6
「あまり圧勝すると、面白くないよ」
「面白くしたいなら、ブックでも用意しといてくれ」
丁寧に、刃先の血を拭き取った。命を助けてくれた武器には、敬意を示さなくてはならない。このような感情も、唯物論体制化では本来いけないことなのかもしれないが。
「君は姫様がいないと何も出来ないのかと思っていたよ」
「そんな人間はMCSRに入れないだろ」
緑の男は何も返さなかった。部屋の中が、ひたすら静かになった。誰も呼びかけてこない。何も発するものがない。過度に緊張した空間。
「……」
今までは、敵の姿が見えていた。敵の攻撃する感触が、事前に感じられた。だが、今度の敵は完全に自らを隠し切っている。わからないほど怖いことはない。恐怖は、どんな恐怖かが分かれば随分ましなのだ。
「そうか」
何もないこと、それもまた一つの在り方、強さなのだ。僕は、確信を持ってその武器を選んだ。
「殺してくる」
三度目の、そしておそらく最後の階段を下りた。
対峙したときに、確信した。これは、あの時と同じ感覚だ。
小柄で、緑のワンピースに身を包んだ人間。目深いフードを被っている。性別もわからない。
ふらふらと揺れている。両手には鍵爪が。
音も、香りもない。まるで、絵画のような存在。
吐息がかかりそうな距離まで近づいても、何も感じなかった。体の心から恐怖に染まっていく。二度とこんな思いはしたくなかったのに。こんなことにはなりたくなかったのに。あんな姿を……
耳の奥あたりから、熱が沸きあがってくる。背中の衝動が駆け巡っている。抑えきれるだろうか、抑えたいのだろうか。そう、この圧迫感に再び見えたことが、僕にとっては不幸だとは限らないのだ。
「もう、攻撃してもいいですか?」
初めての音。声。意思。意向。
そのときにはもう、世界が回っていた。地面に背中をぶつける。止められていたのは時間なのか、意識なのか、意図なのか。
気がつくと、胸元をざっくりと切られている。あまり痛みは感じない。熱さだ。熱を感じる。
そうだ。俺は死ぬわけには行かない。あの方は開放するなと言われたが、死んでしまっては元も子もない。何より、俺はこいつに勝ちたいのだ。
「次は俺の番だ、キーン」
背骨の裏から、息の漏れるような感覚。押さえつけられていたものが、徐々に溢れ出してくる。皮膚の色が濃くなり始め、筋肉が内側へと固まりだす。心の硬度も増していくのがわかる。久々の回帰。俺への回帰。
「待っていたよ、天使」
キーン――本来の容姿は不明だが、中身は確実に彼だ――は、物音を立てずに間合いを詰めてくる。しかし覚醒を始めた俺に対して能力を使うことはしなかった。様子を見ているのか、無駄だとわかっているのか。鍵爪は、虚空を裂くばかりだった。俺は強く、鎌の柄を握り締めた。あの時、天界でも味わった屈辱。本気にならざるを得ないとき、俺の顔は笑みに満ちるらしい。自分でも、顔が緩んでいるのはわかる。楽しいのだ。ぎりぎりの、殺し合いが。
「終わらせてもらう」
自分の血が、宙に乱舞している。思った以上の量だ。それでいい、弱い、人間の血は早く流し去ってしまえばいい。高貴な天使に戻るのだ。俺は、選ばれた存在であり、美しい存在であり、完成された存在なのだ。キーンがいかに力を持っていようとも、所詮人間には限界がある。俺を目覚めさせようとしたことが失敗だと、思い知らせてやる。さあ、殺してしまおう。
天界の闘技場でも、経験したことだ。闘っても闘っても終わらない。それでも俺は、笑い続けた。闘って闘って、殺して殺し続けるしかないのだ。それが、与えられた使命だと思った。生き残るのは俺だ。強いのは俺だ。愛されるのは俺だ。
思い切り鎌を振りぬく。周囲の空間が、共鳴して殺意をばら撒いていく。歯止めのなくなった俺の能力は、莫大な殺意をばら撒いている。背中から流れ出る、黒い気流。あまりにも純粋な黒であるため、光に照らされたそれを人は純白だと思ってしまう。それが、天使の翼。殺意の反射。
