二幕 ノルンの誤算 04

 乳白色の入浴剤を入れたお湯のなかで、白亜の少女はきもちよさそうに目を細めている。入浴剤や香料といった嗜好品は、民間の商船が運んできて、一部のタウンの住人にびっくりするほどの値で取り引きされている。石鹸以外を使ったことがないナキには、使い心地はわからないけれど。莫大な金銭がかけられているだけあって、ウタはいつも精緻な人形のように美しく、そばにいると、ふわりと清廉な香りがくゆった。

 腰ほどまである白銀の髪にシャワーをかけて、ナキはシャンプーを手に取る。茉莉花の香料がついたそれをすべらかな髪にもみこんで泡立てる。

 ウタはほかのチルドレンとは異なる『白亜の宝石』。うつくしい宝石の世話は、お屋敷の老メイドが何から何までやっている。今日は老メイドが休みだから、代わりにナキがウタの身体を洗っていた。ひとりでは髪も洗えないと嘯く、無力な、愛らしいばかりの少女を。

 

「ウタ、ナキのシャンプーがいちばんすきだなあ」


 ころころと機嫌よく鼻歌をうたうウタは、年相応の少女のよう。とはいえ、平らな胸がふくらむことはこの先もないし、まだ頼りない輪郭を描く少女の背が女らしいまるみを持つこともないのだけども。肩甲骨の浮き出た背を何気なく撫ぜると、くすぐったい、とウタが身をすくめた。薄紅の膝こぞうを抱えて、顎をあてる。


「ナーキ。日曜の公演には来てくれる?」

「今の遊戯が終わっていたらね」

「じゃあ、七人のお馬鹿さんには早く出てきてもらわないと?」


 思案げに柘榴石の目を細めたウタに、「邪魔しないで」とナキは釘を刺す。


「これはわたしのゲーム。ウタには関係ないでしょ」

「ナキったら、真面目さんなんだもの」


 愛らしく首を傾げ、ウタは細い足を伸ばした。ぱしゃんと軽い水音がこもった浴室に響く。ウタ専用の浴室は、ナキの部屋にあるみたいなコンクリ打ちにシャワーだけのものじゃなくって、大理石に金の猫足のバスタブが置いてあるもの。東側に広い窓があって、そこからタウンの夜景が見渡せる。ブルーグレイの空に、ぽっかりと月が浮かんでいた。おぼろげで頼りない、夜の底にあるみたいな光。

 ナキはウタの髪についた泡を流し始めた。目を瞑った少女の肩に泡と湯が流れゆく。いつまでたっても孵化しない性の、危うげなうつくしさを持つウタの身体。先月、ウタは十三歳の誕生日を迎えた。この身体はいつ、今の少女らしさを失ってしまうんだろう。反対にわたしの薄っぺらな身体はいつ、少女に兆してしまうのか。そういうことを考えると、ナキの心臓はぎゅっと冷たくなって、不安でたまらなくなる。

 つきつけないでほしかった。

 先のことを尋ねるダフネも、洗って?などと軽はずみにねだるウタも。

 わたしはあしたのことなんか、考えたくもないのに。


「ナキ?」


 甘やかに澄んだ声が、昏い目をするナキを呼んだ。肩や胸に白銀の髪を張りつかせたまま、ウタがナキを振り返る。バスタブで湯につかるウタに対して、ナキは黒髪をピンで留め、キャミソールに短パン姿をしている。えい、とナキに手にすくった湯をかけて、ウタはころころとわらった。


「どうしたの? ナキも一緒に入る?」

「いいよ、わたしは。狭いし」

「ナキの身体はウタが洗ってあげるよ」

「……ひとりで洗えなかったんじゃないの?」

「えへへ」


 にこにこと微笑む少女に呆れて、シャワーの蛇口をひねる。顔面に湯を浴びたウタは、ふあっと声を上げた。


「ひどい、ナキったら。いじわるしないで」

「ウタのほうがずっと性悪だよ。自分でできるなら、自分でしなさい」

「ナキは今日はご機嫌斜めだね?」


 別に、と口にしようとしたナキを遮るように、ウタが続けた。


「昼のこと? まだ腹を立てているの?」


 ふっと息をついて、ウタはバスタブのふちに腕を置く。中途半端に残った泡が少女のうなじから肩にかけてを滑り落ちる。ナキは目を細めた。


「ねえ、ナキ? ナキの考えていることをあててみようか」


 艶やかに低い声でウタは囁いた。

 見つめ返した柘榴石の眸は、深い水底のよう。その奥に確かな知性を宿して、ウタは指を折った。


「ターゲットは七人。二、二、三……。ノルンが二、ナキが二、魔術師に取り分三人で勝たせるのが妥当かな――というところ? やさしいね? ナキは」


 ウタの声にはさげすむような冷たさがあった。知らず表情を消したナキのほうへ、ウタが身を乗り出す。シャワーの水音だけが浴室にあてどなく響いている。


「遊戯を真面目にやらないワルイコは、シャーロックに告げ口しちゃおうかなあ」


 無邪気に脅迫をかける少女に、ナキはうすくわらった。


「何を根拠に? わたしはいつだって勝つつもりで遊戯に出てる」

「嘘吐き」

「わたしの心の中がウタにわかるの?」


 あくまで言い張るつもりのナキに、ウタは軽く肩をすくめる。


「いいじゃない、チルドレンのひとりくらい。ライバルが減ってやりやすくなるかも」

「見くびらないで。ひとりやふたりなんかで、わたしの地位はゆるがない。あなたの欲望の理由をわたしに求めないで」


 玻璃がふれるように尖ったナキの声に、ウタは瞬きをする。それから、しかたないなあ、とやわく苦笑しておとなしくなった。ナキを翻弄して遊ぶのは、それでおしまいにしたらしい。


「ウタがあの女のものになっても知らないんだから」


 不機嫌そうに呟いた少女に眉根を寄せ、ナキはひとときだけその身体を引き寄せる。膝立ちをしたまま、ぬくまったウタの肩にそっと頬擦りをした。いとしさで視界がちかちかと明滅する。シャワーヘッドが床に転がり、緩やかな水音にすべてがかき消されていく。脳内でちらつくうるさいノイズもすべて。すべて。

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