三幕 愚者のラストゲーム 05

 ノアの館の酒精と欲に満ちた喧噪を、ナキは眺めた。

 廊下に出ていた間に冷えきった身体には、ホールは異様な熱を帯びて感じる。きらびやかなシャンデリアの下、ルーレットやポーカーをはじめとした賭けに興じる客たち。彼らは皆、東京では名の知れた資産家や実業家、あるいは政治家なのだろう。シャーロック・タウンの外の世界を知らないナキには、どれも関係のないことだけども。

 ターゲットは、窓辺の円卓でひとり氷の溶けかかったグラスを回していた。周囲に視線をめぐらせてから、ナキはそっと音もなく彼のほうに近付いていく。かつん。慣れないヒールで微かに床を鳴らす。シズル=センカワは、それでこちらに気付き、視線を上げた。

 ひと目見て、端正な顔立ちの男だと思った。青年実業家と聞いていたから、もっとぎらつく野心が滲み出た男かと思っていたのだけど。思いのほか、深い知性の閃く面立ちに少しひるみ、それでもナキはつくられた微笑を口元に載せた。


「飲み物をお持ちしましょうか」


 喧噪に、少女とも少年ともつかないナキの澄んだ声が響く。円卓の端にナキは軽く手を置いた。そのわずかな応酬に興を引かれた様子で、


「君は?」


 とシズル=センカワが尋ねる。


「給仕見習い。ここの」

「名前は?」

「ダフネ」


 ナキのネーミングセンスは実に安直だった。それでもシズル=センカワのほうはさして疑問を抱いた風もなく、「ダフネ」と繰り返す。


「女神の名ですね。太陽神の求愛を受け入れず、月桂樹に姿を変えた」

「そうなの?」


 首を傾げ、ナキはテーブルのうえに散らばったトランプに目を向ける。もしかしたら、先ほどまで賭けに興じたあとなのかもしれない。円卓には、賭け用のコインが積まれていた。その一枚をナキは摘まむ。


「アナタは?」

「うん?」

「何をしに、ここへ?」


 賭博。娼妓。不埒なショー。タウンの歓楽街には、あらゆるエンターテイメントが集まる。ナキの手の上で転がされるコインを眺め、暇つぶしです、と彼は苦笑した。


「遊戯に参加しているんです。結果が出るまではまだ時間がかかるようだから、ここでお茶を」


 故意かはわからないが、ナキの問いをシズルは「今、この場所で何をしているか」という意味にすり替えたようだ。あえて訂正はせず、ナキはシズルが向けた視線の先にある『遊戯』の映像を見た。タウン一の名物であるチルドレンによる遊戯は、開始から十二時間の制限時間があり、決着がつくまでは参加者たちもノアの館から離れることができない。

 賭けに参加できるのはノアの館でだけ。十二時間という拘束は長いように見えて、参加者は絶えなかった。彼らは遊戯が始まってからの十二時間、ノアの館で観劇やショー、賭博や娼妓を心ゆくまで楽しむのだ。

 遊戯は、どのチルドレンが勝利するかを予想するギャンブルであり、四時間ごとに専用の端末から賭けることができる。参加者が入力した情報は、メインコンピュータで集約・電算され、賭け率やチルドレンの順位がホール中央の画面に表示されるようになっている。参加者はそれらの情報や現在のチルドレンの状況を鑑みて、次のベットタイムに賭け先を変えることもできた。ただし十二時間を待たずに決着がついてしまうこともあり、そのときは直近で選んでいた賭け先がファイナルアンサーになる。また、ごく稀に制限時間内にチルドレンが誰ひとり標的を仕留められないことがある。そのときは遊戯は流れ、賭け金は返される。


 ホール中央の画面には、『月』のセレネ、『太陽』のソル、『死神』のセツの名前とそれぞれの賭け率が表示されている。遊戯開始から七時間。折り返し地点だ。セレネが小型爆弾を設置し、ワンドが好む人肉(どこから調達したのかは知らない)を罠に張っている様子が映し出されると、セレネの人気が急上昇した。『太陽』のソルも、別の場所に爆弾を仕掛けているようだが、セレネのほうが早い。セツは、と状況を確認して、ナキはため息をつきたくなった。彼は一度ワンドと出くわすという幸運を得ていながら、その場で腰を抜かしてしまったのだ。

