三幕 愚者のラストゲーム 06

 円卓中央のポットには、コインの山が積み上がっている。

 ナキとシズル=センカワはたわいのない応酬を挟みながら、ポーカーを続ける。シズルが勝つこともあれば、ナキが勝つこともあったが、大勢はシズルの優位で進み、ナキのチップは徐々に数を減らしつつある。ナキのほうは、回収されるチップを無頓着に見送るだけだったけれど。

 配られた手札を確かめたシズルが口端に小さく笑みを乗せた。この短い間にもわかってしまった、賭ける前のシズルの表情。


「ベット30枚」


 ノアの館印のコインが中央に移動する。ナキはそれに気のない視線を向け、ホール内に掛かる巨大な機械仕掛けの時計を仰いだ。四時間ごとに仕掛け人形が現れてベルを鳴らす時計は今、午後十時を指している。

 遊戯終了は、午前零時。ゲームセットまであと二時間ほどだが、セレネ、ソル、セツにまだ動きはない。ただ、セレネとソルは小型爆弾をすでにセットし終えていて、あとはワンドが罠にかかるのを待つのみだ。

 セツは――、と切り替わる映像を確かめ、ナキは少し意外に思う。とっくに戦意喪失したかのように見えた少年は、震える手で銃弾を装填している。セツが身をひそめているのは、セレネが仕掛けた小型爆弾の右方。まだ、諦めていない。


「ダフネ?」


 持ち札に手をかけたまま、黙り込んでしまったナキに、シズルが声をかける。並んだスペードをちらりと見やり、ナキは冷めたココアを啜った。


「コール」


 今晩何度目かになるコールだった。

 あるいはチェック。あるいはフォールド。ナキはまだ、自ら勝負に出てはいない。


「あなたはそればかりですね……。意外に慎重なほう?」

「さあ」


 ナキは口元に笑みを浮かべ、煙に巻いた。手札の交換があり、シズルが中央のポットから一枚を引く。彼はそれを指の背で撫ぜながら沈思した。かたわらに置いてあったコインの山が一気にふたつ動く。


「レイズ100枚」


 ナキは自分の横に残ったコインの枚数を数える。110枚。コールするにせよ、レイズで額を吊り上げるにせよ、実質ほぼラストゲームだ。あるいはフォールドして、継続するか。シズルのほうを見ると、紳士的な笑みの向こうに嗜虐がのぞいていた。ナキがどう出るかを試している。シズルの意図を察して、無表情のままナキは手札をもてあそぶ。


「どうしますか、ダフネ?」


 不安がるそぶりも、かといって媚びるそぶりも見せず、ナキは目を伏せた。心を決めて、口を開く。

 そのとき、会場の前方からにわかにどよめきがした。遊戯に展開があったらしい。モノクロの映像は無声だが、涎を垂らしたワンドが画面に大写しになると、おののいた参加者が悲鳴を上げる。ワンドの太い足が地を蹴った。向かった先は、セレネが仕掛けた罠の方向だ。クラッシュ! 映像がぶれる。画面に黒い液体が飛び散り、暗転する。がっがっがっがっ。振動。切り替わった画面に、何かを貪るワンドの姿が映しだされる。セレネが仕掛けた小型爆弾は作動しない。――そもそも。


(セレネはどこ)


 状況を正確に理解した参加者から、今度こそ本物の悲鳴が上がる。先ほど画面に飛び散った液体。転がる肉片。それは誰? 誰のものだ? 恐怖と興奮で、ホール内が異様な熱を帯びる。席を立って画面に見入る参加者たちをよそに、シズルは平然とウィスキーが薄まったグラスを掲げ、ボーイに別の飲み物を注文した。

 

「レモングラス・ティ」


 ナキは手札に混ざるジョーカーを指で弾いた。

 ホールに三たび、悲鳴が上がる。獲物を貪っていたはずのワンドが地面に転がり、びくびくと痙攣を始めた。眉間に銃弾が撃ち込まれている。さらに数発。高らかな音を立てて薬莢が転がり、ワンドは一度大きく背を波打たせたあと、動かなくなった。離れた場所で銃を握っていた少年がぺたんと膝をつく。セツだった。

