第一章・出逢い
第一章・その1
本日、七月十九日。海の日のルールが変わったのでややこしくなったが、神奈川県東部・
この市唯一の鉄道「武蔵野鉄道蛯尾浜線」の線路北側に位置するこの学校は、特に変わった特徴はない。敷地の北寄りに三階建ての校舎が二棟並び、その東側に老朽化が隠せない体育館。全校生徒七百二十八人(欠席者があるのでこれより少ないはず)がひしめくこの体育館内で俺、
それが終わると次は校歌の斉唱。三番まである歌詞の、一番だけ流して終了。しかもほとんどの生徒の口は動いていない。もう丸々カットしても生徒から文句は出ないだろう。
そんな形式だけの式典は校長の話以外早々と終了し、生徒達は教室へ戻ることとなる。この後は大掃除、のはずだったがクラス担任が「文化祭のクラス発表を決める」という難題を解決するため潰してしまった。焦っているのは担任と実行委員だけで、後の生徒は何の興味もなし。かと言って実行委員の女子生徒が「タンスの発展についての展示」などと真面目な案を出すと却下するわで、結局成果はなし。何故「タンス」なのかはともかく。
休み時間を挟んでLT。中学校最初の通知表を開けると──四が多い。あ、英語が三だ。英語はクラス担任だし、何か気に入らないことでもあったのかと疑いたくなる。
受領証と称した細長い紙切れに保護者のサインと印鑑を押してもらうよう指示を受け、それで解散になるかと思ったらまだ伝えることがあるという。一つは「皆の通知表を見た感想」という無駄話。「夏休みの生活について」はまあ小学校の時にも聞いたような話で、終業式のお約束だろう。そして最後の一つが、次の話だった。
「えーと、新学期からこのクラスに仲間が増えることになりました。えーと、名古屋より転校してくる、女の子だそうです」
これで教室内は盛り上がる。名古屋、ねぇ……。そうだ、万博が開かれた所だ。いや、あれは大阪か? あとは、トヨタがある所だっけ。家の車もそういえばトヨタだったな。
「えーと、話は以上。えーと、室長、挨拶」
ここの担任は本当、「えーと」が多いな。ただ小学校の時の音楽教師は「うん」と言わなきゃ話し出せなかったから、その応用系とも言える。まあそんなことを考えながら立ち上がった。軽く頭を下げるだけの「礼」をしたらすぐ解散となり、俺は荷物をまとめる。と言っても大物は既に持ち帰り済みなので五秒で完了。速やかに教室から脱出して廊下を早歩きで進み、昇降口で靴へ履き替える。そのまままっすぐ家に帰った。その途中で特に変わったようなこともない。
そんな感じで俺の「中学一年・一学期編」はあっさりと終了。親友である天木が貸してくれた小説のような、非日常が突然やってくるという展開などある訳がなかった。それでもまあ、別に変えてしまおうとは思わない、平凡で普通な日常。
* * *
夏休みは川の流れのように、ゆっくりと、しかし後戻りすることもなく過ぎていく。そして長いようで短かった休みの終盤、八月二十七日。俺は横浜の山下公園にいた。ただこれは妹が「横浜で買い物がしたい」と言い出したのに対し兄である俺が同伴することで許可が出たから。休日出勤だったので両親は付いていけないというのもある。だから、別にデートするようなカノジョなんていなかった。友達はと言えば、みんな宿題を片付けるのに大忙しらしい。天木なんか「三十一日まで残しておくのが醍醐味だろ!」とか言っていて論外。俺はというと、序盤できっちりやり切っていた。その分暇を持て余していたので、妹の頼みを断る理由はなかったのだ。
午前中は中華街などを歩き回っていたので、その休憩がてら山下公園に立ち寄った。全国的にも有名らしいこの公園には長い歴史があるらしいが、それについてはあまり知らないのでそれまで。
噴水がある池の周囲に造られたレンガ組みの部分に俺が腰掛けていると、妹は途端にどこかへ行ってしまっていた。まあ携帯電話があるし大丈夫だろう。その時はそう思っていた。
確か正午を回った頃のこと。それは前触れもなくやってきた。市街地の方から、誰かが入ってくる。通行人はみなそれを逃げるように避けていく。大分近付いてきた時、その理由が判る。男の左手に、黒光りする何かが握られている。その形は、拳銃にしか見えなかった。迷うとしたらモデルガンか本物か。でも重量感がかなりあった。男はゆっくりと近付いてきて、ふと立ち止まり、そして左手を天へと近付け、撃った。
日曜日だからか家族連れが多く、賑やかだった話し声はピタリと止む。代わりに聞こえ始めたのは子供の泣き声だけ。凍り付いた場から誰かが解放された時、それは一気に連鎖した。パニックに近い状態で人々は一目散に逃げ始める。俺は立ち上がることは出来たものの、男と目が合ってしまいそれ以上動けなくなってしまった。立ち止まっては辺りを見つつ、一歩一歩こちらへ。
対決──無理だ。拳銃を持った相手に素手で戦う立ち回りなど、訓練を重ねなければ出来るはずがない。逃げる──足が動かない。絶体絶命の状況と言っても過言ではなかった。
「お兄ちゃん!?」
どこかから声がする。そちらを振り向くと、妹が今にも走って来ようとして、周りの大人に止められていた。そのまま押さえてくれれば良かったものの、不運なことに振り切ってしまう。妹はこちらに駆け寄ってきて、そのすぐ後ろを何かが駆け抜けた。
