一幕 No.12の歌えないナキ 05
「ウタ。交換こしよう?」
それが幼い頃のナキの口癖だった。
シャーロック所有の子どもたちの教練場。ナキは物心ついたときにはそこにいた。にいさんやねえさんたちと同様、タウンのごみ捨て場で、気まぐれにシャーロックが拾ってきたらしい。シャーロック・チルドレン。たった二十一人しかいない『ナンバー付き』になるために、子どもたちは日夜トレーニングに励んでいる。
標的を仕留めるための技だけでなく、たちふるまい。技の美しさ。情報収集。戦略の立て方や、客へのもてなし。そういったものを子どもながらに専門の教官から叩き込まれるのだ。教練場にはA~D棟があり、そのうちのD棟でナキは同年代の子どもたち三十人ほどと生活をともにしていた。
シャーロックのもとにやってくる子どもたちは、ナキのような孤児か、親兄弟に売られた者、あるいは暮らしの貧しさから自ら志願したものがほとんどだ。境遇はそれぞれだけど、ここ以外に居場所がないということは変わらない。みんな同じ。同じくらいに不幸でみじめ。ときに争ったり、言い合ったりしながら、その頃はそれなりに子どもたち同士で仲良くやっていたように思う。
異変が起きたのは、「ウタ」がやってきてからだ。
お屋敷にはじめて連れられてきたときから、ウタはほかの子どもたちとはちがっていた。すべらかな白亜の髪、処女雪を思わせる白磁の膚、柘榴石の眸。まるで神様がことのほか丁寧に手を入れてつくったかのような美しい子ども。
シャーロックはウタを『白亜の宝石』と呼んだ。他の子どもたちはみな『D棟の何番』なのに、ウタだけは『白亜の宝石』。それに、『白亜の宝石』はトレーニングを免除され、子どもたちが血反吐をはいているときも、ソファからのんびり眺めているだけで済んだ。
「ウタはおかしい」
ねえさんが言った。
「なんで、あいつだけがおれたちとちがうんだ?」
にいさんが顔を歪めた。
そのあとウタに起きたのは、兄姉たちによる陰湿な虐待と凌辱だった。くすん、くすんと誰にも見つからない、階段下のかくし書庫で、ウタはひとり膝を抱えて泣く。ナキがかくし書庫の扉を開けたのは、偶然だった。かくし書庫には、ナキが好きな楽譜がたくさん置いてあったから、兄姉たちには秘密でときどき通っていたのだ。
「ウタ?」
「……ねーさん」
びくりと身をすくめて、ウタはナキの持つランプがあたらない場所に逃げ込もうとした。その膝小僧が擦り剥けているのに気付き、「待って」とナキは呼び止める。ウタは聞かなかった。
「待って。白亜の宝石」
「こないで」
「でも、膝が擦り剥けてる。白亜のほうせ……、ウタ」
にいさんとねえさんはウタを見つけると、とたんに目の色を変え、縄と拷問具を持って捕まえにくる。教官はいつも遠くから無関心そうに眺めているだけ。
(にいさんとねえさんに見つからないようにしないと)
ナキは注意深くかくし部屋の扉を閉めると、ウタの身体をそっと奥から引きずり出した。見えるところも見えないところも隅々まで痛めつけられたウタは、白亜の色が嘘のように熱い。ナキはそのときはじめて、にいさんもねえさんも、それを傍観していたわたしも、とてもひどいことをしていたのだと思い至った。
「ウタ。だいじょうぶ? いたい?」
子どもたちの手の届く場所に、薬や包帯のたぐいは置いてない。何しろお屋敷にいる子どもたちは、薬品の使い方や怪我の治療ひとつをとっても『トレーニング』であり、教官の許しがなければ、扱えるものではなかったから。ふるりと力なく首を振って、ウタはしばらくナキの腕の中で震えていた。背中をさすってあげると、強張っていた肩の力が徐々に抜け、ナキのニットの裾をウタの手が握り締める。次第に目をとろんとさせて、ウタは少し安心した様子でナキの腕の中に身体を預けた。
「ねーさんもにーさんもこわい。……でもあなたはすき」
傷を負った身体を震わせながら、おずおずと囁くウタは愛らしい。とても。
娼妓だったという親に捨てられたナキは、誰かに愛されたことがない。誰かを愛したことももちろんない。そもそも、ナキ自身だって、父と母が愛し合って生まれたわけじゃない。母の股に注がれた数多の精液のどれかひとつがたまたま、卵に届いて受精しただけ。それがずるずるとかたちを作って、間違ってこの世に産み落とされてしまっただけ。わたしは愛を知らない。わたしの身体も、心臓も、細胞のひとつひとつも、愛なんて触れたこともないし、見たこともない。だけど、それでも。
「もう怖くない。怖くないよ、ウタ」
今この子に向けているものが、愛情と呼ばれる、あたたかくていとしいものならいいなって。わたし、この子を愛せていたらいいなって。祈るように思う。傷ついたウタに触れているわたしがすこしでも、やさしいものであれたら。
