1-2-2)屋敷

 執事、という言葉に横須賀がぱちくりと瞬く。中々馴染みのない職業だが、それが嘘と断じるつもりは山田にもない。地図を思い浮かべれば大きさ的にも屋敷という言葉に納得もする。

 しかし、警戒を緩めるつもりもない。特に百戸森の屋敷、というと重幸の話が浮かぶ。落ち着いてからいくつか確認をした中で、重幸をそそのかした人間――ヤシロ様の家の人――はお爺さんだったとも聞いていた。

「執事がこんなとこでどうした」

「遠目に車が見えまして、この雨でこの山道は大変でしょう。どうかなさったのか気になったのです」

 傘を傾けた為、男の肩口が雨粒を弾いた。微笑む男のコートは質の良いものなのだろう。濡れても撥水がまだされている。

 横須賀が車の外で立ったままの男を案じるように視線を男と山田に動かしたが、山田は腕を掴む力を緩めなかった。

「ご心配どうも。それならさっきこの男が見かけたって言った、傘を差してない人間を気にしてやってくれ」

「傘を?」

 男が首を傾げる。は、と思い出したように顔をそちらに向けた横須賀が、こくこくと頷いた。

「さっき、向こうに人影があって、でも、傘は差してなかったみたいで」

「あちらは屋敷の方ですね。来たときには誰もいませんでしたが……ああ、木の影かもしれません。もう薄暗いですし、雨で視界も悪いから気のせいでしょう。わたくしはあちらから参りました。大丈夫、誰もいませんでしたよ」

 穏やかな声で言葉を重ねられ、横須賀は手に持った折り畳み傘とさきほど見た場所を見比べ、男を見、困ったように山田に視線を向けた。気のせい、と言いきられてしまえばそうでないとは流石に言いづらい。男の言うように視界が晴れている場所ではないので、可能性でいえば否定できないものだ。

「……別に狐や狸のたぐいではありませんから、安心してください」

「どーも。見ての通り俺達だって足がある。気にしないでくれ、アンタの方が風邪引くぞ」

 瞳を弓なりに細めて言った男に、山田は肩を竦めて答えた。しかし、男は動かない。

「お連れ様が随分と濡れています。着替えなどはありますか?」

「上着、脱げば大丈夫です」

 横須賀の言葉に、男は困ったように眉を下げた。きょと、と横須賀は不思議そうな顔をするが、その一点では山田も男の言いたいだろうことはわかる。

 コートに撥水加工がされているものがあるとはいえ、物によってムラはある。横須賀のコートは極々普通のもので、雨の中着るような想定はされていないから多少は染み込んでいるはずだ。

 それに、レインコートではないのだから撥水がきちんとなされていても中に入る雨粒を防ぐ形状もしていない。濡れた髪から伝う水は服の中に入り込みやすいし、いくら車内でヒーターを効かせていても、コートを脱いではい終わり、という訳にはいかない。

 いや、傘をいいと言った時点で横須賀にとってはその程度のことで、特に気にすることではないのかも知れないが――ううん、と声を漏らす男が続けるだろう言葉を、予想できないのは横須賀くらいだろう。

「髪まで濡れてしまっているじゃないですか。よければ屋敷に泊まってください、暖まった方がいいですよ」

「で、でも」

「たとえ好意に甘えてシャワーを借りたとしても、泊まるまでは出来ねぇだろ。そこまでしてもらう理由はないんだ。礼に出せるモンも持ち合わせてねぇぞ」

 山田の言葉に、男はにこりと笑んだ。先ほどまでの困惑ではなく綺麗に作られた笑顔は、男によく馴染んでいる。ぼたり、と、雨に混じって木から落ちた水の固まりが、傘の上で鈍い音を立てた。

「これから先、雨は酷くなりますよ。それに、ここから進んだ道は通行止めです。無駄足を踏む前に、お屋敷に泊まってください」

「通行止め? 天気予報じゃ酷くなかったが、向こうもか?」

「ええ」

 男は穏やかに頷く。はっきりと事実だけを告げる言葉だが、山田は不審そうな表情を消さない。それどころか眉間の皺を大げさに寄せた。

「富泥野から降りるルートは通行止めで、こっちの道が通れた。ここから先が通行止めってのがあり得ないなんていわねぇが、それだったらこっちの道も一緒に封鎖するものじゃないのか? ここまでの道で建物らしいものも見かけなかったぞ」

「今日は特別なんです。十年に一度、六日間。このあたりは人が出入り出来なくなります」

 男の言葉に、山田が片眉を上げた。男は山田の表情と反対に穏やかなままで、聞き分けのない子供に微苦笑をみせる好々爺のような表情を見せる。

「この雨の中通っていらっしゃるのでどこまでご存じかと思いましたが、知らなかったのですね。おそらく、富泥野に戻ることも難しいでしょう。タイミングが悪いといいますか」

