三幕 愚者のラストゲーム 04
からん、と。グラスの中で、溶けかかった氷が澄んだ音色を奏でる。からん、からん。レースの手袋をはめた手でグラスを持ち、ウタはそれを耳にあてる。涼しげなメロディに目を細めて聞き入り、それから、木偶の棒みたいに突っ立っているボーイに気付く。グラスはボーイが持ってきてくれたものだった。
「ウタのために運んでくれたんだ。ありがとう?」
「そんな……。あなたのためなら、いくらでも」
ボーイは頬を赤く染めて、逃げるように立ち去ってしまう。その背をくすりとわらって見送り、ウタは濡れた唇に指をあてた。
舞台を下りたウタは、裾にビーズの刺繍がほどこされた純白のドレスを翻して、ベルベットの長椅子に腰掛ける。悦楽と欲望がうずまく歓楽街にある、ノアの館。ウタはそこで週に一度の歌声を披露したところだった。
十三歳になってもいまだ声変わりを迎えないウタの声は、聖歌さながらの清らかさがある。「白亜の宝石」。その人気は未だ衰えを知らず、どころか、淡く色づき始めた少女の美貌見たさに、多くの客がノアの館に押し寄せる。長椅子で休むウタのもとには、彼らからの贈り物――東京の高級菓子や、タウンではめったにお目にかかれない生花、宝飾品やドレスといったものがどっさり届く。誰もがウタの気を惹きたくてしかたがない。そんな妄信的なファンの気持ちを知ってか知らずか、歌姫はぼんやりと氷の張った窓ガラスに手をあてて、憂鬱げなため息をついているのだけども。
「暗い顔をしているね、ウタ」
杖を持った盲目のピアニスト・シュエがウタの隣にちょこんと座った。ウタほどではないものの、皆から愛されるこのピアニストは、彼らからのリクエストに応じていくつかのソナタを弾いたところだった。
「ナキが口を利いてくれない」
ウタはしゅんと肩を落とした。
「もう三か月だよ? 一緒に寝てくれない。お風呂にも入れてくれない。キスもハグもだめなのだって。さみしくてわたし、枯れてしまいそう」
切々と訴えるウタは、目の端を赤く染めて、いまにも泣き出しそうな顔をしている。彼女の信奉者たちが見つけたら、その涙を拭おうと押し合いへし合いしながら駆けつけるにちがいない。喧噪に耳を澄ませるシュエは、口元に大人びた苦笑を浮かべて肩をすくめた。ローズウッドの杖を身体のそばへと引き寄せる。
「仕方がない。先にナキを傷つけたのはあなたなのだから」
「シュエもナキの味方をするの?」
「わたしは誰の味方でもないよ。事実を言っているだけ」
「いじわる。シュエはいつもおすましさんでつまんなぁい」
すんと鼻を鳴らして、ウタは唇を尖らせる。あからさまに機嫌を損ねた歌姫に、シュエが手を焼いていると、ふと足元に落とし気味だったウタの視線が跳ね上がった。少女の横顔に浮かんだのは、驚きと動揺。
「……ウタ?」
普段、ふわふわと砂糖菓子のように愛らしいウタから一切の表情が抜け落ちる。そうすると、偽りの少女の殻が割れて、凄絶にうつくしいおとこのこが現れる。シュエには見えない。見えないからこそ、ひりつくような気配の変化を感じてしまう。しゃらんとビーズの縫われた裾を鳴らして、ウタが立ち上がる。ウタ、と止めようとしたシュエの手は届かなかった。
「ごきげんよう、白亜の宝石」
「少しお話をしていきませんか」
数多の賛辞や誘い文句にはわずらわしげに眉根を寄せただけで、ウタはドレスをさばいてひとごみを進む。トゥシューズが足を向ける先にいたのは、若い商人に言い寄られる給仕の少女だった。ノアの館の給仕は皆そろいのシック・ブルーの薄っぺらいドレスを着ている。少女もそうだった。無個性なそろいの召し物。それなのに、自然と目を惹く。長い睫毛も、印象的な黒い眸も、折れそうな頸も、細い手足もぜんぶ。ウタの宝石は、天性の娼婦なのだった。
「なにをしているの?」
少女に伸ばされていた男の手を横からつかんで、ウタは微笑んだ。
「白亜の宝石?」
かよわそうなウタの思いも寄らない力に驚いて、男のほうは毒気を抜かれた顔をする。追い詰められていたはずの少女は、気のない視線をウタに寄越しただけだ。
「なにをしているの?」
小首を傾げてもう一度訊くと、男はひっと呻いてウタの手を振り払った。その手首には赤黒い痣が浮かんでいる。でも即効折らなかっただけ、力の加減をしたというものだ。ナキに無視され続けていたのが効いたのかも。
尋常ならざるウタの気配に恐れをなしたらしい。なんでもない、と早口に言い、男はつかまれた手首をさすってきびすを返す。商人は空気や機微を読むのに長けているのがよい。いくらウタだって、何曲か歌ったあとに男をばらすのは疲れてしまうから、できれば勘弁したいところ。この純白のドレスもそれなりに気に入っていたし。
「ウタ」
