第6話 12月22日 桜木南マンション・夏目波流
台所を見た森野こころは途方に暮れたような表情をしていた。
「本当に自炊してないんだね」
森野の言うように夏目波流は自炊をしていない。ほとんどがコンビニやスーパー、ファストフード系で食事を済ませてしまうことが多いからだ。
ろくな調理器具も食器もなかった。狭い台所には備え付けの電気コンロが一つだけ。他にあるのはラーメン用の小さな鍋とフライパン。菜箸とおたまぐらいだ。
「もしかして炊飯器ってなかったりする?」
「あるよ。一度も使ったことないけど」
梱包されたままの炊飯器を棚から出していたら、森野が祈るような仕草をしながら言った。
「ある意味、このラインナップで炊飯器があったのは奇跡だね」
「貰ったけど、ただ捨てるのが面倒だっただけというか」
「自炊をしない人の台所を侮っていたかもしれない」
夏目が炊飯器の梱包を開けて説明書を読んでいると、森野が隣で頭を抱えていた。
「当たり前すぎて確認するのを忘れてたけど、その……まな板と包丁は」
すがるような目で森野が見ている。夏目はかすかな記憶を辿った。
「あるよ。あったはず」
「はず、では作れません」
「あります。絶対。ちょっと待って」
夏目は押入れに入れっぱなしにしていた段ボール箱を開ける。確か大学進学のときに義母が持たせてくれたまな板と包丁がどこかにあったはず。そう思いながら順番に探していく。三つ目の箱でようやく見つけた。
「あった」
包丁とまな板を受け取った森野は、ほっとしたように笑った。
「まさかこんなに包丁とまな板を恋しいと思う日がくるとは思わなかったよ」
「ごめん。なんかかえって面倒な感じになっちゃって」
夏目は頭をかきながら苦笑する。森野は首を振った。
「大丈夫。前途多難だったけど、むしろ燃えてきたよ。遠足のお弁当じゃないけど、苦労した後のご飯って普通に食べるご飯より美味しいから。きっと底上げ効果があるはず。だといいな」
そう言って笑う森野は、とても素敵だった。思わず抱きしめたいという衝動に駆られた夏目は、その気持ちを隠すように目を逸らしながら返事をする。
「森野が作ってくれるなら、何でも美味しいよ、きっと」
声が上ずったのがばれていないだろうか。そんなことを思いながらチラリと森野を見たら目があった。森野が苦笑する。
「作る前にハードルを上げる発言は反則だなぁ。でもなるべくご期待に添えるように頑張りますよ。だからこっちは任せて。片付けはまかせた」
「わかった」
夏目は部屋に戻って、段ボール箱の中身を片付けることにした。
森野が材料を刻んでいる包丁の音が響く。なんだか不思議な感じだ。新婚家庭で奥さんの料理を待つ旦那さんはこんな気持ちなんだろうか。
邪なことを考えながら片付けていると、最初はきちんとおさまっていたはずの中身がどうしても入りきらなくなっていた。これがエントロピー増大の法則というやつだろうか。ただ単に最初に箱詰めをしたときと、今の夏目の思考パターンが違うだけかもしれないが。夏目は元通りにすることは諦め、押入れに段ボール箱を適当に突っ込んだ。
片付けを終えて台所に戻ると、森野は小さな鍋をコンロからはずし、茹でたブロッコリーと海老を器に盛っているところだった。それが終わるとコンロにフライパンを載せて、刻んだトマトとジャガイモをひき肉と一緒に入れた。
「これなんて料理?」
夏目はフライパンの中身を指差す。
「正式名称忘れちゃったな。でも心の中では勝手にトマジャガミンチスープって呼んでる」
はにかんだ森野は、フライパンに練り状の中華スープと塩、胡椒、醤油と水を入れて火にかけた。
「あとは沸騰するまで待つだけ」
「助かった。僕だけじゃコンビニ飯になるところだった」
「簡単だから。これなら夏目くんも作れるよ。耐熱ボールがあったら電子レンジでもできるし」
「でもなんかジャガイモ剥くのがちょっと。包丁がスルッといきそうで怖いんだよ」
「もっと難しい手術を毎日こなしてる人が何言ってんだか」
森野が笑っている。
先に風呂に入っていた宇月拓海が、バスタオルで頭を拭きながら出てきた。
「じゃあ、次は森野が」
「私はいいよ」
家に着いた時点でタオルで拭いたとはいえ、まだ森野の髪は湿っていた。
「いや、でもそのままだと風邪ひくし」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「服が乾くまで、これ」
夏目が渡したスウェットとタオルを受け取り、森野は風呂に向かいながら言った。
