二幕 ノルンの誤算

二幕 ノルンの誤算 01

 夜明けのシャーロック・タウンにサイレンがこだまする。

 東京湾に浮かぶ人工島。公文書上は住民数ゼロの「ごみ埋め立て地」、シャーロック・タウン。裏の顔は悪名高き歓楽街。タウンと東京は、ごみ廃棄用トラックが往復するための旧かもめ橋によって繋がっている。といっても、民間の商船はタウンまで商売をしにやってくるし、彼らが積み荷と一緒に運んでくる、お尋ね者や訳ありたちのせいで、街の人口は一向に減らないのだけども。

 サイレンは橋の向こう岸、東京から発せられているようだった。頑丈に封鎖されたゲートを乗り越える馬鹿がいたのか。あるいは、東京からこちらに入ってくる考えなしがいたのか。どちらかはわからないけれど、やけに長い。まるで誰かの断末魔のように、サイレンは仄暗い街に何度も何度も響いた。


「ナキ?」

 

 窓に吹きかけた息が白く凍る。

 スチール製の寝台から身を起こして外を眺めていたナキの腕をウタが引っ張った。あふ、とあくびをする『白亜の宝石』は、うすっぺらな身体にしどけなく白銀の髪がまとわりついて、無防備な少女そのもの。ねむい……、とナキの腰に腕を回したウタは膝に頭を横たえて、またすやすやと寝息を立て始めた。タウンを騒がせるサイレンも、ウタの耳にはちっとも届いてないらしい。

 あどけない少女すがたの寝顔に手を添えて、ナキは白くなった窓ガラスにこめかみをあてる。遠くなったり近くなったりを繰り返すサイレンは、まるで何かの予兆のように、なかなか止むことがなかった。


 *

 

 タウンの中心に位置するシャーロックのお屋敷。その閉ざされた黒鉄の門が開くことがごくまれにあったりする。ひとつは引きこもりのシャーロックが珍しく外出をするとき。もうひとつは友人のいないシャーロックに珍しく客人がやってくるとき。

 その日はナキにとっては貴重な休日だった。チルドレンはもちろん、年中殺しをやっているわけじゃなくって、そういう仕事日は月に数回程度。ほかは仕事の腕を磨いたり、武器の手入れをしたり、次の標的の調査をしたり、あとは賭け事に興じたり。遊びを知らないナキは、ボブの髪をゴムでちんまり結び、ニットの袖をまくって屋敷の外で愛車のスナフキンを洗っていた。


「ごきげんよう、ナキ?」

「……わ」


 背後から突然声をかけられ、はずみに外れたホースの水が跳ねる。それを日傘で受け止め、訪問客はにっこりと微笑んだ。離れた場所には、タウンに似つかわしくないぴかぴかの高級車が止まっている。濡れた日傘をからりと回して水を払った女性を、ナキはわずかに瞠目して見つめた。


「ダフネ?」

「変わらないわね、ここは」


 縦横無尽に蔦の這ったお屋敷を仰ぎ、ダフネは苦笑をこぼす。垂れ流したままのホースの水を止め、ナキは首を傾げた。


「今日はどうしたの? ……もしかして、朝のサイレン?」

「御明察。引きこもりの童貞は、今日もこの中?」

「最近はキューブにはまってるよ」


 もはや引きこもりのあたりには突っ込みもせず、ナキはうなずく。ヘイゼルの髪をシニヨン風にまとめ、白のブラウスにグレイのジャケットを羽織ったダフネは、雑多なこの街にはさっぱり似合わない。それもそのはず。ダフネは東京政府・公安局の『補佐官』だった。タウンと東京の間を唯一公然と行き来する女性。ぴかぴかのボンネットの車の前では、スキンヘッドのスーツの男が立っていて、ナキと目が合うと会釈をした。


「あんたは? 今日は休み?」

「うん。ノアの館の襲撃で、お小遣いももらえたし」

「稼ぎ頭は余裕ねえ」

「あのとき死んだのは東京の前総帥だっけ。知り合い?」

「面識はないわ。私ごときじゃね」


 薄く微笑み、ダフネは屋敷の指紋認証をくぐる。昼下がりのこの時間、屋敷の照明は落とされ、窓辺から午後の気怠い光が射し込んでいる。遊戯で駆り出されているチルドレンもいるけれど、ほかの暇人たちはおおかた屋敷のどこかで惰眠を貪っているか、街に遊びに出ているかだろう。

 ダフネを案内しながら、ナキは迎賓用のホールから微かな歌声とピアノの音色が響いていることに気付いた。思ったとおり、シャンデリアが吊り下がったホールでは、ピアノを弾くシュエの隣で、ウタが楽譜をめくっている。敏感に来訪者の足音を察したシュエが指を止める。伏せがちだったふたりの少女たちの眼差しがダフネに向いた。


「ごきげんよう、シュエ。邪魔をしたわね」

「……ダフネ?」


 声を返したのはシュエだけで、ウタは「ナキ」と華やいだ笑顔でナキの腕に手を回す。


「スナフキンを洗うのは? もう終わったの?」

「まだ。ダフネが来たから、シャーロックを呼びに来ただけ」

「ふうん? なら、ウタが呼んできてあげる」


 ことシャーロックを部屋から引きずり出すことにかけては、ウタはたぐいまれなる才能を発揮する。軽やかな足音を立ててトゥシューズを翻したウタを、ダフネは苦笑まじりに見送った。