壁際に追い詰められたはずの少女は、そのわりに平然と顔を上げた。ふつうの少女ならもっとおびえたり、震えたりしてそうなものだけど。それはそうだろう。この、武器なんて触れたこともないような可憐な少女を先ほど悩ませていたのは、蹴り上げるか、ねじ上げるかの二択だったはずだから。
「ナキ?」
甘やかにその名を呼んで、ウタは少女を閉じ込めるように窓枠に手をついた。
「なにをしているの?」
三度目になる言葉を問う。
*
ノアの館に潜入する手立てとして、シャーロックが手配してくれたのは、シック・ブルーの給仕服……というには薄っぺらいドレスが一着だった。ホールやギャンブル場がある一階に対して、二階は給仕係の休憩や着替えに使われている。そこにハンガーで架かったドレスを見つめ、ナキはしばし沈黙する。普段、かぶるだけのトップスに動きやすい半ズボン、防寒用にモッズコートを羽織っているだけのナキは、すかーと、というものを長らく穿いたことがなかった。療養中のノルンにチップと引き換えに化粧をほどこしてもらい、つけ毛を編みこんできたのだが、ここにきてさらに難関がたちはだかった。
(『コマドリ』はどこに隠しておけばいいんだろ)
ガーターベルトなんて高度なものをナキは知らない。仕方なく、ドレスのポケットに『コマドリ』は無理やりねじこまれた。少し難儀しながら背中の釦を止め、姿見の前でドレスを翻す。暗がりに現れた「少女」姿の自分を見て、ナキはうすくわらった。ひさしぶり、ナキ。まだ歌が大好きで、世界に少し夢を見ていた頃の、幼いわたし。
「――ナキの女装なんて、めずらしいね? どんな心変わり?」
窓の向こうでちらちらと明滅する光に見入っていたいたナキは、ウタの声で視線を戻した。ホールから廊下に出たせいで、喧噪は遠い。等間隔に並んだ大きな窓から月光が射して、青昏い影を足元に落としていた。窓枠に手をついた自分より少し背の低い少年を見つめ、ナキは視線をそらす。
「……仕事をしているだけ。どいて、ウタ」
「仕事? なんの? チルドレンの指名はまだ入っていなかったようだけど?」
「別になんだっていいでしょう」
息をつき、ナキはウタを睨んだ。
「アナタとはしばらく口利かない。そう言ったはずだけど?」
「……いじわる。ナキは、最悪」
「ルールを先に破ったのはアナタ。何故、ノルンを傷つけたの?」
チルドレン十番『運命の輪』のノルン。先だってのゲームで、ナキとともに失格になった少女が、右目を傷つけられて発見されたのは数か月前のことだ。幸い、すぐに『魔女』がみてくれたおかげで、命に別状はなかったのだけども。己の美貌に絶対の自信を持つ少女は、深く傷ついたのだろう。今をもって遊戯に復帰できていない。
犯人はウタだった。ナキは怒った。
「私闘の結果はイーブンだったはず。ちがう?」
「先に遊戯を投げたのはナキのくせに」
「わたしが遊戯をどう回そうとアナタには関係ないと言った」
ぴしゃりと断じたナキに、ウタは表情を消した。
「そうだね。関係ないね?」
いやに平坦な声でうなずき、ウタは頬にかかった白銀の髪を耳にかける。窓の外の微かなひかりがドレスを纏ったウタの痩身を照らしている。可憐でありながら、殺気だったウタの気配に、ナキは息を詰めた。ウタの手が置かれた窓枠がきしりと軋む。
「じゃあ、ウタが何をしてもナキには関係ないね?」
雪にも似たきよらかな香りがくゆって、首筋に唇が触れる。ナキは思わずあとずさった。背中にすぐ窓硝子があたる。横には柱。それとウタの腕。逃げようと身じろぎをすれば、手首をつかまれた。ほっそりしていると思ったウタの手は、つかまれるともう動けない。甘噛みのような口付けは、首筋に沿ってひとつふたつと降りた。何かが壊されていく気がして、ナキはおびえる。大事に編んできたものを土足で踏みにじられるような。
愛撫でありながら、それは暴力だった。ナキを踏みにじるだけの、ただの暴力。詰めていた吐息がこぼれ、ナキは泣き出したい気分になって首を振る。
「……はなして」
「何故?」
「はなして、はなして……っ!!」
急に少女めいた懇願を始めたナキに、ウタは感情のうかがえない眼差しを向けた。それから、ゆるゆると表情をほどいて、ナキのほっぺたに触れる。目を腫らしたまま、ナキは泣いてはいなかった。ただ、殺意めいた眼差しをウタに向けただけ。
「ナキ。泣かないで」
やさしくあやすように、彼は唇を重ねた。
いたずらに傷つけながら、他方で真綿みたいに慈しむ。わたしを翻弄するこの子は天使か、悪魔か、わたしはこの子を恐れているのか、それとも愛しているのか。縺れた感情はナキをいっそう縛るばかりで、解き方すら、もう。
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