「そうだ。ねえ、ウタ。わたしたち、交換こしよう」
「交換……?」
不思議そうに瞬きをしたウタに、そう、とナキはうなずく。今しがた思いついたことを、とっておきの秘密を明かすように。
「ウタの痛い気持ちも寒い気持ちも、わたしがもらう。だから、わたしのあたたかい気持ちはウタにあげるよ。交換するの。交換したら、いたくないし、さむくない。ウタはなんにも、こわくないよ」
「いたくないし、さむくない」
人形のようだった柘榴石の眸にみるみる光が溢れ出す。ウタは固く閉じた蕾の美貌を緩めて微笑んだ。
「いたくないし、さむくない」
背中に回った手がきゅっとくるおしげにナキのニットを引き寄せる。
ちいさな身体で愛を確かめ合った、
――むかしむかしの、受信者不明のノイズに似た記憶。
*
東京屈指の歓楽街に、夜がやってくる。
鳥籠格子の娼館は艶やかに色づいて、街の出入り口となる大門にも明かりが灯る。昼のあいだ、まどろみの中にあった街は目を覚まし、道の至るところで客引きの少女や少年娼妓が立つ。掘っ建て小屋で催されているのは、フリークスショー。ストリップショー。格子越しに、歓声や嬌声、からからとサイコロが転がる音が乱れ鳴る。
「いらっしゃい、ナキ。久しぶりね」
灯りを持った少女に声をかけられ、ナキは我に返った。
「ウタの送迎? ご苦労さま」
「今日は一段と人が多いね」
「あなたたちの遊戯が目当てじゃない? ……少し寄っていく?」
「じゃあ、化粧室まで」
歓楽街でひときわ目立つ円形の建物がノアの館だ。『遊戯』への参加はこの館の中でだけできる。数時間後には開始の鐘が鳴らされるとあって、客の入りは上々だ。
チルドレンとして遊戯に参加しない代わりに、ウタはノアの館で週に一度、歌をうたう。ベットとベットの間にだけ催される歌姫の余興は、たいへんな人気を誇っていた。透明な歌声ももちろんだけど、ウタの類まれな美貌が彼らを惹きつけるのだろう。
運び込んだ衣装ケースをノアの館のフットマンが預かって中に運ぶ。シャンデリアが輝くホール内のステージには、今はまだピアノが一台置いてあるだけだ。早くに集まった客は、円卓でポーカーをはじめとしたゲームに興じながら、遊戯の開始を待っている。開始と同時に点灯する正面の画面はまだ暗い。
ナキはポケットに入れていた端末をそれとなく確認する。トリッキーたち情報屋から、アギラ=ソンジュの居場所に関する確定的な情報はまだ入っていない。ほかのチルドレンはどうだろう。遊戯が始まると、競争相手の動きも画面に映されるようになるから、状況は把握しやすくなるけど、開始と同時に標的を捕まえられるのも困る。使い走りに追わせている限りだと、十番『運命の輪』も十九番『太陽』もまだ大きな動きは見せていないようだったけれど。稼ぎ頭のナキは敵が多く、特に一番『魔術師』なんて、遊戯に参加していなくとも、気まぐれにナキを妨害してくるから注意が必要だ。
「今日はシャーロックも館に現れるらしいよ」
ナキとウタを化粧室のほうへ案内しながら、フットマンが教えてくれた。
「あのひきこもりが? めずらしい」
「ときどき、こっそり紛れていることはあるけど。今日は席を予約していたから、本当」
「何時くらいに来るって?」
「六時。遊戯開始と同じだね」
ふうん、とナキは思案げに目を伏せ、うなずいた。
ホールがある一階に対して、二階は使用人たちの部屋や荷物置き場になっている。ウタの化粧室があるのも二階だ。照明の落とされた廊下を進み、化粧室のドアを開ける。フットマンに衣装ケースを運び込ませると、ウタは扉の鍵を閉めた。ナキの前で、シュミーズドレスをためらいもなく脱ぎ捨てる。キャミソール一枚の幼い身体が中央に置かれた鏡に映った。
「ナキ? 手伝って?」
衣装ケースから引っ張り出したパールホワイトのドレスを差し出し、ウタがねだる。白銀の髪がむきだしの肩からさらりとこぼれた。ナキはほんの少しためらってから、ドレスを受け取る。いつものシュミーズドレスとはちがう、上等なモスリンのイブニングドレス。外からの輸入品である手織レースをふんだんに使い、裾のほうには百合の刺繍をあしらってある。そして、未孵化でうすっぺらな、だけどナキとは異なる身体。鏡越しに見つめるそれは、白い蛹のよう。きれいだと、思った。ぜんぶちがう。わたしとはちがう。何もかも。
「ナキ?」
ドレスに袖を通しながら振り返った少女に、なんでもない、と首を振る。
「ね。ドレス、似合う?」
「うん。きれいだよ」
ホックを上げると、鏡の中の可憐な天使にナキはそう言った。
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