第一章・その3
九月二日。集合の場所、桜町駅のロータリーに着くと既にそこには安江さんがいた。思わず左手につけた時計を確認する。八時十五分。
「遅刻じゃないよ、わたしも今来たとこ」
「じゃあ、そのコーヒーはなんだ」
俺は安江さんの手元にあるスチール缶を指差した。プルタブは開けられており、飲んだような形跡もある。
「あ、バレた?」
そう言いつつも、微笑みながら缶を差し出してきた。
「要る?」
「え? ……へ!?」
飲みかけのコーヒーを差し出してくる、それってつまり、か──
「冗談冗談、中身は空よ。ほんと、からかいやすいね。つでに捨ててきて」
からかわれた上にパシリかよ。そう思いつつ、駅前のコンビニに向かう。店の前のゴミ箱に缶を捨て戻ってくると、安江さんは独り、立っていた。少し悲しそうな顔で、髪を風に舞わせながら。見とれること数秒、
「あ、帰ってきた。さあ、行こ?」
向こうが気付いた。顔は一瞬で明るくなっていて、今さっきの表情が嘘のよう。
「さあ、行こ」
そう安江さんは言って、走り出した。今度は元気の象徴として、髪を舞わせながら。俺も少し遅れて追いかける。
桜町駅は立体的な駅である。橋上駅というらしい。階段を上がるとホームや線路の真上に当たる位置に券売機や改札があり、改札を通るとまた階段を下ってホームにたどり着くという、ある意味無駄に体力を使う構造。ホームは二面・線路は三線あって、内側では西の方向に折り返す電車が停車する。
俺達は北側のホーム、すなわち東へ向かう電車に乗るつもりだ。七分くらい待っていると、
『間もなく、一番線に
係員用のマイクを通じたらしい、音質の悪い男の声が響く。警笛を鳴らして入ってきた電車を見るなり、
「あ、懐かしい」
安江さんは言った。懐かしい?
「何か思い出でもあるのか?」
「わたしの故郷、八白市を走る路線なんだけど、小さい頃こんな、赤い電車に乗ったなって。今はもう、ステンレスの車両に置き変わっちゃったけどね」
確かに、今来た電車は真っ赤な塗装を施されている。その電車に乗っても、安江さんの話は続く。
「この街ってやっぱり、わたしの故郷と似てる。ただ電車が赤いとか、そういうことじゃない。空気が、そう、雰囲気が似ているの」
* * *
何度か乗り換えをしてJR横浜駅に着いた。着くなり安江さんが一直線に向かった(ついでに俺の袖も引っ張った)のは──北口のタクシー乗り場。
「安江さん、タクシー乗るのか?」
「ううん」
そうか、タクシー乗り場の先にはバス乗り場もある。
「じゃあバス?」
「違うわ」
そう答えつつ安江さんは大量のタクシーの中から、行灯の付いていないシルバーのセダンを見つけて乗り込む。
「さ、乗って」
俺の腕も引っ張り込んできた。やっぱり、乗せられるのか。
車が発進してしばらくは無言が続く。運転手が行き先を聞いてこない辺りから確実に言えること。これはタクシーではない。
「で安江さん、どこに行くんだ?」
流れていく外の景色を眺めていた彼女はこちらを振り返り、
「機密事項よ」
と明らかな回答拒絶。誘われた時にも聞けなかったから当然か。
「あと、わたしのことはカナって呼んで。その方が自然に話せるから」
突然の意思表示。
「カナ、か?」
「うん、下の名前の方がいい」
本人が望むのなら、それでいいか。警察少女や安江さんより呼びやすいし。
程なくして、車は停まる。
「ありがとうございました」
運転手にお礼を言い、安江さん──カナがドアを開ける。彼女に続いて外へ出るとそこは、
雪国、ではなく神奈川県警察本部前だった。川端康成の小説ではないので当たり前だが、それでも、驚きである。
「警察!?」
「そうよ」
カナはきっぱりと肯定した。それはもう、爽快なくらい。
「わたしの今日の目的は、此処に来ること。そして──」
次にカナが放った台詞は、俺は凍り付かせた。あの、初めて会った日のように。
「──あなたを、CPに任命すること」
衝撃で、返す言葉がしばらく出なかった。数分経ってやっと、声が出る。
「CPって、つまり……」
「うん、わたしと同じ子ども警察官になって欲しいの」
きっぱりと言い切られた。
「そんな唐突に言われても……」
「どうしても、なって欲しかったから」
突如出現した「少女らしい雰囲気」に、反抗する気力が消えてしまう。何というか、ずるい。
「ううん、何でもない。とりあえず──」
もちろん、こう言い出す。
「中に入るわよ」