何かが爆発するような音。男の手の中の拳銃からは白い煙。妹に向けてこの男は撃ってきたのだ。妹は俺にしがみついてくる。仕方がない、妹を守るように俺は拳銃男の方に体を向けた。
しかし天が味方してくれたのか、パトカーが五台ほど、赤色灯とサイレンを付け公園へ入ってきた。白と黒のカラーリングが施された「これぞパトカー」といったものや、屋根に小さな回転灯を付けた覆面パトカーなどの顔ぶれ。一番こちら寄りに止まった覆面パトカーの、その助手席側ドアを開け出てきたのは──
セーラー服を着た少女。
「警察です。拳銃をその場に置いて投降しなさい!」
大声で、しかしあくまでも冷静さを保ちつつ。女子生徒が警察官として男に投降を促す不可思議な光景に、再び公園の空気が固まる。「敵」の拳銃男も呆けた様子になってしまい、死角をつくようにゆっくりと近づいてきた刑事らしき男性にあっさり武器を取り上げられ、そのまま手錠をかけられ連行されていった。まあ、こんな空気になるのも当然である。どう高めに見積もっても高校生にしか見えない少女が警察官、しかも刑事の真似事を本職の前でやっているのだから。
さらに注意深く見ていると、彼女は背後に陣取っていた本職の刑事達に注意されている、どころか優しく声をかけられ苦笑いしている。じゃあ本当に警察官なのか? 刑事が変装している可能性──なくはないが、この格好で来る必要はない。それにやはり、幼すぎるのが気になる。自分の幼なじみである橋野さんとそう変わらないようにも見えるくらいだ。
着ているセーラー服も少し変わっていて、まず襟が白い。そしてその襟は胸元まで覆うほど大きいのだ。今まで見たことのない制服。どこかの私立の制服なのか?
「そこのあなた、さっきからわたしのことをずっと、不思議そうな目で見ていらっしゃいますけど……何かわたしに変な所でもありますか?」
その少女が俺に近づいてきて、声をかけてきた。腰までかかりそうな長髪を風に舞わせながら、先ほどの大声とは異なる柔らかな声色で、彼女は話す。いや、自分のやっていることの違和感に自覚はないのか? そう尋ねたかったが、近くで見ても同学年しか思えなくて、緊張したのか言葉が出なかった。
「どうして中学生が警察官をやっているのか、不思議なんだろ?」
先ほど拳銃男を捕らえた刑事がいつの間にか横にいて、俺の気持ちを代弁してくれる。即座に頷くが、頷いてから気づいた。え、中学生!?
「ほら、此処は愛知県じゃないからさ」
刑事は少女に、軽い口調で言う。だが
「愛知県じゃないからって……。子ども警察の存在と活躍は全国ネットでテレビ放送されたはずなんだけど」
少女の方は怒っているような雰囲気。と言われても「ああ、そういえば」とはならない。世間に浸透しているのなら公園にいた人々が奇妙な目で見ていた理由がないし、正直言って今回のようにあっさり逮捕できたのかも微妙だ。
「たまたま観てなかったとか、さ……」
遠慮気味に刑事がフォローすると少女は一度目を閉じ、少しの間考えるような様子を見せると再び目を開け
「まあ、そういうこともあるか」
と、独り納得したようだ。一度俺の方に目を合わせ、しがみついたままだった妹の方を見ると、微笑みを浮かべ話し始める。
「わたしは、CPよ。あ、子ども警察官のこと。えっと……『警察署における中学生の職場体験実習事業』っていう、何か長ったらしい名前なんだけど、それに参加してるの。昨日まで
長ったらしくて意味はほとんど解らなかったが、とりあえず
「つまりちゃんとした警察官だってことだよな?」
あと、「ヤシロ」という所から来て、話の流れからするとそれは愛知県のどこかにあるということ。理解したのはそれくらい。
「ええ、そうよ」
彼女は大きく頷きながら答えた。
「安江さん、そろそろ……」
遠慮がちに、例の刑事が声をかける。刑事というのは、やっぱり忙しいらしい。
「じゃあ、職務中なので失礼します。あ、名刺、古いのだけどあげるね」
少女は制服の胸ポケットから焦げ茶色で二つ折りの「何か」を取り出し、それのどこからかか一枚、小さな紙切れを引っ張りだした。それを俺に、ほら、と言って押し付ける。しょうがない、もらっておくか。
「因みに、あなたの名前は?」
「鈴木、浩和だけど……」
何か資料を作るのに必要なのだろうか。少女は続けて聞いてくる。
「学校は? あと学年も」
「蛯尾浜中部中の、中学一年」
「え……!? そっか、ならまた逢えるかもね。じゃあ失礼します」
何故驚いたのだろう。色々と聞いてきたのもそうだが、理由は判らなかった。尋ねる前に彼女は走り去ってしまったから。長い髪を風になびかせ、そして舞わせながら。
「……すごい人だったね、お兄ちゃん」
「ああ、そうだね」
「お兄ちゃんよりかっこ良かったかも」
「かなわないよ、あれには」
中学生なのに警察官になれる。そんな制度があるとは。とりあえず警察官である母さんにもこのことを話し、真偽を確認してみたい。そう思わずにはいられなかった。
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