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 天使たちの体が次々と地面に叩きつけられた。クーカの思いはそこまで強かったのだ。しかしあくまでクーカは地上のものだ。さらに多くの天使たちによって完全に押さえ込まれてしまった。

「はなせぇぇぇぇぇぇぇっ」

 クーカの、人生最後の叫びだった。物悲しい声。最後まで、自分を見つけられなかった、ありきたりな男のありえない終末。

 天使たちはクーカをばらばらにして、イデアの一つ一つをこの世から抹消していった。その体、その魂だけでなく、その歴史まで消してしまおうとしているかのように。そこまでしなくても、彼はとっくにその核を失っていたというのに。

 そして、俺は見た。そのものたちの、悪意に満ちた目を。今の白い天使たち、その姿はどう見ても……

 食いつぶされたクーカは、跡形もなくなった。既に俺の記憶からも消え去ろうとしている。

 そして天使たちは、次の標的をキーンに定めた。神の手のひらで静止しているキーンに群がり、その魂を引っ張り出そうとする。

「残酷なだ」

 レディットの言葉が、俺の胸にも傷をつけた。だが今は、それを受け止める余裕がある。もはやすべきことは一つだ。

「自由、か」

 翼が、天に向かって大きく開くのが分かった。

「それもまた、残酷だ」

 レディットを抱いたまま、俺は飛んだ。戦場に向かって、進んでいく。


《我が糧になれ、朽果てし子よ》


 突然覚醒したかのように、神の意志がキーンの体を突き抜けた。キーンは必死にイデアを固定するが、もはや限界だったようだ。ぷしゅう、と音を立てながら口から煙を吐く。あれでは、ただの機械だ。

「か……神など……所詮……」

 だが、キーンはまだあきらめない。残った力を振り絞って、直線的な腐敗のイデアを神に叩きつけた。

 神の仮面が砕かれ、砕け散った。

 他の天使たちも、動きを止めた。誰も見たことがなかった素顔が、ある。

「貴様」

 そして、初めて聞く、生の声。しわがれた、ありきたりな声。

「ふっふっふ。化けの皮がはがれた」

 スクラップ寸前ながら、キーンは勝ち誇っていた。

 老婆は、キーンを思い切り地面に叩きつけた。がしゃん、と音を立てて、いくつかのパーツが体から零れ落ちた。

「これは、我が器ではない」

 よろよろと歩き始めた老婆。

 あれが、神?

 腰は曲がり、歩みはおぼつかない。今にもこの世から消えてしまいそうだ。

「ジェット、あれはどういうことなんだ」

「そうか。仮面は、威厳の象徴だったのか」

 あの神の肉体は、明らかに人間のものだ。しかも相当使い古されて、今にも崩れ落ちそうな。しかし先ほどまではそのことにまったく気が付かなかった。あの仮面を付けることにより、神自身が強さを信じ込むことができたのだ。イデアを信じ込ませ、真実にするペルソナ。

 そして、キーンの言っていた意味。僕らが力ある者を見張っていた意味。全てがつながった。誰かが新しいペルソナを手に入れれば、神の地位は危うくなる。本当に力あるものならば、そのものを神に取り込んでしまえばいい。

「しかしだとしたら、それ以前は?」

 もし、神が人間の器を借りていたのだとしたら、世界の始まりから人間が生まれるまではどうしていたというのか。

「まさか、世界はひとつでは……?」

 自分の予想に、唖然としてしまう。神を生み出す神がいるとしたら?

 神の視線が、こちらを向いていた。俺を見て、そしてレディットを見た。

「器……」

 ルイティーンは、こうなることを予想していたのだ。あのときから……

「ジェッティーン、それをよこせぇぇぇぇ」

 老いぼれた体の内側に、神の魂を視た。この世界を創り、この世界を維持し、この瞬間を支配している存在。その力は絶大だ。けれども、その中心は空っぽだった。たまたまそれを持ってしまっただけで、どうしたいとか、どうなりたいとか、そういうものがまったく感じられない。

「哀しいお方だ」

 天使たちが一斉にこちらに向かってきた。彼らもまた、一人一人別の存在のはずなのに、今はそれが見えない。せっかくこの白い翼を手に入れたというのに、俺たちは分かり合うことができないのだ。名前も知らない、同胞たち。

 たぶん、さようならno goog bye

「ジェット、いいのか」

「ああ。彼らに、自由を」

 腕の中で、熱くて優しいイデアが膨張していった。これまでとは異なる、曲線的な意志。体の成長が、内面的な成長も促したようだった。

「天使たちは、堕ちる運命なんだな」

 紫の光が、放射状に伸びていった。光は天使の体を染め上げ、包み込み、そして侵食した。天使たちの時間が停止する。物体に備わる本来の時間性が剥奪され、空間に固着してしまう、悲しき魂たち。

「自分が怖いよ」

 レディットは震えていた。俺は、少し腕の力を強めた。

「今は、行こう」

 おぞましいほどの恨みのイデアが神を中心に渦巻いていた。若いもの、強いもの、そして優しいものへの恨み。

「あそこから、神を、剥ぎ取ろう」

「そんなことができるのか」

「わからない。けれども、そうしたい」

 俺は、あいつが嫌いだった。

 いつも勝手気ままで、俺らの殺し合いを見て楽しむあいつが憎くてたまらなかった。だから、戸惑わない。世界とかどうとかではない。俺と、レディットのために、この牙をむく。

 翼が大きくなっていく。白い光と紫の光が、大地の霊気を吸い上げていく。もはや信者たちも二人の衝突の糧に過ぎない。

 レディットに潜在的だった力は、どこまでも果てしなかった。子どもの内側に押し込めていた、祝福された力。終焉へと進むことと引き換えに、可能性はどこまでも増大していく。これを、渡すわけにはいかない。そして俺の強い意志は、彼女のすべてを守り抜こうと思っている。

「ジェッティーン、ルイティーン、貴様ら、我に逆らうのかぁぁっ」

「そうです。あなたに逆らいます」

 いつの間にか、ルイティーンが隣にいた。彼の翼は、まだ黒い。彼も、あの天使たちとそう変わらないように見えた。

「あなたは夢を見すぎた。人間を見て、求めすぎてしまった。肉体を持つ必要などなかったのに」

「貴様にわかるかぁぁっ、永遠に変わらないことの恐怖がぁぁっ」

「分かって欲しかったんですか。ならば、分かり合おうとすべきだったのでは?」

 ルイティーン自身のイデアの意志が、増幅されていく。自由への渇望。それは、どれだけ大きくなっても、ただの望みでしかない。

「……自由を」

 世界から色が消えた。光が、イデアが、望みがぶつかり、混じり合い、消え、生まれ、消え、生まれ……

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