一幕 No.12の歌えないナキ 04

「ナキちゃん。見て」


 トリッキーが指した画面には、シャーロックからもらった写真の男――アギラ=ソンジュが映っている。場所は講堂か何からしい。灰色の軍服に身を包んだソンジュが舞台に立ち、同様の軍帽・軍服着用の青年たちが客席に詰めている。


「これは二年前、ソンジュの演説会のときの写真ね。ちなみにあたしのかわいいナキちゃんは、演説会のタイトルはご存知かしらん」

「潰れていてよく見えないけど……」

「解像度上げるわね。ほら、この横断幕。『シャーロック・タウンを解体せよ』ってなってる」

「なにそれ」

「表向きは住民ゼロのごみの埋め立て地。実際は東京屈指の歓楽街。そして、犯罪者や違法滞在者の巣窟。タウンの存在については政府でも何度も議題に上がっているわ。シャーロックとつながりのある政治家や官僚、資産家のおかげで、追及は免れているけどね。アギラ=ソンジュは中でも過激派、シャーロック・タウンの解体を唱えていたらしいわん」


 トリッキーによれば、タウンの件だけでなく、目的のためには武力行使も厭わないソンジュに反発した腹心が今回の失脚をもくろんだらしい。彼が収監されたのち、過激派グループに属していた将校が何人か自主退職している。その行方はいまだにわかっていないとか。


「つまり、今回の輸送車の襲撃はその将校たちがやったということ?」

「可能性はあるわね。輸送車の職員の話だと、かなり手馴れていたようだったし」

「襲撃から一週間以上が経つ。何を企んでいるんだろう」


 考えこんだナキに、トリッキーも首を傾げる。


「さあねん。勘だけど、ここから先はきな臭そう。ともしたら、遊戯には関係のないことかもしれない。あんたたちはシャーロックの忠実な駒なのでしょ? 引き金を引く以外の知性が必要あるのん?」

「ナキ? この雄か雌かわからない生物が、わたし、きらい。こわしていい?」


 端末をひとしきりつついていたウタが、おもむろにナキのニットをつかんで言った。天使の美貌に浮かぶのは、餌をねだる猫のような表情。それまで冗談まじりで応酬していたトリッキーの顔つきが変わる。ナキはウタの額に手を置いた。


「ウタ」

「……ふーんだ。つまらないの」


 視線を解き、ウタはむずがるようにナキの背中に抱きつく。だっこをしてほしいときのウタの甘える仕草だ。


「ナキ。セックスしたい。ここはきらい」


 シャーロックの影響で、ウタはときどき妙な言葉を使う。嘆息して、ナキはウタを抱え上げた。ウタの言っている「セックス」は、単なる「だっこ」の意味合いだ。もうすぐ十三歳になるはずなのに、未だに性に孵化することなく、羽根のように軽い痩身。ナキの胸のあたりにぺたりと額をくっつけたウタへ目をやり、トリッキーが口端を歪めた。


「ナキちゃん。あんた、気味の悪い生き物を飼ってんのねえ」

「わたしのウタを悪く言わないで」

「あらあ、ごめんなさーい? その子、あんたの何?」

「いもうと」


 そして、わたしだけの『白亜の宝石』だ。


「嘘」


 情報料分の札束を置いたナキに、トリッキーは声を落として呟いた。


「とてもそうは見えないわよ、ナキちゃん?」

「……アギラの情報が入ってきたら、いちばんにわたしに回して。ほかのチルドレンから連絡が入ったときは、偽の情報を」

「了解。かわいいナキちゃんのためなら」


 その「かわいいナキちゃん」が、札束の額次第で容易に乗り換えられることもわかっている。でも問題ない。ファミリーの稼ぎ頭は、まだわたし。ほかのチルドレンには負けない、追いつかせない。わたしがファミリーの一番である限り、トリッキーは誠実な友人だ。


「また、いらっしゃいな」


 ひらひらと手を振ったトリッキーに軽く顎を引き、ナキはノブを回す。カウンターには空になったコップとサンドイッチ皿。それを片付けるトリッキーの背を見つめ、無言で扉を閉めた。かららん。来た時と同じベルの音が鳴る。


「ナキ? あの生物、雄だったの? 雌だったの? 結局わからなかった」

「ウタは知らなくていい」


 そっけなく返して、ウタの頭を撫でる。そうするとウタは満足して、たぶんトリッキーのことなんて脳の片隅からも消去して、目を細める。柘榴石の眸にはもう、ナキしか映っていない。


 愛車のスナフキンは郊外に置いてきたので、ナキはウタを連れ、今にも雨が降り出しそうな中心街を歩いた。必要になるたび継ぎ足した上下水道が無計画に伸びているせいで、タウンの通りはどこも不衛生で猥雑だ。頭上にはごっちゃに張りめぐらされた無数の電線。道にはカラフルな店のテントが張り出して、小さなプラスチック・テーブルに安物エールとつまみを置き、赤みを帯びた男たちが賭けに興じている。

 シャーロック・タウンの住人には、犯罪者と不法滞在者と娼婦と酔っ払いしかいない。みんなロクデナシ。わたしもロクデナシ。


「ナキ? 見て」


 電線に吊り下げられた鳥籠を見つけたウタが、蕾の美貌をふわりと緩め、そこに囲われた小鳥を指差す。格子の間から小鳥に指を差し伸べて、心地よさげに鼻歌をうたい始めたウタを、ナキは暗がりから目を細めて見つめた。ひといきれとガスで澱んだ雑踏を風が吹き抜ける。曇天にそびえる廃ビル群。そして、何者にも染まらないウタ。


「ねえ、ナキ。ナキはもううたわないの?」


 鳥と戯れながら、ウタが尋ねる。


「うたわないよ」


 どこかやましさを隠した声で、ナキは言った。

 昔はナキだって、よく歌をうたった。教練場の寮の書庫にあったたくさんの楽譜たち。譜面のひとつひとつをたどって音を覚え、この泣き虫な二歳下の妹に子守唄をうたってあげたこともあった。だけど、もううたわない。うたわないと決めたから。


「それは、ざんねん」


 ウタは大人びた仕草で風にかき乱される髪をおさえた。伏せられた柘榴石の眸に、嗜虐的な笑みが浮かぶ。


「バースデー・ソングはナキにうたってもらいたかったのにね?」

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