「そうでなくては」
フードの奥で、目が光ったように見えた。しかし、そんなことはどうでもいいのだ。今は、飲まれない、抗う、越える、打ち勝つことが重要なのだ。
自分の攻撃の軌道が、コマ送りのようにはっきりと見える。だが、キーンは微動だにしない。必要以上に、動かない。翼が、イデアの流出を察知した。目の前のそれは、すでに主を失った抜け殻だった。俺の意識に働きかけたのか、自らを高速化させたのか、とにかくキーンは時間感覚を操作して瞬時にこの場を去ってしまったのだ。
やり場を失った衝動が、全身を震わせた。だが、事態はすぐに動いた。なだれ込むようにして、幾人もの、緑色の戦士たちが入場してくる。手に手に武器を握り。俺だけを目標として。
頬の筋肉の緩む音が、耳のすぐそばで鳴り響いた。このような宴ならば、大歓迎だ。これから行われるであろう、一方的な殺戮の様子を想像するだけで、よだれを垂らしてしまいそうだった。
空間が爆発する。飛び散る者ども。跳び、飛び、斬り、切る。
体がとてつもなく軽い。心も宙に浮かんでいるかのようだ。
相手の強さなどよくわからない。ただ、俺は鎌を振り続けた。敵は倒れ続けた。血が飛び続けた。魂が砕け続けた。
天使に戻った俺は、人間のような無駄なことを考えはしなかった。迷いは無かった。そして何より、楽しかった。
目の前から敵がいなくなったときに初めて、自らの姿を意識した。背中から流れ出た殺意は、全身を覆ってしまっている。肌は深い黒で染められ、血管が浮き出ていた。息は荒く、歯を食いしばりすぎたせいか顎が痛む。
下界では、この姿を見て人がなんと言うかを俺は知っているし、だからこそひたすらに隠さなければならなかった。唯一の救いは、この場にいるのが全て敵であること、特にレディットがいないことだった。
もう終わりか、そう思ったときだった。大音量で、重奏のメロディーが響きだした。観客席の一角に、オーケストラが登場していた。緑の一団が、緑の楽器を抱えている。冷たく、緩やかな音楽。沸騰していた血が、急激に沈殿していくようだった。
そして、ガラガラと何かの崩れる音がした。向かい側の入場ゲートがはずれていた。次に、ぽっかりと開いた入口の奥から、ドタドタと何かが引きずられてくるような音が聞こえてきた。
やばめの何かを予感する。今まで感じたことの無い、固くて荒々しいイデアだ。最初、それは戦車なのかと思った。だが、その姿を現すにつれ、そんなありきたりなものでないことがわかった。高さは3メートルほどか、車輪の付いた台座は二つに分かれており、足のように見えなくも無い。胴体部分と呼べる部位にはわけのわからない穴がいくつも開いており、左右には腕のような砲台が取り付けられている。そして何より異様なのは、最も上にある頭部だった。八方に顔が刻まれており、それぞれがまったく異なる宗教の神の顔を模して作られていた。まるで宗教のサミットだ。滑稽なことに、そのどれもが本物とは似ても似つかない。
それをもっとも的確な言葉で表現するならば、「偶像」だろう。どんな動きを見せるのかはわからないが、なんにしろ実戦的には無駄が多すぎる。
音楽の質ががらっと変わった。全ての宗教に配慮するつもりだろうか。三拍子のリズムでは進みにくかろうが、「大偶像」はテンポよくこちらに向かってくる。不意に首が少し回転し、異なる表情が正面になった。どうしても平等を体現したいと見える。
操縦席があると思ったのだが、どこにも人間のイデアが感じられない。遠隔操作されているのか、それとも自律式なのだろうか。ロボットだとしたら、あんな馬鹿でかい、得体の知れないものを良くぞ作ったものだと思うが。戦争ならばあっという間に狙い撃ちされてしまうだろう。