 画面が暗転し、メイン・コンピュータが最終的な勝者と配当金を弾き出す。

 勝者。チルドレン十三番『死神』、セツ。


「そんな……」


 まさかの大穴の勝利に、参加者たちの間には落胆が広がった。

 ナキは対面の男をすばやくうかがう。ちょうどレモングラス・ティが運ばれてきたらしい。マドラーを回すシズル=センカワは、涼しげな顔をしている。勝ったのか、負けたのか。表情だけでは読み取らせない。ナキは眉をひらき、手札を表にして盤の上に投げた。


「フォールド」


 あっさりと勝負を下りたナキに、シズルは少し意外そうな顔をする。まだチップは残っているが、遊戯が終わった以上、これがラストゲームになることはシズルもナキもわかっている。


「よいのですか?」

「アナタが賭けたのは、『死神』?」


 負けておいて勝者の褒美をねだってくるナキに、シズルは苦笑する。シズルもまた、手札を表に返した。ツーペアさえない弱小カード。対するナキは、ジョーカー込みのロイヤルストレートフラッシュ。最強の役。


「わざと負けるなんて、いけないお嬢さんだ」


 肩をすくめ、シズルはナキの手袋がはめられた右手を取った。


「そうですよ。私が賭けたのは『死神』」

「賭けは得意?」

「ゲームは得意です」


 手の甲をなぞった指先が手袋の端にかかる。それが引き剥がされる前に、ナキはするりと男から手をほどいた。代わりに、残っていたコインの一枚をシズルの胸ポケットに落とす。


「わたしもゲームは得意。勝敗は、次の夜に持ち越しで」

「……ずるいなあ」


 嘯くシズルは、言葉ほどに残念そうじゃない。立ち去ろうとしたナキの前に、長い脚をすいと差し出して、シズルは言った。


「それでは、次の満月の夜に。またここで」


 薄い笑みを刷いただけで、ナキはこたえない。


 *


 ワンドに食い荒らされたセレネの遺体は夜明け方、シャーロックの屋敷に返ってきた。片割れを失くしたソルはセレネの白い棺に縋ってぐすぐすと泣いている。

 ノアの館から戻ってきたナキは、華奢なミュールもドレスも脱ぎ捨てて、いつものキャミソールにトップス、半ズボンのラフな服装に戻っている。つけ毛の名残で、ボブには変な癖がついていたけれど。

 シャンデリアの明かりが落とされた屋敷の広間に、ナンバー付きのチルドレンは全員集まっていた。普段は人前に姿を現さない『魔術師』も、チルドレンの中では異端の『悪魔』のウタも皆。セレネと仲良くしていた何人かは棺のそばでうなだれていたけれど、ほかの子どもたちは悲しむでも悼むでもなく、蒼い薄闇のなか、ただ棺を眺めている。やがて魔術師がいつものにやにや笑いが抜け落ちた無表情で一本の花を棺に入れ、それに端を発してひとりずつ思い思いの花を置いて広間から去っていく。

 ――屍には花を。

 それだけ。棺は朝になると、掃除人が持ち去ってしまうから、屋敷には棺からこぼれた花びらが数枚だけ残る。墓はない。かえるべき家もない。眠りにつく場所だってない。だから、花を。今が盛りの花を一輪。それがわたしたちなりの悼み方。 


「ナキ」


 スノードロップを置いたナキが広間から出ると、セツが追いかけてきた。その姿を見て、ナキはわずかに目を瞠る。数日見ていなかっただけなのに、少年の姿は無残に変容していた。頬はこけ、目は血走り、身に着けている服は遊戯のときから変えていないのか、ワンドの血がところどころにこびりついている。


「……ひどいにおい」

「え? ああ……」


 はじめて我が身をかえりみたらしく、セツは力なくわらった。

 

「いろんなことが起きたから忘れてた……」

「おめでとう。遊戯、セツが勝つって思わなかった」


 率直なナキの賛辞にもセツはさしたる反応を示さない。

 遊戯中にへまを打ったのはセレネだ。小型爆弾を人肉とともに仕掛けていたセレネ。けれど、ワンドは異様に鼻が効く。おそらく最初の爆発のとき、そばにいたセレネのにおいを嗅ぎ分けて、覚えていたのだ。

