二幕 ノルンの誤算 09

 我々は、一〇九研究所から逃げてきた。

 我々は、臓器を――。


 七人の標的が残したメッセージはひとときタウンをにぎわせたけれど、東京政府が規制をかけたせいで情報自体は東京側に伝わることなく、そのうち忘れ去られていった。七人の命がけの逃避行の結末は結局、こんなもの。


「あら、ナキちゃんたら、たくましくなっちゃってえー」


 十日ぶりに外に出たナキを迎えるなり、トリッキーは細い眉をひそめた。トリッキーが驚くのも無理はない。ナキの顔や身体は傷だらけの痣だらけ。とても年頃の娘に対する仕打ちじゃない。これらはすべて遊戯のルールを破ったナキに対する制裁だ。数日前まではさすがのナキも熱を出して、寝台から立ち上がることもできなかった。


「馬鹿ねーん。自分から失格になるだなんて。それとも、殴る蹴るで済んだことに喜んだほうがいい?」


 カフェ・トリッキーはまだ開店準備中だったようで、中に人はいない。カウンターに座ったナキの前に水を出し、トリッキーが冗談めかして微笑んだ。ナキはうんざりと嘆息する。


「これで終わりじゃない。制裁はおまけ。ペナルティをつけられると、しばらく遊戯に参加できないし、シャーロックからタダ働きをさせられるはめになる」

「あらあら」


 いたずらっ子を眺める母親のような顔をして、トリッキーは棚から取り出しかけた酒瓶を牛乳パックに変える。あたためたミルクにはちみつと胡椒をひとさじ入れて、ホットミルクのできあがり。病み上がりの身体にはこちらのほうがありがたい。


「それで、今日は何の用?」

「前に依頼した件、そろそろ結果が出た頃かなと思って」


 猫舌のナキはふうふうとホットミルクに息を吹きかけて、少しずつ啜る。ナキはトリッキーに七人の囚人の身元を調べさせていた。刑務所からの脱獄犯ではないらしい、という中間報告までは聞いていたけれど、その先の最終報告を受けていない。つまり、彼らがどこから来たナニだったのか。


「遊戯はもう終わったのでしょ。知る必要ある?」

「前払いしたぶんの成果はあったのでしょ」


 尋ねたナキに、トリッキーは息をついた。


「ええ、ありましたとも。前にも話したとおり、刑務所からの脱獄記録はなかったわ。彼らがいたのは――」

「一〇九研究所ってナニ」

「……東京にある民間の研究所よ。こことちがって、あちらでは臓器もお金で買えるの。資産家や政治家たちは病気になると、こぞって新たな臓器を購入する。彼らはそこの飼育動物。自由を求めてタウンに逃げてきた」


 ――内臓を傷つけずに生け捕りに。

 ダフネの提示した条件を聞いたとき、何かおかしいと思った。犯罪者なら、シャーロック・タウンに年中逃げ込んできているし、東京政府も面倒くさがっていちいち関知しない。なのに何故今回だけ。彼らはやはり脱獄囚などではなかった。飼われている人間。……わたしたちとおなじ。


「気付いていたの、ナキちゃん」

「なに?」

「脳だけを射抜いたって聞いたから」

「ダフネはドーナッツ、くれたし」


 もしものために待機させていたのだろう。ナキとすれちがいで駆けつけた医療チームはその場で七人の身体をばらし、新鮮な臓器を冷凍ポットに詰めて運び出していった。条件は破ってしまったけれど、臓器のほうは無事だったから、ダフネが責められることは少ない、と思いたい。

 甘いホットミルクがおなかを満たしたからか、急に睡魔に襲われた。ナキはバーのカウンターに置いた腕に、ゆるゆると突っ伏す。


「あらあら。こんなところで眠ってしまうの? ナキちゃんたら」

「……ん。三十分で起こして」

「ソファに運びましょうか?」

「ううん、ここで……」


 声が途切れ、すぅすぅと静かな寝息が立ち始める。無防備な少女の寝顔をしばしカウンター越しに眺め、トリッキーは微笑みまじりにその頬にかかった黒髪を耳にかけた。


「おやすみ、ナキちゃん。すこしはマシな夢を」


 *

 