 チルドレンは、彼らなりの美学と矜持を持っていなくては生きていけない。

 姿かたちの美しさを。洗練された身のこなしを。何者にも侵されない強靭な意志を。

 おびえるだけの子どもになんか、誰も見向きもしない。そんなものは街のどこにだって転がっている。参加者のセツへの眼差しはすっかり冷え入り、二回目のベットの結果はさんざんたるものだった。


「アナタは誰に賭けたの?」


 胸中の歯がゆさはよそに、ナキは濃厚なウィスキーを氷で溶かすシズルに尋ねた。さあ、微笑むシズルは、参加者たちと同様、手の内を明かそうとはしない。


「暇つぶしにカードでもやりますか? 貴女も退屈そうだ。勝てば、誰に賭けたか教えて差し上げますよ」


 気まぐれを装うシズルの誘いに、ナキは乗ることにした。給仕とは、ノアの館の娼妓もかねている。落ち着いた物腰にひそむ男の欲に気付かぬほど、ナキはうぶな少女ではなかった。スカートを捌いて、シズルの対面の椅子を引く。


「アナタが勝ったときは?」

「月桂樹の一夜を」


 手首を取って誘いをかけたシズルに、ナキはうすく笑んだ。ひらりと手を返してカードを切る。うぶな少女ではない。ないけれど。勝負と名のつくもので、勝ちを譲るナキではない。それではファミリーの稼ぎ頭は気取れない。勝ちへの執着。それこそが、みっともないと嘲笑われるナキのひとつきりの矜持なのだから。

 揃えたトランプを一度置き、「何にする?」とナキは尋ねる。


「ポーカーは得意ですか?」

「それなりに」

「では、お手並み拝見といきましょうか。ダフネ」


 ゲームは決まった。壁際に立っていたボーイがディーラーとなり、カードを切り始める。ナキとシズルはそれぞれ購入したチップを積んだ。

 中央の画面に、飢えたワンドの姿が映し出された。虎に何種類かの獣をかけあわせたワンドは、凶暴な牙からだらだら涎を垂らしている。体長は三メートルほど。走れば、時速七十キロにも達するという。まるで暴走車だ。

 あたりを彷徨っていたワンドが、肉のにおいを嗅ぎつけて足を止める。三叉路にセレネが仕掛けた罠の肉がぶら下がっていた。その下には、セレネ手製の小型爆弾。おお、と参加者からどよめきが湧く。ワンドが走る。開いた口が肉にかぶりつき、その足元でクラッシュ音が閃く。

 シズルとナキは配られた手札を確かめた。


「ベット25枚」

「コール」


 円卓の中央に同数のチップが積み上がる。

 視線をちらりとナキに向けてから、シズルは手札へ目を戻した。


「君はここに勤めて長いのですか?」

「いいえ。新入り」

「道理で。見たことがない顔だと思いました」


 シズルがカードの交換をする間、たわいもないやり取りを交わす。


「アナタは?」

「私?」

「ノアの館にはよく来るの」

「そうですね。それなりに」

「何を求めて?」

「暇つぶし。退屈な仕事をしていてね」


 悪びれずにシズルは答えた。

 画面で展開される遊戯にはじめて目をやり、これはひどい、と苦笑する。小型爆弾は爆発したものの、ワンドの急所からはそれて、右脚を怪我させただけだった。ワンドが血走った目で鳴き声を上げる。一番人気のセレネが失敗した。小型爆弾の予備はあるだろうが、仕掛けを作るにはまた時間がかかる。ワンドも何度も同じ手に引っかかるかどうか。


「これはもしかしたら、ゲームが流れることもあるかもしれませんね。レイズ30枚」

「フォールド」


 あっさりこのセットを引いたナキに、シズルは微笑む。


「飲み物のお代わりは要りませんか。お嬢さん」

「――ホットココア。マシュマロつきで」


 思いのほか愛らしいオーダーに、ボーイとシズルが目を合わせる。ここで鐘が鳴り、三度目の遊戯のベットが始まった。残り四時間。これが最後の賭けである。シズルが端末を操作する姿をナキはそれとなく見つめる。その様子に不可解なところはない。彼の動きひとつとっても、今はまだ。やがて参加者たちのベットが終わり、画面に変動した賭け率が表示される。

 一番のセレネと二番のソルの間で順位が変わった。セツが三位なのは変わらない。映し出された少年の蒼褪めた横顔に一瞥をやり、ナキは配られた手札を取る。

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