 二度目の罠にワンドは誘われなかった。爆弾をよけてにおいを追い、隠れていたセレネのほうを襲った。そして「食事中」に油断をしたワンドを撃ち殺したのがセツである。まさかの番狂わせ。だけど、セレネのことはともかく、ナキは少し驚いてもいた。いくらワンドの無防備な背中をまのあたりにしたからといって、セツが撃つとは――撃てるとは思わなかった。このやさしい少年は、自分の手で勝利をつかんだ。


「ナキは平気なの……?」


 きのうから眠っていないせいであくびをしていたナキに、セツが尋ねる。屋敷の大階段の前で、ナキは振り返った。


「平気ってなにが?」

「だから、セレネが死んだこと」


 じれったそうにセツが言い募る。


「おれは、こわい。遊戯では簡単にひとが死ぬ。セレネだって、数日前はそこの手すりで冗談言ってたのに」


 握られたセツのこぶしが小刻みに震えていることに、ナキは気付いた。セレネの断末魔を聞き、彼女の身体がワンドに食われるのを見ていたセツ。彼のやさしさという名の想像力はいったいどのあたりにまで心を飛ばしているのだろう。ワンドに襲われたセレネの恐怖か。生きたまま喰われることへの苦痛や絶望か。ナキにとってはすべて、薄い膜を隔てたよその世界のことのようだけど。

 蒼褪めたセツを見つめ、ナキは息をついた。


「遊戯でひとが死ぬのはいつものこと。知らなかった?」

「映像で見ているのと、現実に起きることはちがう! ……君にはもう、ふつうのことかもしれないけれど」


 むっとしたように言い返してから、セツはすぐに羞恥で顔を赤らめた。甘いことを言ったと自分でも思ったのだろう。


「……ごめん。ナキにあたるつもりじゃなかった」


 疲れた風にセツはかぶりを振った。

 はじめての仲間の死。はじめてのターゲットの殺害。ふたつの「はじめて」はセツの中で今、めまぐるしい葛藤を起こしているらしい。身体を折り、セツはうずくまるようにその場に座りこんでしまった。

 ステップにかけていた足を下ろし、ナキは思案してから、結局セツの前に戻る。今セツを置いていってしまうのは、すこし、かわいそうな気がした。


「おれ。次の『遊戯』がこわい」


 それなら早くここを出て行ったほうがいいんじゃないか、と言いかけて、ナキは口をつぐむ。教練場に六年いたセツ。そのぶんの借金をセツは背負っている。返すまでは自由にはなれない。六年ぶんの借金っていったいどれくらいなんだろう。二、三度遊戯で勝つくらいでは難しいはず。

 始まりの理由がどうであれ、セツは自らこの世界に足を踏み入れた。殺して、殺して、勝って、勝ち続けなければ、自由はない。この少年にそれを成し遂げるだけの強い意志はあるだろうか。ナキの胸に一抹の不安がよぎる。チルドレンがひとり死んだだけで泣き出しそうなこの男の子に。


「ナキは?」


 モッズコートの端を縋るようにつかまれ、ナキは瞬きをした。


「わたし?」

「ナキははじめて仲間が死んだとき、怖くならなかったの?」


 ――アレが仲間と呼べるものであったかどうかは別にして。

 教練場でともに育ったにいさんやねえさんは、ナキを置いて皆死んだ。ちぎってばらして、殺し尽くしたのはウタ。あのとき、ナキは泣いただろうか。怖いだとか、悲しいだとか、そんなことを思ったのだろうか。……よく覚えていない。ただ、悲鳴は上げたと思う。それは狂ったように幼いナキの咽喉を震わせて、そのうちぷっつりと途切れて何も出なくなってしまった。あのときから、たぶんわたし。世界は薄い膜の向こうにいなくなってしまって、何も感じない。

 ノルンが右目を傷つけられても。

 セレネが死んじゃっても。

 感じない、なにも。

 ナキは目を伏せた。


「思い出せない。もう」

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