7

 背中がむずむずする。

 ここ数日、常にそうだ。

 この事件に関わって以来、何かが崩れそうな気がする。僕の中で、ざわめきが止まらない。

 夜、眠れないというのはだ。足はもう痛まない。イデアもなじんできたのか。部屋を出て、廊下を歩く。夜のMCSR。

 庶民の知らない地下に本拠地を置くという点では、MCSRは本山と似ている。知られてはいけない場所、内容、全て。世間に対して恐怖を与えながら、その実態は隠蔽されている。後ろめたさを感じていては、やっていけない。

 静かというわけではない。夜にも宗教家は活動する。MCSRは常に備えている。神を捨てきれない人々。霊魂にすがりつく人々。人々は唯物論だけでは生きていけない。だが、唯物論体制を選んだ……それが選ばれてしまった以上、信仰は隠蔽されなければならない。そして僕らのような隠しきれない存在は、より積極的な隠蔽へと協力することで生存を許される。この世に事実存在するものを、大多数の庶民にとってなかったことにする。それが僕らの生きる術なのだ。

 角から短い影が。硬い靴が床をたたく音。表れる黒い髪、釣りあがった目、短い鼻、小さな口。青いセーター、黒いロングスカート。

「なんだ、お前も起きていたのか」

 普段着のレディット。どことなくいつもよりさらに小さい。

「ええ。働き足りなくて」

「いっちょまえのことを言う」

「レディットはどうしたんですか」

「手術の後は眠れない。痛むが、併用が禁止されているので鎮痛剤も睡眠薬も飲めない。生きるためにはただじっと耐えないといけないらしい」

 首を振る少女。成長を押さえつけられた代償、それは大きい。

 腐迷症。成人女性しか発病しない、一度発病すると徐々に神経が機能しなくなる奇病。20才までの生存率、約12%。25歳まで、3%。30才、0%。治療方法は全く見付かっていない。生き延びるための唯一の手段は、大人にならないこと。大金持ちだけが高価な手術と高価な薬品によってその手段にありつける。何百万人に一人の不幸な病気に犯されながら、何百万人に一人の富豪の子供として生まれたために生き残った女性、それがレディット・ティオウス。

「夜は静かだといいんですが、そうもいかないですよね。コンビニみたいな職場ですよ」

「変なことを言うな。なんなら外に出るか」

 職務外の夜間外出は禁止だ。それでもレディットは、冗談という顔ではない。

「でも、今は……」

「若いくせにかたいことを言うな。今の時間なら車も使える。もちろん私は運転しないが」

 見上げる少女の目。いつもより大きく見える。

「僕はもう始末書書きませんよ」

「いいだろう。私の方が字がうまいことだし」

 MCSRに入ってはじめての意図的な規則違反。後ろめたさは、どこにもなかった。



 夜のトウキョウは、ドライブにはもってこいだ。戦前人口が多かったおかげで、道路網が整備されている。電灯も多い。そして戦後都市交通システムが導入され、旧環状線内は夜間を除きタクシー以外通行禁止になった。最初の頃こそ皆自動車を所有していたが、いつ頃からか、一部の愛好家以外マイカーにお金をかけることがなくなった。今では夜間といえども、交通量はまばらだ。

 MCSRの車は、さすがに快適だった。教習所のお古とは格段の差だ。座り心地も、踏み心地も、押し心地も全然違う。それに隣に座っているのは無愛想な教官ではなく美少女なのである。

 この街は死にかけているが、元々が生きすぎていたのだろう。網の目のように走っていた地下鉄は、今では全て止められた。高架の環状線も、路面軌道に切り替えられた。虚ろに建ち続けるビル群は置いてけぼりだが、都市そのものは何とか健全さを取り戻そうと踏ん張っている。

「このままどこかに走り去ったら、MCSRに追われることになるな」

 ひどく楽しげな顔。まるで、本物の少女のようだ。

「どれぐらい逃げられるんですかね。試してみたい気もします」

 僕の心も少し浮かれている。背中はすっきりしている。この束の間の自由が、僕を解放しているのだろう。

「まあ、史上最強の私がついてるんだ。そうそう簡単には捕まらないだろう」

 逃避行を想像した。少女と僕、様々な能力を駆使して追っ手を振り払う。レディットと一緒ならば、あっという間に空間を飛び越えられる。爽快だろう。ただし、ストックの減っていく薬、手術の必要性。成長し始めた体は、病に冒され始める。衰弱した少女を抱えて走る僕。捕まる。

「そうですね。でも、遠慮しときます」

 コンビニエンスストアの光が、寂しく辺りを照らしている。経済活動の停滞した古い器の中で、必死に過去の繁栄を引き継ごうとする24時間営業。全く現代から切り離されてしまった30階建ての高層マンション。空想の動物を語ることが禁止され、「龍」の文字を塗りつぶしている中華チェーン店。「唯物論に基づく作品しか置いていません」と看板を掲げる書店。

 見えるもの全てが疲弊していた。まるで、何かの魔術にかかっているかのようだった。誰もが一度は考え、必死で振り払うこと。《唯物論じたいが、宗教のようだ》

「おい、ジェッティーン!」

 突然、レディットが叫ぶ。視線の先には左右対称のツインビル。かつての都庁。

「どうしました?」

「何かが、飛び出したぞ!」

 ぼんやりとした月明かりしかない、遠い空の中。小さいが、人影、そして翼のようなものが見える。旋回するように飛んでいたが、バランスを崩し、急降下していく。

「まさかあれは……」

「急げ、確保するぞ!」

 アクセルを踏み込む。その間にレディットはモバイルからデータを収集。座標を確認。

「よし、止めろ」

 言われるままに、路上駐車する。二人とも、車から出る。

「いくぞ」

 レディットが僕の手を握った。そして、視界が飛び散る。座標の指定を変更された二つのイデアが、空間を飛び越えていく。

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