「沸騰したら弱火にしてね。あとはそのままで大丈夫だから」
「うん、わかった。服は拓海のと一緒に乾燥機に入れといて」
「りょーかい」
夏目はフライパンの中で煮立っている具材を見つめながら、今日の出来事が嘘みたいだなと思っていた。まさか森野がうち来て料理を作り、風呂にまで入るなんて。
シャワーの音が聞こえてくる。ちらりと風呂の方を見ていたら、部屋の方から拓海が声をかけてきた。
「エロ親父」
「覗いてないから」
夏目は慌ててフライパンに目を向ける。沸騰をし始めたのを見計らって弱火にした。おたまで混ぜるといい匂いが漂ってくる。途端にお腹が鳴った。苦笑しながら夏目は大きさも種類もバラバラの皿やコップを手に取ると、部屋に運んでテーブルに並べていく。
テーブルの前に座っていた拓海の頭は、まだ少し濡れているようだ。
「ちゃんと髪拭かないと風邪ひくぞ」
夏目がバスタオルで髪を乾かしてやろうとすると拓海に睨まれた。
「自分でできるよ」
これ見よがしに頭をゴシゴシと乱暴にタオルで拭いながら、拓海は壁際の本棚をじっと見ていた。
「興味があるなら貸そうか」
「いいよ、別に」
拓海はそっぽを向く。まるで拾ってきた野良猫のようだ。そう簡単には懐くつもりはないぞという警戒心がまだ残っているのかもしれない。
夏目は拓海の視線の先にあった天文学の本を手に取った。小さい頃に父親に買ってもらった本だ。パラパラとめくって、何度も開いたページで手を止める。夏目が天文学に興味を持つようになったきっかけのブラックホールのことが書かれているページだ。
「拓海、ブラックホールって、なんで黒いか知ってるか」
バカにしてるのかという表情で拓海は答える。
「重力がすごすぎて光が外に出られないんだろ」
「よく知ってるな。じゃあX線天文学ってわかるか」
「知らない」
「レントゲンってあるだろ。あのX線を使うんだ。肉眼では見えないX線を使って、宇宙の見えない天体を観察する学問なんだ」
「どっちも見えないのに無理でしょ」
納得がいかないという表情で拓海は首を傾げている。
見えないもので見えないものを見る。
謎かけのような話だ。拓海が理解に苦しむのも当然かもしれない。夏目も小さい頃に、父に同じ質問をした覚えがある。
「不思議だよな。でも見えるんだ。X線で宇宙を見ると、肉眼で見たら真っ黒なブラックホールが、周囲の物質を引き込むときにX線を放射してるのが見える。ほらこんな風に」
拓海に本を見せる。ブラックホールが近くにある恒星のガスを回転するように吸い込み、高温状態になってX線を放射する様子が図解されていた。
拓海は食い入るように見つめている。
「気に入ったなら拓海にやるよ。持って帰ってゆっくり読めばいい」
最初はどうしようか悩んでいたようだが、知識欲に勝てなかったのか、今度は素直に好意を受け取ることにしたようだ。
本を手にすると、拓海は消え入るような小さな声でぼそりと言う。
「ありが……とう」
夏目は嬉しくなって頭を撫でる。
小さい頃に大人がわけもなく頭を撫でてくれた時のことを思い出した。父も母も、義父も義母も、きっとこんな気持ちだったのだろうなと夏目は思った。
あの時、手を離さなくて良かった。少しは拓海の心を救えただろうか。そう思いながら夏目は拓海の目をじっと見て話しかける。
「さっきさ、自分の人生が終わったみたいに拓海は言ってたけど、ブラックホールをX線で見た時みたいに、今見てる世界だって、別の見方をしたら全然違うものに変化するかもしれない。今日は無理でも、明日になったら違う何かが発見されて未来が変わるかもしれない。だから諦めるにはまだ早すぎると思うんだ」
拓海は何も答えなかった。少しだけ頷いたようにも見えたが、すぐに本を読み始めた。今はそのことは考えたくないということなのかもしれない。
「ちょっと時間かかっちゃった。ごめんね」
スウェットに着替えた森野が部屋に入ってきた。夏目がいつも使っているシャンプーの匂いがふわりと漂う。隣にいる拓海からも同じ匂いがしている。なんだか三人が家族になったようで不思議な気持ちを夏目は味わっていた。
タオルと着替えを準備していたら、拓海が本から目を挙げた。棚に置いてあるフィギュアに手を伸ばしてじっと見ている。
「拓海、フィギュアいじって壊すなよ。泣くからな」
「壊さねーよ」
被せ気味に答える拓海の声を聞いて夏目は苦笑すると、着替えを持って風呂に向かった。熱めのシャワーを浴びながら夏目は、ついさっき自分が口にした『諦めるにはまだ早すぎる』という言葉を思い出していた。
