一幕 No.12の歌えないナキ 08

 先ほどホールに響いていたのと同じ清らかな歌声が、暴虐と化した血の海に流れる。口ずさみながら、ボーイの身体をひとつひとつ傷つけていくウタは幸福そうだ。浅く表面だけを抉って、深くは傷つけない。ゆえに、のたうち、這いずり回り、しまいには小水を垂れ流して泣き声を上げても、ボーイの心臓は機能を止めない。


「ウタ。やめなさい」

「どうして、ナキ? この汚い雄はきらい。ナキを傷つけた」

「ウタ」

「でも、ナキもわるいね? ウタを呼ばない。汚い雄にいいようにされたのは、その罰」


 花色の唇から紡ぎ出される美声は蜜のよう。トゥシューズの爪先を鮮血と汚物で汚しながら、ウタはどこまでも清らかでうつくしい。

 ウタ。わたしのウタ。

 八年前。シャーロックは、ひとりの子どもを教練場に連れてきた。白亜の髪と白磁の膚、柘榴石の眸を持つだった。D棟の子どもたちは一年後、ナキを残してそのすべてが消えている。少年が周囲のものを手あたり次第、ちぎってもいで、壊してしまったからだ。チルドレンのひとりが彼に向けたナイフで、誤って少女の――わたしの髪を切ってしまったのが原因だった。ウタは子どもたちに報復した。


『みんな、きらい。ねーさんも、にーさんも。みにくくて、きたない』


 白い身体を兄姉たちの血で真っ赤に染めて、ウタは幼子のようにしゃくり上げる。


『でも、ナキだけはちがう。ぼくにうたってくれたから』


 ねえ、ナキ? 

 腕の中で、ウタはいつものように頬を擦っておねだりをする。


『あなたがすき。もっと、うたって?』


 にいさんもねえさんも、ちぎれて、もげて、今はみんなウタの足元に散らばるばかり。ひとの肉片が積み上がった、血のにおいで噎せかえる室内。狂ったように響くボンボン時計の音を聞きながら、ナキは呆けた顔で少年を見つめる。ウタはそれでも、ちらとも汚れない。


(ああ)


 唐突にこのかよわい少年の正体をナキは悟った。

 清らかでうつくしい。あなたはどこまでいっても、無垢な、ただの。

 

(ばけもの)


 知らなかった。知らなかった、では済まされない。

 正気と狂気のあいまを生きる『チルドレン』だからこそわかる。

 この子は、ちがう。わたしたちとは、ちがう。

 わたしは育ててはならないものと心を通わせてしまったんだ。


『ウタ。それをわたしにちょうだい』


 瞬きをした少年の手を取って、ナキはその中におさまっていたナイフを引き寄せる。にいさんとねえさんの血と脂を吸って、ぎらぎらに濡れたそれ。ウタはナキの前では従順に、なされるままになっている。


(もしも、今ここで)


 ナキの脳裏に、その誘惑は星のように瞬いた。


(この子を、わたしが)


 たとえこのナイフを突きつけても、膚を破り、心臓を貫いても。ウタはたぶん、抗わない。ナキの愛を信じているから、抗わない。あるいは、歓喜の声すら上げるのかもしれない。ナキの手がウタに終わりをもたらすことに。喜びを感じながら目を閉じるのかもしれない。


『ナキ?』


 ウタの頬に、ナキはそっと手を添えた。丸くなぞる、その頬はまだあたたかい。あたたかい。あたたかいのだ、まだ、どうしようもなく。……どうしようもなく! 

 泣き出したくなって緩く首を振り、ナキは少年の身体を抱き締めた。


『ゆるして……』


 目の前のウタにか、それとも名前も知らない神様にか、祈りたくなって呟く。わたしはこの子を殺せない。この子が人間の皮をかぶったばけもので、ひとの命なんてなんとも思っていなくて、この先、たくさんのものを壊しちゃうんだとしても。わたし、殺せない。うしないたくない。

 わたしが、ウタをうしないたくない。

 だから――。


『ウタ。もう一度交換こ、しよう?』


 白銀の髪をやさしく撫ぜて、ナキは口を開いた。


『わたしはウタがすき。だから、わたしたち、いちばん大事なものを交換するの』

『ナキの……だいじなもの?』

『わたしの歌は、ウタにあげる』


 だから、名前も知らない神様。


『代わりに、ウタのナイフはわたしにちょうだい』


 どうか、おねがい。


『殺すから。何人でも何十人でも何百人でも、わたしが殺し続ける。『チルドレン』として。――だから、ウタ。あなたはもう誰も、傷つけたらだめ』


ウタを奪わないで。


『歌って。もう歌わないわたしの代わりに』


 そのとき握った手のぬくもりが。

 たったひとつ。歌をなくしたわたしの宝物。


「――……ウタ!」


 鋭い制止をかけ、ナキは震える指で『コマドリ』を引き寄せた。手になじんだグリップを握り、かちりと撃鉄を起こす。


(こたえて、『コマドリ』)


倒れたボーイの前でウタは静かにこちらを眺めている。沈黙を切り裂くように、聞き慣れた銃声が『コマドリ』の口から噴き上がった。



 *



 ……カタン、タタ…、タ…

 ひびの入った窓硝子を外から吹き付ける夜風が叩く。


「……ナキはいじわる」


 爪先を濡らす脳漿と血液に目を眇め、ウタは呟いた。頭を吹き飛ばされたボーイは、ウタの前ですでに事切れている。


「いつもぼくの獲物を奪っていくね?」

「奪うよ。わたしが生きている限り、何度でも」

「ふふ」

「……どうして、わらうの」

「まるで告白のようだったから」


 聖女の微笑みを宿してウタは、横たわるナキの前にかがんだ。汚れた頬を不思議ときれいなウタの手がするりと撫ぜる。あったかい。気のせいかもしれない。血が抜けて、脳震盪まで起こしたせいで、身体がどこかおかしくなったのかも。だけど、頬を慰撫するウタの手が、泣きたくなるくらいあたたかいとナキは思った。


「ぼくをあいして、殺し続けてね、ナキ?」


 砂糖菓子のように甘い口付けは、苦い血の味がした。

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