……危険だ。一刻も早く逃げないと。

「さ、それじゃ本題に入りましょうか」

「本題?」

「ええ。百合、昨日はどうだった?」

「………………次は、音楽だったわね。移動しないと行けないし、戻りましょう」

「まだ30分以上もあるわ。それに、教科書とかは持っていてもらえるよう私が頼んでおいたから。私達はこのまま直接行って大丈夫よ」

「……千代」

「な~に?」

「……貴女、最初からそのつもりで、ここに。はぁ、まぁいいわ」


 頭が痛くなってきた。

 そうだ、この子はそういう子だった。

 とってもいい子だし、可愛いし、お節介でもあるのだけれど……こういうところは直してほしい。

 ……だけど、昨日はそのお節介に助けられた。折角の日曜日に朝から呼び出した負い目もある。多少は、話してもいいだろう。

 勿論、核心部分はぼやかす。

 でないと――いけない。まだ、後遺症は癒えていないのだ。むしろ、昨晩の会話で悪化している。ベッドの中で、にやける自分を抑えつけなかった自分を悔いる。 今朝だって。ちらりとさっき仕舞ったポットに目をやる。


『昨日、こっそり買っておいたんだ。百合、猫が好きだから。気に入ってくれると嬉しいな』


 ……耐えて、私。

 今、ここで表情を崩したら、延々とからかわれるのは目に見えている。

 この子、そういうの大好物だし。何より今まで私は一度たりとも、そういう話を提供していない。これは矜持、そう矜持の問題。

 決して『恥ずかしい』とか、『柊と私だけの秘密にしておきたい』とか、そういう話ではない。……ないったらないのだ。

 凄まじい忍耐力を発揮して、お澄まし顔を作り、微笑む。


「昨日はありがとう。本当に助かったわ」

「そ、良かった。で?」

「で、って……」

「ほら~もっと、こう、嬉し恥ずかしエピソードがあるでしょ? デートだったんだから」

「何もないわ。何時も通りよ」

「へぇ~ふ~ん、何時も通り、ね~」

「な、何よ?」

「私、まだ一度しか柊さんと会ったことないけど――あの人が、昨日の百合を見て、何も言わないなんて信じられないな。だって凄く優しそうだし、褒めてくれたんじゃないのぉ?」


 くっ……こ、これだから、千代には余り知られたくなかったのだ。

 抜けているようで、人を見る目が案外と鋭く、私から柊の話も聞いていたせいか、彼の性格も把握している。

 ここで頑なに否定するのは悪手だろう。


「ええ――褒めてくれたわ」

「あれ? 認めるんだ?」

「柊が私を褒めてくれるのは何時もの事だもの。平常運転よ。日常の光景だわ」

「ぐふっ……こ、ここでノロケるのっ!? ふ、ふふふ……さ、流石は百合、一筋縄じゃいかないわね」

「別にノロケてなんかいないでしょ。さ、この話は終わり」

「あ、なら、柊さんは何て褒めてくれたの?」

「…………ノーコメント」

「駄~目♪」


 ここから先の話は死地。間違いなく死地。

 ……危険だ。一刻も早く逃げないと。

 呆れた風を装い無言で席を立とうとすると、千代が小さくこぼした。


「……ごめん。ちょっと言い過ぎたかも。私は百合の親友だと思ってるんだけど、百合って私にその手の話、中々してくれないから、その、嬉しくなっちゃって」

「はぁ……あのね、別に怒ってないわよ」

「本当?」

「ええ。むしろ、感謝してる。千代がいなかったら絶対に遅刻してたし、あんなに楽しくは過ごせなかったと思う。柊から『可愛い』って言って――はっ!」

「へぇぇぇ、『可愛い』って言ってもらえたんだぁぁ」


 し、しまった――あ、マズい。


『今日の百合はとっても可愛いね』


 彼の声が蘇ってくる。

 あ、う、うぅぅぅ……。


「うわぁ――ねぇ、百合」

「な、何よっ」

「襲っていい? ちょっと、その顔、破壊力あり過ぎ! 何なの!? 綺麗だけじゃ物足りなくて、可愛いまで極めようとしているのっ!!? 世の女の子達は、必死にどちらかだけでも得ようと、日々努力研鑽に務めてるのよっ!!!?」

「し、知らないわよっ!」


 赤面しているのがはっきりと分かる。

 いけない。これは本当にいけない。日常生活に支障が出るレベル。

 顔を俯かせて、自分を落ち着かせるべく深呼吸を繰り返す。

 ……大丈夫。大丈夫。八重垣百合。貴女はやれば出来る子。

 ほら、柊だって昨日、あんなに褒めて


『今日の服装は特に似合ってる。大人っぽく見えるね』


 ……えへ♪ えへへ♪

 周囲がざわついている。どうしたのかしら?

 目の前では、千代がテーブルに突っ伏している。


「ぐふっ…………だ、駄目だわ。これ、破壊力とかそんなチャチな話じゃない……精神汚染、そう、これは精神汚染よ……。『八重垣百合は綺麗である』と脳に強くインプットされてた分、『顔を赤らめ、恥じらっている八重垣百合はもう、とんでもなく可愛い! 可愛いったら可愛い!!』という汚染に抗えないわ……百合」

「……何よぉ?」

「……ごめんなさい。本気でごめんなさい。その顔を見せるのは柊さんだけにして。じゃないと、みんな、午後の授業どころじゃなくなるから。ほら、見なさいよ。もう周囲に犠牲者が」


 私達を遠巻きに見ていた、後輩や、その他の生徒達に視線をやると、すぐ皆、目を逸らす。全員の頬が赤い。

 ……私のせいじゃないわよ、これ。


「ねぇ、千代……この話は終わりにしましょう」

「えぇ、百合……そうね。まさか、こんなに危険だなんて……私、柊さん本気で尊敬するっ!」


 あのね……貴女達に効いても意味がないの。

 肝心要の人に効かないんじゃ、私だけ損してるでしょっ!

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