三幕 愚者のラストゲーム 03

 ウタをこの数か月、ナキは自分の寝室から締め出している。

 老メイドが休暇を取った日、ウタがブラシを持って所在なくソファに座っていても、見て見ぬふりをして、声もかけない。別にウタにいじわるをしているわけじゃない。悪いのは、約束を破ってノルンに手を出したあの子。ナキの態度は容赦なかった。

 ただ、眠りが浅くて冷え症のナキを、あの子の甘いぬくもりがいつも温めてくれていたのは嘘ではないわけで。窓辺に腰掛けて蒼白い膝を抱え、ナキはひとり夜の街を眺める。ブルー・グレイの空の下、ぽつん、ぽつんと思い出したように光が明滅する工場群のシルエット。澱んだ大気のせいで、星も見えない猥雑な街。スイッチを入れたラジオは今晩は調子がよくないらしく、ときどきジジッと呻くだけで喋らない。息を吹きかけて白く曇った窓ガラスに、ナキは指を這わせた。


「……ウタのばか」

「バーカ、バーカ。ナキ、バーカ」


 突如騒がしい声がドアの向こうからしてきて、ナキは眉根を寄せる。次いで、かっかっ、とドアを引っ掻く耳障りな音。ナキはハーフパンツにタンクトップの薄着にモッズコートだけを引っ掛けて、ドアを開ける。


「何。マダム・ロロ」

「バーカ。ナキ、バーカ」


 翼を広げたマダム・ロロが、遠慮もなくナキの頭に飛び乗る。大型鳥なので、それなりにずしりと重い。こんな夜更けにマダム・ロロが現れたときは十中八九、シャーロックからの呼び鈴が鳴っている。無視しようかなとも思ったけれど、どうせ眠れないし、暇だったので、ナキは呼び出しに応じることにした。


「……降りて、ロロ。重い」


 手で払おうとすると、マダム・ロロは一度ナキの頭を思いきり踏みつけてから、飛び上がった。薄暗い廊下を滑空するロロを追って歩き出す。窓に面した廊下は、ガラスを通して青い月明かりが射している。閉めきられたそれぞれの扉の向こうで、ほかのチルドレンが何をしているかをナキは知らない。遊戯の指名を受けたセツが、どんな想いで夜を過ごしているのかも。

 マダム・ロロは案の定、シャーロックの部屋の前で留まった。いつものように、ドッグタグをドアにかざそうとして、ナキは手を止める。ペナルティを課せられたときに、ナキのドッグタグはシャーロックに一時的に没収されてしまったのだ。どうしよう。ナキがモッズコートのポケットに入れた『コマドリ』で鍵を壊そうか悩んでいると、マダム・ロロが認証装置に足でタッチして扉を開いた。


「……ありがとう」

「バーカ。ナキ、バーカ」


 すかさず返った応酬に、ナキはロロの嘴をつかんで窓の外に放り出したくなった。せっかく少し、感謝をしたのに。


「来たか、元十二番」


 引きこもりのシャーロックは、今が深夜であることなど忘れた風に古いコンピュータ・ゲームに夢中になっていた。そもそも、シャーロックが朝から元気に活動していたことなんて一度もないのだけども。ぴこぴこぴこ……。安い電子音ががらくただらけの部屋に反響している。


「わたしのタグ。いつになったら返してくれるの」


 ソファに座る丸まった背にナキは尋ねた。さあねえ、と気のない返事をするシャーロックは、ナキの胸中にはまったく無関心そうだ。


「ルール破りをしたのはおまえだろ? ナキ」

「……なまえ」


 コンピュータを投げ出して振り返った男に、ナキは少しだけ驚いて息を吸う。


「覚えたの。わたしの名前」

「あ? あー」

 

 シャーロックにとっては、名前の有無はあまりたいした問題じゃないらしい。「だって、おまえ今十二番じゃねえもんよ」と呟き、頭に乗ってきたマダム・ロロをわずらわしげに払う。チルドレンには悪態ばかりをつくロロも、シャーロックには昔から恋人みたいに懐いている。

 頭の代わりに膝に留まったロロを今度はシャーロックもどかしたりはしなかった。ただ、足元に積まれた書類の中から一枚の写真を引っ張り出して、ナキのほうに投げて寄越す。写真を表に返すと、ダークスーツを着た青年が映っていた。年は二十代後半だろうか。身なりがいい。たぶん、東京側の人間。


