二幕 ノルンの誤算 02
「それじゃあ、そろそろ私は行くわ」
優雅な仕草でマグカップを戻すと、ダフネはソファから立ち上がった。キューブを回すシャーロックが、気のない一瞥を送る。
「『補佐官』どのはお忙しいことで」
「あんたみたいな、ゲームマニアの悪徳興行主とはちがうのよ」
子どもたちを使って遊戯を繰り回し、巨額の富を得ているシャーロックは、東京側の人間からたいそう評判が悪い。金の亡者。鬼畜興行主。畜生以下の男。それらの悪口をシャーロック自身は面白がって聞いているようだったけれど。
「そういや、アギラ=ソンジュと将校たち、そちらではどんな扱いになった?」
「ソンジュは追放後に失踪。将校たちは自決。一般市民への報道はされていないわ。タウンは『ごみ埋め立て地』というのが外の認識だもの。輸送車の襲撃もあんたの暗殺未遂も、始めからなかったことになってる。すべてあんたの思惑どおりね」
「俺が手ぇ回さなくとも、そっちの人間が勝手にうまく話をまとめるんだ。知ったことじゃないね」
「あーら。常連客にアギラ=ソンジュの件をほのめかしたのは誰?」
ソンジュのような事件が起きるたび、タウンの解体の話は持ち上がるが、政治家や資産家、果ては政府高官の反対によって、結局議論自体が水に流されてしまう。タウンを守っているのは、そういった東京の顧客たちの存在だ。そして彼らのためにシャーロックは至上の娯楽を提供する。清潔な街のどこにもない、死と混沌で彩られた『遊戯』を。
「おまえも一度、遊戯に参加してみたらどうだ? 次は賭けるほうで」
「あいにく、あんたとちがってプレーするのも、プレーを観るのも嫌いよ。この仕事でスリルは十分足りてるし」
すげなく断って、ダフネは足元に置いたアタッシュケースをつかむ。シュエにピアノの御礼を言って、手をつけずに残したドーナッツをナキの皿に乗せる。大嫌いだ、反吐が出る、とことあるごとに吐き捨てながら、ダフネはチルドレンに対しては姉にも似た愛情を注ぐ。ただし、ウタを除いて。今もナキの腕に手を絡めたウタを、ダフネはなきものとして扱っている。前に何故なのかを訊いたとき、ダフネは微かに眉をひそめて、あんたはゴキブリに挨拶をするの?と聞き返した。愛らしい天使の少女も、ダフネにとってはただの害虫。
盲目のシュエに加え、シャーロックやウタはひとの見送りをするなんて殊勝なことは考えないので、ダフネにはナキがひとり門までついていった。どちらにせよ、洗い途中だったスナフキンもそのまま外で日に浴びせている。
「ナキ。あんたアレ、いい加減離れたほうがいいわよ」
ダフネが忌々しげに今しがた出てきた屋敷に目をやる。名前も口にしない「アレ」とはたぶん、ウタのことだろう。さんざんな言われようだとナキは苦笑した。
「ゴキブリ?」
「見ているだけでぞっとする。なりは可愛いのかも、しれないけどね」
そう感じるダフネは、まともな感性の持ち主なんだろう。だから、タウンにいられなかった。口汚く罵りながら、それでもたぶん、ほんとの家族のように愛してたシャーロックとも決別せざるを得なかった。細かな経緯は知らないけれど、ナキはそう解釈している。こんな場所でまともな感性を持ち続けたダフネは、強い女だ。
「あんた、そろそろシャーロックへの借金は返し終えるんでしょう」
「……うん」
「自由になれる。どこに行くの、そしたら」
チルドレンは自分たちを育てたシャーロックに莫大な借金を負って、デビューする。遊戯に勝ち続ければ、数年で返し終える額だ。といっても、数年生き延びられる子どもたちのほうが、この世界ではずっと少ないのだけども。
ナキは十二歳のとき、はじめて遊戯に出た。以来、稼ぎ頭として勝ち続けているので、ダフネの言うとおり、借金ならもうすぐ返し終える。
ファミリーを抜けて自由の身に。
チルドレンの多くがめざしている、その権利をナキは獲得できる。
「行きたい場所なんて、ないよ。どこにも」
目を伏せて、ナキは小さな声で呟いた。ダフネはすこし、苦手だ。いつも正しく、輝かしい女帝を前にすると、自分の薄暗がりを見抜かれる気分になる。
「ねえ、ナキ。あんたが望むなら――」
「お嬢」
スキンヘッドの男が車からのっそり身体を出す。何よ、と唇を尖らせたダフネに、「時間です」と表情ひとつ変えずに返した。腕時計に目を走らせて、ダフネは息をつく。
「……また来るわ」
そう囁くと、アタッシュケースを後部座席に積み込んで、車の助手席のドアを開ける。ダフネがシートベルトを引っ張るのを見取って、スキンヘッドの男がエンジンをかけた。タウンの舗装が行き届いていない道を、車体を軋ませながら車が走り出す。それを見送ることまではせず、ナキは屋敷の門を閉じた。
「おまたせ。スナフキン」
心地よさげに日向ぼっこをしていたスカイブルーのボンネットに触れ、ホースの栓を回す。
*
ナキに次の遊戯の指名が入ったのは、ダフネが訪ねてきた数日後のことだった。選ばれたのは、一番『魔術師』と十番『運命の輪』のノルン、そして十二番『吊るし人』のナキ。遊戯開始は三日後。