あれは拓海だけに言ったのではない。全てを諦めて終わりにしようと考えていた自分に対しても言ったのだ。
今日はダメでも明日は何かが変わるかもしれない。未来に絶望が待っていても、諦めるにはまだ早い。もう少しだけ未来を信じてみたい。夏目はそう思い始めていた。
風呂から上がると夏目は乾燥機を回した。台所では森野がブロッコリーと海老を和えたサラダの上に、ギザギザの花形切りにしたゆで卵を綺麗に並べている。
「拓海くん、ご飯よそうの手伝ってくれるかな」
炊飯ジャーを開けた拓海は、ご飯茶碗、味噌汁のお椀、小さめのタッパーにご飯を盛る。
森野がフライパンの火を消して夏目を見た。
「鍋敷きとかない?」
「そこの雑誌使って」
テーブルの上にはフライパンがそのまま並べられた。取り分けられるほど大きな器が三つなかっただけだ。ご飯やサラダを盛った皿も全員バラバラで、お箸もスプーンも足りずにコンビニやスーパーでもらった使い捨てのものを利用している。まるで野外キャンプの食事のようになっていた。
「いただきます」
「ます」
何度か息を吹きかけてから口に含んだトマジャガミンチスープは、少し酸味が効いていて美味しかった。サラダもうまい。弁当の時もそうだったが、やはり森野は料理が上手なようだ。
隣で食べていた拓海の手が止まっている。頬に涙がこぼれ落ちた。
「もしかして苦手なもの入ってた?」
森野が心配そうに顔を覗き込む。
だが拓海は首を振る。
「母さんの作ってくれたスープと同じ味がしたから」
森野が優しく頭を撫でた。
「そっか。ネットで見つけたレシピだから。同じものを見て作ってたのかもしれないね」
我慢していたものが一気にあふれたように、拓海の目から大量の涙が流れ落ちた。
「もっとちゃんと美味しいって言っとけばよかった」
この世にはいない母を思い出したのか、拓海は肩を揺らして泣き始めた。
「雪音に嘘つきって言われた。大っ嫌いだって」
森野は拓海の背中をさする。
「父さんだって怒らせるつもりじゃなかった。母さんが有名人と仲良しだって自慢したかっただけなんだ。僕が黙っとけば、あんなことにならなかったのに」
拓海は、流れ落ちる涙をトレーナーの袖で拭う。何度拭っても涙が溢れてくる。
「バチが当たったのかな。父さんがあんなことしたのも、母さんが死んだのも、雪音が病気になっちゃったのも、きっと俺が悪い奴だったからだ。母さんの代わりに俺が死ねばよかったのに」
最後の言葉を聞いた夏目は、衝動的に拓海の胸ぐらを掴んだ。
「二度とそんなこと言うな」
森野が夏目の手にそっと触れる。我に返った夏目は、拓海から手を離した。
「ごめん。せっかく森野さんに作ってもらったのに……冷めるだろ。お前は何も悪くない。ガキは飯食って寝てればいいんだよ」
拓海は黙ってご飯を食べ始めた。だが拓海の涙は止まらない。
その涙につられるかのように、外の雨も再び降り出したようだ。激しく打ち付ける雨音だけが部屋の中に響いていた。
夏目は台所に行き、食器を洗っている森野を手伝った。
「遅くなっちゃったけど、大丈夫?」
「大丈夫。私も明日は休みだし」
夏目は洗った箸を片付けようと引き出しを開けた。リルテックの錠剤を入れっぱなしにしていたことに気づいて夏目は慌てて閉める。
森野を見るとまだ食器を洗っている。見られずにすんだようだ。だが夏目が風呂に入っている間に箸が用意されていたことを考えると、すでに中を開けたかもしれない。
森野は看護師だ。筋萎縮性側索硬化症(ALS)の治療薬だと気づいただろうか。表情からはわからない。だが確認する勇気は夏目にはなかった。
すべての食器を洗い終えて二人は部屋に戻った。
拓海は泣き疲れたのかクッションにもたれるように眠っている。夏目が拓海をベッドに運ぶと、森野が布団をかけた。頬には涙の乾いた跡がある。親が子にするように、森野は拓海の頭を優しく撫でながら言った。
「せめて夢ぐらいは楽しいものを見ていればいいけど」
「そうだな」
夏目は鞄に入れっぱなしにしてあったスケッチブックを取り出す。少し表面のカバーが水分を含んでよれているが中身は大丈夫なようだ。
小さな女の子のイラストが描かれている。
森野も横から覗き込んできた。
「それ魔法のステッキなんだって。これがあったら空に行ったお母さんが戻って来ると雪音ちゃんは信じてたみたい。サンタさんにこれが欲しいってお願いしたって」
「じゃあ作っちゃいますか」
「え?」