 どういえばいいか、と言うように、男の言葉は途切れた。七秒ほどだろうか。二人の様子に困ったまま間で身を竦めている横須賀の腕に、握り直すような圧が入る。

 山田の顔を見た横須賀の腕を、山田は押し離した。

「退いてくれ、運転させる。俺が後ろに乗るから、アンタは助手席で案内をしてくれ」

「そんなお手間は」

「屋敷への道案内を頼みたい。この天候じゃアンタの方がいいだろ」

 山田の言葉に男は二度瞬いたのち頷き、後部座席前から退いた。横須賀が外に出、運転席に乗る。

 そこまで確認した山田は、後部座席から傘をとり外に出た。助手席から後部座席に、とだけの移動なので傘を差す方がそれこそ手間のようだが、横須賀と違い山田は濡れないように移動する。多少は滴が付くものの、それは些事だろう。きっちりと固められたオールバックは崩れないし、サングラスも濡れていない。山田が運転席後ろに座り直すと、男は車内に乗り込んだ。

 少しだけ困惑するように、横須賀が山田をミラー越しに確認する。

「案内を頼む」

「はい、お任せくださいませ」

 あくまで穏やかな物腰のまま答えた男に、山田は気にくわないとでもいうように鼻を鳴らした。男が横須賀を見上げ微笑んだので、反射のように横須賀は頭を下げる。ふふ、と穏やかな微笑は男の相貌によく馴染んでいた。男の声を待って、横須賀はアクセルを踏む。

 雨は確かに止む様子を見せないままだったが、大きすぎる粒はゆっくりと和らいでいた。


 * * *


 先に客人について説明してくると屋敷に向かった男の背中を見送り、横須賀は車のハンドルを握り直した。駐車場に車を停めたので別に動くことはないのだが、どうにも落ち着かない。

 バックミラーで伺い見れば、山田は足を組んであくまでゆったりとしたポーズをしている。

「あの、ヤシロ様、って」

 振り返っていいのか、前方に向かった声では雨音で消えてしまうか。不安に思いながらもつい漏らした疑問に、山田が少し姿勢を前方に傾けた。ひそめられた眉に強い感情はない。

「ガキの説明だ。可能性は高いが、まずはありえることとそうでないこと、両方を持つ必要がある。横須賀さんは疑うことよりとりあえずそのまま見てくれ。情報が有った方がよく見える、ってのは確かにあるが、アンタは十分見ることが出来る人だ。浮かぶのは仕方ないが、俺がそうと確信するまでは偶然だと思っておけ」

「はい」

 考えさせると言うよりは、横須賀自身に役割を理解させるための言葉だ。並んだ言葉に横須賀は短く頷いた。どうなるかなんてわからないがここから動く理由はもうないのだし、車内での話を理解した上で山田はこの場所にいる。横須賀の憂慮を山田が考えないわけないのだ。

 山田の体が、後部座席のシート沈んだ。あくまで悠然と座っている態度は山田によく馴染んでいるが、見せる為の態度でもある。見せる対象だろう執事の男はまだ戻らないものの、横須賀はハンドルをまた持ち直した。長身の体を曲げているので、その顔はハンドルに寄りかかるようでもある。

 執事の男の名前は、どろひろし。執事の主人であり屋敷の持ち主はしろらん。執事の名前に馴染みはないが、ヤシロ、と聞くとつい重幸の言葉が浮かんでしまう。

 ヤシロ様。重幸は確かにそういった。気にはなるが音だけで同一とするのは早く、したところでまだなにもかも準備をしていない事実に変わりはない。横須賀は顔を上げると、視線を横に動かした。

 駐車場に停まっている車は四台。赤い軽自動車とシルバーの軽自動車。目立つのは四輪駆動だと思われるタイヤの大きい紺色の車、その向こうに見えるのはシルバーの普通自動車だ。

 招待客がいる、と泥野は車中で言っていた。予定した一組が来なくなったので、予定外の客である山田と横須賀は寧ろ歓迎したいとも。なにか集まりごとがあるところに部外者が入るのは邪魔ではないのかと思うが、食事が無駄にならなくていいと泥野は笑っていた。

 不思議だと思う。なにが、と言うにはなにもかもが横須賀には馴染みのないものだ。

 視線を駐車場から屋敷へ移すと、泥野が戻るところだった。悠然と、しかしあっというまに車の前に来た泥野に、車の窓を細く開ける。泥野は窓を雨から守るように傘を傾けた。

「お待たせいたしました、ご案内いたします」

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