予想通りの言葉、予想通りの行動。腕を引っ張られつつ玄関まで歩いていくと案の定
「えっと、君達は何の用だ?」
立ち番の警察官に止められた。
「もう、面倒くさいな……。これでいいですよね?」
カナは持っていたカバンから、焦げ茶色で三つ折りの「警察手帳」を取り出し、開いて見せる。
「地域部子ども課準備室の安江香奈です。事情があって私服ですけど」
「はあ……お疲れ様です!」
警察官は右手を額に当て、背筋を伸ばして敬礼をしてくる。カナも右手を軽く額に当て、敬礼を返した。
「さあ、行こ」
今日何度目になるかは判らないが、腕を引っ張られた。
連れて行かれるままにエレベータに乗り、連れて行かれるままに廊下を歩き、ある部屋の前に到着する。廊下に張り出した札には「子ども課準備室」の文字。先ほどカナが名乗った部署名だ。
カナは一枚のカードを取り出し、入り口らしき自動ドアの左横に取り付けられた機械にかざした。ピッ、っと音がすると同時にドアが開く。
「この中で待ってて。地域部長を呼んでくるから」
そのままカナは走っていった。まったく、自分勝手に動く女の子だ。
部屋の中は、小さなオフィスのような感じである。四つ事務机があって四角く中央に並べられ、壁沿いには戸棚が並ぶ。利便性を考えてなのか、無機質な電話が各机に設置されている。
下はカーペット敷き。全て新品同様だった。きっとカナが来るまでは使われていなかった、そんな部屋なのだろう。
「おまたせー」
カナが、一人の男性を連れて戻ってきた。中年と言うには年を取りすぎており、髪にも白髪が目立つ。
「君が、今回安江子ども警官に推薦された鈴木浩和くんだね。私は地域部長兼此処の室長である、
「はい、よろしくお願いします……」
そう返すほかない。地域部長と言ったらその上は、副本部長クラスである。
「あ! そういえば許可取らなきゃ!」
突然カナが、思い出したように言う。
「何の?」
「あなたの親に」
正確には答えになっていないが、何となく判る。子ども警察官に任命する許可だろう。でも、気になる点が一つ。
「断られたらどうするんだ?」
「意地でも通す」
拒否権なしかよ。というか、俺の意志にも触れていない。まあ、やれと言うならやってやるが。
「あなたのママ、今日出勤した?」
「ああ」
「じゃあ警察署の方か。えっと、そのまま取ればいいんですっけ?」
事務机の上の、電話機につながっている受話器を取ろうとして、カナは聞いた。
「そうだ」
短いフレーズで、地域部長が肯定する。カナは受話器を取った。
「
「何処かの受話器を取れ。やり取りを聞いておきたいだろう?」
地域部長は俺に言う。指示通り近くにあった別の受話器を取ると、彼はダイヤルボタンの上の、とあるボタンを押した。すると「プルルル……」という呼び出し音が聞こえてくる。
『はいこちら浜浦警察署通信室です』
女性の声。もちろん、母さんの声ではない。
「地域部子ども課準備室の安江と申します。刑事課の
『はい、お待ち下さいませ』
保留音が流れる。バッハ作曲、G線上のアリア。それより、母さんの所属が刑事課!?
『はい、鈴木ですが』
間違いない、母さんの声だ。
「地域部子ども課準備室の、安江 香奈と申します。あの──」
『どうせ私の息子を「子ども警官」に採用したいとか言うんでしょ?』
大正解。いつも母さんは言おうとしていることを先読みしてくる。
「何故、それを」
『私、刑事なんだからそれくらい予想つくわよ。聞いたわ、山下公園での事も』
記憶力も抜群らしい。俺がそれとなく話したことを覚えている。
「はい、その通りです。それで返事の方は──」
『全然構いません。ビシバシ鍛えてあげてちょうだい。じゃあ私は捜査があるので』
電話が切れた。
「母さん、刑事だったんだ……」
警察官だってことは知っていたが、まさか刑事だったとは予想も付かなかった。
「あれ、知らなかったの?」
「何でカナは知っているんだ?」
家族は知らなくて、赤の他人が知っている。何かがおかしくないか?
「データベースを見たもの」
「データベース?」
「人事記録のね。本来は身元調査も慎重に行わなければいけなかったけど、その手間がなくなって助かったわ」
そんなこと教えられたって、よく解らない。
「さて、研修を始めるとするかな」
話題を切り替えるように地域部長が言って、俺のCPとしての人生は幕を開けた。
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