「アレも相変わらずか……」

「リクエストは、ダフネ? ご所望のものを弾いてあげる」

「あんたはいつもいい子ねえ、シュエ」


 天使の微笑みを向けたシュエに、ダフネはすこし口調を和らげて、昔のピアノ曲のタイトルを挙げた。ソファに腰掛けたダフネは、ナキのほうへ白い箱を差し出す。開けると、チョコレートがかかったドーナッツが六つ。


「あんた、甘いもの好きでしょ?」


 ナキはドーナッツ箱を抱き締めたまま、こくりと首を振った。


「とても。すごく」

「お茶を淹れてきてくれる? 取り分はあんたが三つでいいわ」


 いくら堅物と笑われるナキといえど、ファミリーのしたたかでゲンキンな血はしっかりと流れているので、こく、と小さくうなずいてきびすを返した。もちろん抱えたドーナッツの箱は離さない。いま、ターゲットが襲撃してきたら、ナキの愛銃『コマドリ』が即効火を噴くだろう。ドーナッツだけは奪わせない、絶対。

 厨房で湯を沸かして、存外丁寧に茶葉から四人分の紅茶を淹れる。ほかのチルドレンには教えてないけれど、ナキはお茶を淹れるのが結構うまいのだ。客間に戻ると、


「この、どろぼう鳥がっ!」


 とかなんとか叫びながら、ウタを追いかけているシャーロックがいた。見れば、完成しかけのキューブがウタの腕に抱えられている。こわーい、とぜんぜん怖がっていない様子でホールを走り回って、ウタはシュエの隣にぴょんと腰掛けた。ナキはマグカップをダフネ、シュエ、ウタの順に置く。最後はナキ。


「おい、俺のぶんの茶は?」

「自分で淹れれば?」


 シャーロックとチルドレンの関係とはおよそこのようなものなのである。

 

「久しぶりねえ、シャーロック。あんたまだ童貞なの?」

「ダフネ。おまえこそ、その盛り乳、いい加減年甲斐もねえぞ」


 ダフネとシャーロックのあいだでしばし殺意にも似た視線の応酬が交わされる。最初に根を上げたのはシャーロックのほうだった。引きこもりのせいでまばらに生えた顎髭をさすり、「で?」とダフネを促す。


「今日の用件は? 『補佐官』どの」

「シャーロック。あんたに折り入って、頼みがある」


 ダフネは、足元に置いたアタッシュケースから七枚の写真を取り出した。どれも同じ灰色の貫頭衣を着た男が、コンクリの壁の前で無表情に映っている。一枚にひとりずつで七人。年は二十代から三十代ほどの男に見えたが、それ以外に共通する特徴はない。


「今朝がた、小伝馬刑務所から七人の囚人が逃げ出したの。彼らは、旧かもめ橋の警備員を襲ってゲートを越え、タウンの方向で消息を絶った――ことだけはわかっている」

「今朝のサイレンか。それで、全員始末しろって?」

「いいえ。すべて生け捕りにしてほしい」


 艶やかな赤の爪が写真を弾く。シャーロックは、シュエが半分分けてくれたドーナッツをかじった。ソファに姿勢よく座したダフネに対して、シャーロックは背を丸めて、抱いた片膝に顎を乗せている。どこまでも対照的なふたりだ。やがてシャーロックが、うんと大きなのびをした。


「うち向きの案件じゃねえなあ。生かすってどのくらい。内臓の損傷はどこまでオッケー?」

「受けてくれるの?」

「ゲームは条件を先に訊かねえと。後出しカードはやられるほうは勘弁」

「軽度の外傷ならかまわない。骨折も治せる程度なら可。ただし、内臓はすべて無事でお願い。報酬は二億。どう?」

「三億。それと治安省高官の首をすげかえろ」

「やだ。あんた、あいつが検問を強化した件、まだ根に持っているの?」

「俺はしつこい男なんだよ」

「だから、女ができないのよ。……高官の件は悪いけどペンディングで。報酬は前払い?」


 言いながら、金額を書いた手形をダフネが写真の横に置く。それに無関心そうな一瞥をやり、シャーロックはドーナッツのカスがついた指を舐めた。ふたりの応酬を眺めるナキの膝では、ウタが退屈そうにあくびをしている。


「その七人の囚人っていうのは、いったい何をやらかして豚箱に入ったんだ?」

「たいした話じゃないわ。強盗殺人に強姦、人身売買。特筆すべき点もない事件ばかりよ。必要ならあとでデータを送る」

「ふうん? ちなみに脱走の方法とルート、外からの支援者の有無は?」


 シャーロックの問いに、ダフネは一瞬妙な間を開けた。才気煥発なダフネが、シャーロック相手に言い淀むなどめずらしい。


「……さあね。詳しいことは聞いてない」

「成程」


 ダフネの曖昧な答えに、何故かシャーロックは急に得心がいった顔をして顎を引く。それでシャーロックのなかでは、状況整理ができてしまったらしい。ウタの手から取り返したキューブを手形のうえに置く。返答はわかったの一言。シャーロックなりの取引成立の意思表示。


「……案外、あっさり受けてくれるのね」

「俺は『家族』には寛大なもんでね」

「元・家族でも? 愛情深いことね、シャーロック」


 ダフネは自嘲気味にわらう。

チルドレン三番『女帝』。二十年以上前、シャーロックとともに番号つきのチルドレンだった少女は、ファミリーを捨て東京政府に寝返った。そのときに何があったのか、ナキたちは知らない。だけど、引きこもりのシャーロックは今も、ダフネだけはきちんと部屋から出てきて迎える。生き別れた家族に対するように。

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