夏目は机に座りパソコンを起動する。ソフトを立ち上げると、スケッチブックを見ながら3Dのモデリングデータを作成していく。
「いっつもこうやって作ってるんだ」
「そう」
「難しかったりする?」
「物によるかな。ステッキだけなら、そんなに時間はかからないかも」
最初に大まかな形を作ってから、長い杖の部分は四等分に分解する。あとで接合できるようにパーツを作り直していく。
「普通はネットでフリーに公開されてるデータを参考にして作ったりするけど、中には写真から3Dモデルを自動生成できるソフトもあったりするからね」
「そこまでいっちゃうと魔法使いみたいだね」
森野の言葉を聞いて夏目が苦笑する。
「僕からしてみたら、いろんな料理をさっと作れる人の方が魔法使いっぽいよ」
「魔法使いか。ちょっと嬉しいな。小さい頃、私も雪音ちゃんみたいにステッキ使ったら魔法使えるって信じてた時があるから。魔法使いになるの、けっこう夢だったんだ」
森野が笑う。夏目も笑った。
「気が合うね。実は僕も小さい頃は右手に謎の力が宿ってるって信じてた口だったりするから」
「いたねー。そういう男子」
二人で顔を見合わせて笑った。この時間がずっと続けばいいのに。夏目はそう心から思っていた。
「では、得意分野は任せた。私は見ているだけですが」
「任された。あ、眠たくなったら寝ちゃってもいいよ」
「はい」
「そこは遠慮しないんだ」
「しまった」
笑ってごまかした森野だったが、その後も夏目の作業を興味深そうに眺めている。
じっと見られながら作業をしたことがほとんどないせいか、夏目は落ち着かなかった。普段ならしないような些細なミスを何度もしてしまう。
「あっ」
「どしたの」
「なんでもない」
もう諦めたはずなのに。森野がそばにいるだけでこんなに緊張するとは、我ながら情けない。そう思いながら夏目は作業を続けていく。
「どんどん形が出来ていくのって、見てると面白いね」
「作ってるほうはもっと面白いよ。この世に一つしかないものを自分で作り出せた瞬間は、やっぱり嬉しいし感動するかな。料理だって森野が作ってる時、楽しそうだったし、きっと一緒だと思うけど」
夏目が笑うと、森野はポンと両手を叩いてなるほどと納得する。
「確かに。そういう意味では、料理は作ってるときも面白いけど、完成したら食べるときも美味しいから一石二鳥かな」
「フィギュアだって完成したあとニヤニヤしながら眺められるから一石二鳥だよ」
「それはどうだろう」
「えー」
無駄口をたたきながらも夏目はステッキのデータを完成させると、3Dプリンターに電源を入れた。白いPLAフィラメントをセットし、190度に設定して出力する。
少し音がしたせいか、ベッドで寝ていた拓海が寝返りをうつ。森野が人差し指を口元に当てて、しーっと言うような仕草をする。
夏目は音に気をつけながら、出力を終えたモデルのいらないサポーターの部分を削り落として形を整えていく。パーツを組み立てて、きちんと接合できたかを確認する。
「あとは色付けでなんとかなるかな」
下地を塗ってからマスキングテープを巻くと、ハートや星、花の部分にそれぞれ色をつけていく。
「出来た!」
夏目がステッキを掲げると、森野が目を輝かせた。おもちゃを目の前にした子猫のようにキラキラした目をしている。
「夢だったんでしょ。振ってみる?」
「さすがにそれは……でもちょっとだけ」
森野は少しだけ恥じらってから魔法のステッキを手に取ると、小さい頃を思い出したのかクルッと腕を振る。
「おぉ……なんか素敵」
大人の女性ですら、その気にさせることができるなら、五才の雪音にもきっと喜んでもらえるはず。そう思い夏目は一安心する。
夢中で作っていたので時間を忘れていたが、すでに夜が明けていたようだ。カーテンを開けると眩しい光が差し込む。
拓海が目を覚まして体を起こした。自分が寝ていた場所がどこなのかわからなくなったのか、目をこすりながら部屋を見回している。
「拓海。ほら、これで雪音ちゃんと仲直りな」
夏目は魔法のステッキを指差す。森野が笑顔でステッキを差し出した。
拓海が驚いている。まるでクリスマスプレゼントをもらった子供のように。
魔法のステッキを受け取った拓海は小さな声で言う。
「ありがとう、夏目先生」
ようやくちゃんと名前を呼んでもらえた。その一言で徹夜の疲れはすべて吹き飛んだ気がした。夏目は拓海の頭を撫でる。
「じゃあ病院、行くぞ」
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