第29話 12月27日 警察病院・神谷高司
神谷高司が目覚めたのは、病院のベットの上だった。尾崎玲華の姿は見えない。
「自分の作ったシステムに殺されそうになるのはどんな気分ですか」
椎名りさが見下ろしている。警察手帳を見せた。まったく違う名前が書かれている。やはりMRとして病院を訪れていたのは仮の姿だったようだ。
「可愛がっていた猛獣に殺されそうになった飼育員の気分です……とでも言えば喜んでもらえるんでしょうか」
体を動かそうとしても何の反応もない。首すら動かない。怪我をしているはずの手足の痛みも感じないということは、脊髄でも損傷したのだろうか。
「軽口を叩く余裕があるようでよかったです。残念ながら尾崎さんは目的を達成されてしまいましたが、あなたにはまだ死なれるといろいろと困りますので。宇月拓也の殺人教唆、黒風のこと、お聞きしたいことはたくさんあります」
椎名は微笑んだ。神谷はゆっくりと瞬きをしてみる。顔の神経は無事なようだ。
「僕を尋問したところで無意味ですよ。組織の人間はいろんなところに入り込んでいるようですから。別の誰かがシステムを受け継ぐだけです」
「そんなことは言われなくてもわかっています。この国に巣食っているがん細胞は一つずつ潰していくしかないですから。宿主が死んでしまう前にね。不破先輩も必ず追い詰めますよ」
どうやら不破剛の後輩だったようだ。神谷は苦笑した。
「不破さんは、とんだ後輩を育ててしまったようですね」
紙をめくっている音がする。書類を確認しているのだろうか。見ようとしても首を動かせない。眼球で椎名の動きを追うが手元は見えなかった。神谷は気になっていたことを質問する。
「彼女の所持品にICレコーダーはありましたか」
「いいえ」
顔をあげた椎名が神谷の目を見た。
「やっぱり大事なのは、自分のことだけなんですね」
椎名は軽蔑めいた表情をしている。
「尾崎さんと一夜を過ごされたようですが、コンドームは使われましたか?」
「なんでそんなことを君に教えないといけないんでしょうかね」
「一応報告義務があるかと思いまして」
椎名は診断書を見せた。後天性免疫不全ウイルス(HIV)という文字が見える。CD4陽性Tリンパ球が500/μLより多い。すでに抗HIV薬による治療を行っていたということだろう。尾崎が生ものを食べないようにしていたのは、そのせいだったのかもしれない。職場に隠していたのなら保険を使うこともできない。尾崎が薬の管理をし始めてから誤発注が増えたのは、薬の横領をするためだったのだろうか。
「もしコンドームを使っていても、彼女が穴を開けた可能性もありますから、検査だけはしておいたほうがいいと思います」
「たいした嫌味ですね」
神谷は苦笑する。こんな体になってまで検査をする必要がどこにあるのか。誰かを感染させる危険性はゼロに等しい。
「半年前からあなたと関係を持たなくなったのも、それが原因みたいですよ。組織の関係者に強引にキャリアにされたようです。外堀から埋めていくというやつです。いつもの彼らのやり口です」
椎名が窓際へ歩いていく。窓の外を見下ろしているようだ。
「あなたのためを思って別れたのに、無下にされて辛かったでしょうね。結局手に入らないなら壊してしまおう。彼女なりの愛情表現だったんじゃないでしょうか」
神谷は顔をしかめた。
「そんなのは愛情とはいいません。ただの執着ですよ」
「執着だって立派な感情です。命への執着があったおかげで、あなたは自分だけシートベルトをして助かったんですから」
椎名は振り向いて、ベッドのそばに戻ってきた。じっと神谷を見下ろしている。蔑むような目線にぞくりとした。
「結局、続きはしてくれませんでしたね」
椎名が顔を近づけてくる。唇が触れそうになった瞬間、スマートフォンの着信バイブが鳴った。電話に出た椎名は目を見開いて、何度か肯定の返事をした後、電話を切った。
「また来ます。おとなしく待っててくださいよ」
椎名は部屋を出て行った。
動けもしない相手にどんなジョークだろうか。神谷は苦笑しながら、静かに目を閉じた。
椎名が出て行ってからしばらくの間は静寂が訪れた。だがそれも長くは続かなかった。
人の争う声が遠くで聞こえる。
誰かが扉にぶつかる音がした。投げ飛ばされたのだろうか。
足音が近づいてくる。覆面をした男がベッドに駆け寄ってきた。
神谷の体を乱暴に持ち上げ、ストレッチャーに移動させる。
薬でも打たれたのか瞼が重くなってきた。意識があったのは車に乗せられるところまでだった。
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