「いいか、今回の条件は生け捕りだ。外は顔が判別できる程度に残してりゃいい。ただし中身は傷つけるんじゃねーぞ。内臓に損傷があった時点でそいつは失格だ」
魔術師はいつだって風のように姿を隠してしまうので、今シャーロックの前に立っているのは、『運命の輪』のノルンとナキのふたりきりだ。ノルンはナキのひとつ年上の少女で、ナキとちがって長く伸ばしたアッシュグレイの髪に、花の刺繍がほどこされたチュニックと短いジーンズといういかにもティーンエイジャーらしい格好をしている。印象的な青い目につんと上向いた小ぶりの鼻、そこだけ官能的な唇。少女らしさの漂う外見に反して、ノルンの得物は「毒」だ。ナキはがさつな性格で、眠らせるつもりがそのまま天国に送ってしまったり、自白剤を飲ませたくせに結局力づくで吐かせていたりするけれど、ノルンはありとあらゆる毒物をうまく使う。運命を司る三女神の名前にふさわしく。
別の教練場で育ったため、ノルンのことはナンバー付きになってから知った。デビュー時期も半年くらいしかちがわない。戦績ではナキの二番手に甘んじているノルンだが、客からの人気は常にトップ。この地位は三年間、誰にも譲っていない。
「たとえば、あたしとナキが捕まえた数が同じだったらどうするの?」
ノルンはソファの上で爪を磨きながら尋ねた。うつくしさを貴ぶノルンは、ナキみたいな肉刺だらけの手は好まない。自室を改造して猫足のバスタブを持ち込んだほどで、夜はいつも湯船でアロマキャンドルを焚いて、一時間も二時間もぬるま湯につかっている。シャワーで汗を流して済ますだけのナキとは対照的。
「そのときは引き分け。賞金も折半だな」
「えー、ナニソレ。つまんなあい。そう思わない、ナキ?」
甘やかな声でノルンが文句を言う。資料を流し読みしていたナキは、一拍遅れて「え?」と聞き返した。
「勝敗がつかないなんて、つまらなくない?」
「……そう? わたしは別にどっちだっていいけど」
今回の遊戯は生け捕りだから、ナキもあまり興味がない。自然とモチベーションは下がっていた。唯一の懸念といえば、魔術師の妨害が面倒くさい、ということくらいだ。とはいえ、今回は彼もプレイヤーとして参加するから、いつものようにはナキにちょっかいをかける余裕もないだろう。
「ナキはいつもこれなんだから。つまんない子」
不服そうにノルンは頬を膨らませる。
終始こんな調子なので、年こそ近いもののノルンとナキは昔からさっぱり気が合わない。ノルンのお気に入り――『白亜の宝石』がナキに懐いているのも、彼女の自尊心を傷つけるようだ。ノルンはきれいなものがスキ。だから、いっとうきれいな白亜の少女が、どうして薄っぺらい身体の、殺し方の美学もなく、うまいジョークもいわなければ、秀でた特技もないナキを慕っているかがわからない。実際のナキとウタにあるのは、ノルンが想像するような美しい姉妹愛ではぜんぜんないのだけども。
「あとは適当にやってくれ。カメラの解析は『時計塔』に頼んでおいた」
カメラというのは、東京からタウンに架かる旧かもめ橋に設置されていたものだろう。といっても、東京からデータの公的な提供は普通はないはずなので、おそらくダフネが取引にやってきた際、カメラのデータも置いていったのだ。通常の遊戯では、制限時間内に効率よく進行するため、標的に発信機をつけて街に放すのだけども、今回の標的には、その発信機がついていない。前回のアギラ=ソンジュと同じで、チルドレン自ら標的を探し出す必要があった。それを見込んでの三日の準備期間だろう。
シャーロックの部屋を出ると、ナキはさっそくトリッキーをはじめとした情報屋に、標的の捜索を依頼した。ノルンも『魔術師』も性格からして、遊戯開始と同時の鮮やかなクリアをめざすはず。ふたりよりも先に、標的の情報をつかむ必要があった。トリッキー恒例の投げキッスとともに端末を切ると、ノルンもまた操作していた端末から顔を上げた。
「行くんでしょ、これから『時計塔』のところ」
「行くけど」
「あたしも一緒に行く。あいつ、やたらあたしの乳とか尻とか見てくるから嫌いなの」
それなら乳とか尻とかを強調しない服を着ればいいのに。そう思ったが、口にはしなかった。ノルンはおしゃれに口出されることをひどく嫌う。ナキみたいなセンスの欠片もない子に言われたくない。眦を吊り上げるノルンの姿が容易に浮かんだ。
「魔術師はもう行ったのかな」
「知らないわよ、あんな変わり者のことなんか。ナキ。車出せる?」
「……出すけど」
乳とか尻とか言っておいて、本当のところはナキの足が目当てだったようだ。どちらにしても、『時計塔』のところには行くつもりだったから、ナキは肩をすくめてポケットから車のキーを取り出した。
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