距離にして約20メートル。得体の知れない巨大なものと俺は、無言で向かい合っていた。顔はあるが、読み取るべき表情は無い。筋肉の躍動も、心の揺れも無い。どこまでが見た目どおりで、どこまでがはったりなのかもわからない。
睨み合っていても手ごたえがない。こんなものは、打って出るに限る。
原子運動のイデアに働きかけて、局地的に熱放出を巻き起こす。無論、敵から遠い場所で発生させる。そしてそのまま熱の塊を大偶像に叩きつけた。
まったく避けようとしなかったし、防御盾を出すわけでもなかった。まともにあれだけの熱を食らったら、普通の機械ならば破損したり機能停止したりするだろう。だが、目の前の大偶像は顔色一つ……肌色一つ……表面の色一つ変えていない。これで確信した。確かに装甲が厚く、耐熱性もあるのだろうが、基本的にこいつは鈍感なのだ。
突然、胸の辺りの穴からノズルのようなものが飛び出てくる。本体はとにかく、そこに装てんされている中身からは十分に悪意を感じる。道理に従わない、ひねくれた殺意だ。だが、イデアの概要さえつかんでしまえば何も恐れることはない。物体自身はただ法則に従って移動するに過ぎない。だから、殺意の向きは簡単に変えられる。
だが、思いの他動力の根源は強いイデアだった。機械的なものとは明らかに違う。この馬鹿でかい物体は、どこかに人間的な仕掛けがある。イデア自体ではなく、その動きが操られている。
「そうか、そうなのか」
納得のいかなかった事柄が、わかり始めた。キーンという、得体の知れない教祖。そしてその下に作られた地下の社会。段霊剤、次々と現れる使い捨ての戦士、そしてこのばかげた兵器。これらをつなげる最も都合のよい要素は、あれに違いないのだ。
問題は、それがどこにいるのか、だ。翼はしきりにその存在を探っているが、体は目の前の敵に注意せざるを得ない。ノズルからは、抑制し切れなかったものが発射されてくる。色も形も定かではない、得体の知れないもの……
それは、魂の流出だった。翼が大きく開き、同胞の悲しみを受け止めようとしている。同胞の嘆き、悲しみ、怒りが殺意を暴走させようと促す。
そして、俺の怒りにも着火する。
これほどまでに愚かしいことを人間がしていようとは、あの方はご存知なのだろうか。それともあのお方にとって俺たちの魂の在り方など、どうでもいいことなのだろうか。感情が渦巻いて、制御が利かない。このままでは、敵の思う壺だ……
かつては天使であった者、今ではこの地下帝国の動力源と成ってしまった物の叫びが、俺の心の芯を捕まえにくる。理性と誇りだけで、俺はこちら側にとどまろうとする。もはや同情はない。
貴様は負けたのだ。だからそんな惨めなのだ。
貴様はもう戻れない。神に愛されることはない。
俺にはまだ使命がある。まだ監視の途中なのだ。
だから、この手を離すのだ!
使用されたのは、彼のほんの一部の残像殺意に過ぎない。天使の力は、それでも脅威なのだ。俺の目前でせめぎ合う殺意と説得。まるで部外者のようにそれを眺めている。どうなるのか、予想は付かない。けれども、どこかで信じていた。勝つのは俺だ。
生きている、俺の方だ。
翼が闘技場いっぱいにまで広がっている。体の意味が薄れていく。そして、ぼんやりと見えてくる、彼ら。俺と同じように監視者として派遣されながら、逆に人間に利用されてしまっている同胞たち。長い歴史の中で、我らがこんな侮辱的な扱いを受けたことはなかっただろう。我らはこの世界の安定のために遣わされているのだ。それなのにこんなことが……
全ての物体が、視界から消えた。音も匂いも、五感の全てが溶け込んでしまった。思いだけが、交差する。どいてくれ。頼むから、どいてくれ。
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