「やってくれたわね」


 シャーロックの屋敷を訪ねたダフネは、ご立腹だった。眦を吊り上げて、不機嫌そうに腕を組む彼女は、冷徹な女帝そのもの。対するシャーロックは、相変わらずくたびれたシャツにだぼっとしたズボンといった威厳の欠片もない格好で、丸めた素足を退屈そうにいじっている。昼の屋敷に人気はなく、ただシュエの練習するピアノの音が静かに流れている。光の落ちたシャンデリアのした、向かい合う女帝とタウンの支配者。


「臓器なら、新鮮なやつが取り戻せたんだからいいだろ?」

「馬鹿言わないで。何のために彼らを生かしていたと思う? 必要なときに必要な方に提供するためよ。突然七組も臓器が余っちゃって、行き先を探すのが大変だったんだから」

「それでもまあ、ここに茶を飲みに来られているってことはうまくやったんだろ」

「私の手腕に感謝することね」

「はー、官僚さまはちがうねえ」


 肩をすくめて、シャーロックはおもむろにチェスの駒を動かした。盤面を挟んで対峙するダフネの顔色が変わる。妙手だったらしい。ことゲームに関して、シャーロックの右に出る者はいない。組んだ膝のうえに頬杖をつき、ダフネは思案げに盤面を眺める。


「……知っていたのね。あんたもナキも」

「一〇九研究所? 懐かしい名だな」

「その名を出すと、あんたが乗らない予感がしたのよ。……隠していたことは謝る」

「正しい情報を出さないのはここの基本だろ? 別に何も思っちゃいねえよ」


 やさしいようで、狡猾な笑みをシャーロックは浮かべた。


「ただ、この俺を好きに使ってくださった報酬は払ってもらおうか」

「……何が望み?」

「その盛り乳、揉ませろよ」


 美しいダフネの顔からすべての表情が消え失せる。組んだ足が翻り、ヒールの先がシャーロックに鉄拳をくだす。逃げ足だけは速いシャーロックだけども、ダフネの攻撃はかわせなかった。無言の悲鳴をあげてもんどり打ったシャーロックに、「話はそれだけ?」と立ち上がったダフネが肩に落ちた髪を払う。


「この筋肉女。まじクソ。死ね」

「餓鬼みたいな悪態つく余裕があるなら、問題ないわね」


 とんとんとヒールの踵を鳴らし、ダフネはアタッシュケースを持ち上げる。ソファに逆さまでうずくまったまま、シャーロックは口端に笑みを引っ掛けた。


「なあ、ダフネよう。報酬の二億だけど」

「その件はなしよ。条件を先に蹴ったのはあんたたち」

「いいぜ、そんなものは。最初から期待してねえし。代わりに一個、欲しい情報がある」

「何?」


 暗く輝くシャーロックの眸をダフネは見つめた。


「近頃、遊戯の参加者の中に面白い名前がある」

「誰よ?」

「ミラ=センザキ。十三歳。現東京総帥閣下のご令嬢どのだ」

「……まさか」

「彼女についての情報が欲しい。おまえなら、できるだろ?」


 ひとときの探り合いがシャーロックとダフネのあいだで交わされた。ポロロン。弾きまちがえたシュエが「あっ」と呟いて、ピアノの手を止める。


「政府に手を出すと痛い目をみるわよ」

「こちらには、宝石のがある。ただ使いどころは大事」

「私はあんたの仲間じゃないわ」

「ああ。けど大事なのはそこじゃない。おまえがいつ、どこで俺の敵に回るかだ。――今はまだそのときじゃない。そうだろ?」


 ふてぶてしく言ってのけたシャーロックに、ダフネは目を眇めただけで、こたえようとはしなかった。


「変わらないわね、あんたは」


 やがて息を吐いて、ダフネは呟く。伏せがちの目に宿る確かな少女の影にシャーロックは気付いただろうか。かつての少年の面影を今も残し続ける、この街の支配者は。


「チルドレン〇番『愚者』」


 武器のひとつも扱えず、欠片だってその才覚を持たなかった最弱の少年は、それでも運と駆け引きだけで遊戯に勝ち続け、この街とシャーロックの名前を先代から奪い取った。ダフネはそのときはまだ彼の隣にいた。

懐かしい名だねえ、と咽喉を鳴らし、シャーロックはソファにごろんとうずくまる。

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