえ

 山田が静かに復唱した。その単語は山田にとって好ましい物では無い。感情は乗せないまま敢えて復唱で返した山田の表情は見えないが、横須賀は案じるようにメモ帳を撫でた。

「そう。決まっているの」

 佐藤の声はどうしようもなさを形にしているようでもあった。近くに居たら空気の漏れる音が聞こえただろうか。口角の痙攣は、結び直された口元に消える。

「平凡な名前の人間が、死ぬ。――歓迎するわ、山田太郎さん」

 間。ぱち、ぱち、ぱち。横須賀が三度ほど瞬いた所で、は、と、声になりきらない音が落ちた。

「……なんだそれ」

 珍しく間の抜けた声で、山田が呟いた。

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