3 神

1

 視界が失われたのは、全てのものが運動をやめたからだ。イデアたちが時の経過を忘れ、自らを振り返っていた。

 世界に光が戻ると、二つの箱のガラスが割れ、砕け散った。その場に崩れ落ちるレディットとは対照的に、ωはしっかりと立ち、そして不適に笑っている。キーン、フェリト、クーカ、そして僕は、まったく動けずにいる。

「どうして……捕まえたはずが……」

 キーンの絞り出すような声。

「それは君の望みではなかったよ? 君は一度だって、そんな大それたことを願わなかったよ?」

 地面がめくれ上がり、動物の像が宙を待った。地下世界を照らしていたライトが壊れ、本来的な闇が訪れる。

「キーン様、惑わされてはいけません! 奴はずっとわれわれを見張り、惑わしてきたのです!」

 叫んだフェリトだったが、果たしてその言葉は届いたのか。どこかへ落ちていくような、しかし浮かんでいくような感覚に包まれていた。体どころか、心さえ自由にならず、なされるがまま。そう、あの時と同じように、なされるがまま。ω……ルイティーンは、またも僕に究極の屈辱を与えているのだ。



 暗い。辛い。

 どれほど戦ったか、わからなかった。あの時僕は、絶望だけで突き進んでいた。

 闘技場への突然の強制参加。共に歩んできた仲間との殺し合い。たった一人に与えられる、地上へと下される名誉への競争。

 わけのわからないまま、振り下ろし、突き刺し、殴り続けた。勝敗もわからないままひたすら殺し、気がつけば目の前にルイティーンがいた。

「君を殺すことは、望んでいないよ」

 いつもと変わらない、優しいが、見下した言葉だった。

「それは俺もだ。けれども、俺の一番の望みは、神の思いに応えることだ」

「せめて、その望みかなえてあげたいよ」

 首を振るしぐさが、僕の胸を締め付けた。かなわないことを感じたから。僕の力は、ルイティーンにはるかに及ばないことを、はっきりと自覚していた。僕はここで死ぬのだ、そう思った。

「望みは、自分で勝ち取る」

 力の限りに、がむしゃらに、闇雲に、やけくそに、どったんばったんと突っ込んでいった。ふわりふわり、くるりくるり、ひょうひょう、がたんごとんと簡単によけるルイティーン。決勝にふさわしくない、まったく波乱の期待できないマッチングが、どんどん明白になっていく。

「ジェッティーン、終わりにしよう」

 言いながら、ルイティーンはまったく攻撃してこなかった。終わりようがなかった。目頭が熱くなり、胸糞が悪くなった。

「お前の望みはなんなんだ!」

 思わず叫んだ次の瞬間、目の前からルイティーンが消えていた。そして、首筋に冷たい感触。

「僕の望みは、みんなの望みがかなうことだ」

 殺意のない刃だが、それ以上触れれば確実に首が切断されていただろう。しかしルイティーンは手を動かさなかった。

「みんな、本当にみんなが」

「そんなこと言っても、もうみんなここに来るまでに殺してしまっただろう」

「そうだね。でも彼らは、望むことさえしていなかった」

 ざわめきも風の音も、全てがどこかに吸い込まれていった。闘技場全体が、沈黙を求め、時の流れだけを感じようとしていた。ルイティーンは、場所全体をコントロールし始めていた。

「俺は違うというのか」

「そうだね。きっと君は、その望みをかなえられるよ。けれども僕らは二人とも、望みを持ってしまった時点で天使らしくはない」

 ルイティーンの両膝ががくりと折れた。僕らは折り重ねるようにしてその場に倒れていった。僕は何もしていなかったが、なんとなくその結果を予想はしていた。ルイティーンはあらゆるイデアに働きかけていた。

「僕のことは忘れるんだ。それが、僕のたった一つのわがままだよ」

 ルイティーンの右の頬が、僕の左の頬に触れた。そしてそれから、今の今まで彼のことを思い出すことはなかった。彼に関する記憶は全て消されていたのだ。



「説明を求めたいね」

 声が聴こえてくる。聞き覚えがあるが、すぐには誰かわからない。

「この状況……そして無傷の君」

 フィルヒ。そう、フィルヒだ。夢から目が覚めて、口うるさい政治家の声が最初に耳に入ってくるとはどういうことか。

「あの……」

 自分の声は正常だった。体は……感覚がない。目も開かない。

「世界が終るかと思ったが、そうでもないのかもしれない。君は守られているようだし、君を待っている人もいる」

 落ち着いた声の中に、少しだけ関心の感情が読み取れた。

「世界は終わりませんよ。

……神がいる限り」

「君が言うなら、そうなのかもしれない。

……今の発言は、私が認める」

 そう、他にも人がいるのだ。僕は見世物になっているのか。しかしなんでこんなところに現われてしまったのだろう……

「とにかく今は、君たちに期待するしかない。頼んだぞ」

 意識が再び遠のいていく。背中は痛くない。もう少し続くのだろうが、気分はそんなに悪くない。

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