「シズル=センカワ。東京を拠点に、武器の売買をしている実業家で、東京政府総帥閣下の御令嬢どのの婚約者。ちなみに遊戯の常連客でもある」

「それが?」

「この数か月、勝ち続けている。十戦中七勝。この数字だけ見れば、たいしたことはねえけど、勝つときにはがっつり賭けて、負けるときにはたいして賭けないから、トータル賞金額はぶっちぎり」

「ふうん」


 シャーロックの話に愛想のない相槌を打ちつつ、ナキは写真の中で微笑を浮かべる男を眺める。端正な顔立ちはやさしげだが、それよりもナキには、男にひそむ薄暗がりのほうが気になった。遊戯の常連らしいが、ノアの館で会ったことはあったろうか。覚えていない。


「興味ねえって顔してんな」

「客のことはどうだっていい」

「そーかそーか。俺もどうだっていいんだがな。こいつには今、賭けの不正疑惑がかかっている」

「……不正?」


 そこではじめてナキは顔を上げた。


「何らかの方法で、勝ちをちょろまかしてるってことだ。これは主催者とて、ちょっと放っておけねえだろ?」


 シャーロックの口ぶりで、だんだんとこんな夜更けに自分が呼ばれた理由に察しがついてくる。ナキは息を吐いた。


「わたしはその証拠をつかめばいいの」

「さすが。話が早い奴はいい」


 機嫌よく咽喉を鳴らして、シャーロックはポケットからドッグタグを取り出す。十二の数字がナンバリングされたナキのもの。眸を揺らしたナキのほうへ、シャーロックは見せびらかすようにドッグタグを掲げた。


「ペナルティの話をしようぜ、ナキ。――シズル=センカワの不正の証拠をつかめ。俺がおまえに望むのは、今回の件のオトシマエまで。それができたら、タグは返してやる」


 オトシマエ。つまり、証拠を見つけたときはシズル=センカワを始末しろということか。秘密裏にあえてナキを動かしたのは何故だろう。東京側の人間だから慎重になっているのか、遊戯の価値を下げるような不正疑惑は隠しておきたいのか。薄くわらうシャーロックの真意はいつも読めない。


「具体的には」


 ナキは尋ねた。


「次に開催する遊戯があるだろ。ワンドのやつ」

「ソルとセレネとセツが参加するやつ?」

「あれは観戦者が多い。ノアの館にはたぶん、遊戯の参加者が多く集まる。シズル=センカワもかなりの確率で。不正を暴くにはもってこいだろ?」

「でも、どうやって?」

「バーカ、そんなことは自分で考えろ。ノアの館にはあしたひとり、給仕見習いが入るって伝えておいた。頼んだぜ、『給仕見習い』」


 シャーロックは足を組み直すと、脇に置いていたコンピュータ・ゲームのスイッチを入れた。ぴこぴこぴこ。再び安っぽい電子音がシャーロックの手元から鳴り始める。話はもう終わったらしい。シャーロックはいつもそう。自分の事情だけをまくし立てて、それ以外のことは説明するのも面倒らしく、チルドレンに丸投げ。みんな、もういい加減諦めている。

 息をつき、ナキはシズル=センカワの写真をポケットに入れた。


「シャーロック」


 足を返しかけて、ナキは立ち止まる。シャーロックは手元のゲームに集中していて、ナキの声が届いているのかすら定かではない。


「セツを新しいチルドレンに選んだのは、なぜ」


 ナキにはどうしてもわからなかった。

 だってセツは、向かない。

 ひとの心を慮れてしまうあの少年は、チルドレンにはちっとも適さない。わたしたちは頭がおかしいほうがいい。ロクデナシ。チルドレンに必要な適性があるとしたら、たぶんそれ。頭がいかれたロクデナシだけが、次のゲームで生き残れる。ここはそういう場所。何故あんな子が、ファミリーなんかにやってきちゃったんだろう。


「俺が求めるのはひとつ」


 気まぐれだろうか。シャーロックがおもむろに口を開いた。


「ゲームの面白さ。それだけ」

「――……面白さって、なに」

「あいつはたぶん、よく鳴くぜえ」


 そして、この街でいちばんのロクデナシが目の前にいるシャーロックなのだった。酷薄な笑みを浮かべて、シャーロックはごろりとソファに寝転がる。ピロリロリン。安っぽいメロディは、ゴールのファンファーレか、ゲームオーバーのBGMか。

 シャーロックとの会話に見切りをつけて、ナキはノブを回す。

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