断章・b

 ある夜。名古屋市中区三の丸、愛知県警察本部内の一室。「子ども課準備室」と名付けられたその部屋は、県内の子ども警察官を支援する以外に「伝説の子ども警察官レジェンドCP」の所属先という役割を担っている。その部屋の入り口から窓の方へ、四つの机が二×二で並ぶうちの、窓側に近い机に向かい合って座る二人がいた。二人の机にはそれぞれノートパソコンや書類棚が置かれいかにも仕事場という雰囲気だが、二人は気力が抜けた様子で頬杖をついている。

「……いくら私達だからって、公安が『公安です』って雰囲気を隠さずに尾行したら取り逃すに決まってるわ! しかもそれから三日経っても手がかりなしってどういうこと!? 『伝説』の名が廃るじゃない」

 入り口から見て右側、白襟のセーラー服を着た少女が向かい側の少年に対して呟く。右手に持っているプラスチック製のシャープペンシルは先端が高速で往復運動を繰り返していることからも、少女の怒りの度合いが判る。

「今判ってるのは、買った地図が神奈川県の道路地図ってことだけか……」

 向かいの少年も呟き返す。この少年も学生服を着ている。それもそのはず、二人は警察組織内に名を轟かす「伝説の子ども警察官レジェンドCP」で、この部署の唯一の在籍者でもある。二人にとって捜査の行き詰まりは滅多にないことだった。

 少年──藤枝 勝は席を立ち、左側にある大机に広げられた地図を見る。名古屋市の栄地区を中心とした最新版の都市計画基本図には一本の赤いラインが引いてあった。栄公園(オアシス21)のちょうど西側の久弥大通公園から北へ延びていく実線はほぼ直進して、しかしテレビ塔の直下を過ぎた辺りで唐突に姿を消す。つまりこれは尾行した経路を示しているのだが、その距離は明らかに短かった。

「この感じだと、被疑者はもう神奈川に逃げたってクチかな? となると香奈ちゃんとその相棒と会って確認した方がいいわね。文化祭が終わったらすぐ向かうってプランでどう?」

 少女──森岡 翔子も席を立ち地図を眺め、藤枝に向かって提案する。

「うん、いいと思うよ。あーあ、今日も泊まりか……」

 藤枝は頷きながらも、愚痴を呟く。二人はここ三日間、八白市内の自宅には帰らずここで寝泊まりして高校へ行っているのだ。それも二人の名声を考えると、異常なこと。

「しょうがないって。ていうか私達が半分好きでやってることだしね。設備は整ってるからあまり苦痛でもないし」

 森岡が呟きに応えて言う。事実シャワーは本部内に設けられているし、制服はこの部屋に県内の小中高全学校のパターンが備品として数着づつ用意されている。

「でも、森岡さんの両親もよく許してくれるね。普通だったら止めそうだけど」

「一応警察の中だし、やましいことはしないと思ってるんじゃない? もしかしたら私達のことを両方の面で、本気で応援してくれてるかも」

 森岡は藤枝の方へと近づき、背中から被さるようにして抱きつく。

「あと、もうそろそろ私のこと下の名前で呼んでよ」

「……翔子さんで、いいかな?」

 藤枝が少し顔を赤らませながら言う。森岡も少し赤くなりながら「うん」と頷いてそれに応えた。そして森岡は抱きついたまま藤枝の正面にまわる。藤枝もそれに応え森岡の肩に手をかけた。机に力をかけていた手がなくなり、藤枝が森岡を押し倒したような格好になる。

「藤枝くん、いや、勝くん。一年くらい前、同じように捜査が行き詰まっていた時も私が抱き付いたんだよね。あの時は私を守ってくれたことや、意識を回復したことの嬉しさからつい、しちゃったんだよな〜」

「あの時拳銃で撃たれてなかったら、多分こんなに翔子さんのことを意識してなかったと思う。本当に二人きりって状況もあの時が初めてだったしね。翔子さんが夜ベッドに潜り込んできたのも、今となってはいい思い出かな」

 森岡は途端に真っ赤になり顔を背ける。しばらく経ってゆっくりと戻し、

「ねぇ、キスしよ?」

 そう言って目を瞑った。藤枝は優しく微笑み、ゆっくりと唇を重ね合わせる。

 数十秒間にもわたる口づけの後、二人は再び抱きしめ合った。

「今度神奈川に行く時、この先も、ね」

 藤枝の耳元で森岡がささやく。藤枝は「了解」と小声で言い、手を森岡の肩からどける。森岡も藤枝に回していた手を離し、二人は向かい合った。

「じゃあ私、シャワー浴びてくるね」

 森岡はそう言って藤枝の許を離れ、タオルと下着の替えが入った袋、IDパスなどを持って部屋を出ていく。藤枝は森岡を追いかけたりはせず。広げてあった地図を丸めて戸棚にしまい、その下に敷いてあったもう一枚の地図を眺めた。それは神奈川県全域を一枚にまとめた道路地図。

「被疑者が好みそうな所は……海が近くて市内に警察署がないという逃げやすい所で、それでいてある程度注目はされる場所か……」

 横浜、箱根、鎌倉、横須賀、厚木、相模原。藤枝はじっくりと神奈川県を眺めて、気付く。

「蛯尾浜もその条件に当てはまるんだよな……」

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