第7話 12月23日 桜木南病院・夏目波流

 宇月拓海が小児科の病室に入っていくのを見届けた夏目波流は、こっそりと扉の隙間から心配そうに見守っていた。


「大丈夫かな、拓海のやつ」

「初めてのおつかいを見守るお父さんみたいになってるよ」


 森野こころがクスッと笑う。

「夏目くんは、良いお父さんになりそうだな」


 森野の言葉にチクリと心が痛む。そんな未来はありえないと、夏目は言いそうになって苦笑いをしてごまかす。


「それはどうだろう。どちらかというと子供は苦手だし」

「子供と接するのが得意だって自分でアピールする人より、苦手だって思ってる人のほうが、いい親になるかもしれないよ」

「どうして」


 森野の顔から一瞬だけ笑顔が消えた。何かを思い出したのだろうか。だがすぐにいつもの穏やかの表情に戻っていた。気のせいだったのかもしれない。


「自信満々な人は怖いかな。子供相手ならいくらでもコントロールできるって思ってそうで。そういう人は子供だから好きなんじゃなくて、簡単に自分の思い通りにできる相手だから好きってことも多いから。コントロールできないとわかった途端に豹変する毒親もいるし」


 小児科でいろんな親子を見ている森野だからこそ見えている視点があるのかもしれない。


「苦手意識を持ってる人のほうが、自分が間違ってるかもって、ちゃんと悩んで考える親になれると思うよ。だから夏目くんも大丈夫だよ。きっと良いお父さんになれるよ」

「だと……いいけど」


 夏目は苦笑いをする。お父さんどころか、結婚できるかどうかすら危うい。それでも、森野の大丈夫というお墨付きをもらえたことは嬉しく感じていた。これまで何度も彼女の大丈夫という言葉に励まされてきたのは事実だ。


 いつも助けられ励まされてばかりで、何も返していない。これまで受けた恩を返せる日が来るのだろうか。


 そんなことを思いながら夏目が部屋の中を見ると、宇月雪音のベッドに近づいた拓海がなかなか言葉を切り出せないのか、しばらくもじもじしていた。


 森野が神に祈るように両手を合わせて、囁くように応援している。

「拓海くん、頑張れ」


 その願いが届いたのか、拓海がやっと口を開いた。

「ごめんな、ずっと嘘ついてて」


 拓海は服を触ったり、頭をかいたりと落ち着かない様子だったが、少しずつ思いを言葉にしていく。


「雪音が泣くのは見たくなかったんだ。こんな嫌な思いするのは俺だけでいいって思ってた。だから」


 雪音は首を振った。

「お兄ちゃん、ごめんね。大嫌いなんて言って」


「いいんだ。悪いのは……全部俺だから。雪音はなにも心配しなくてもいい。あとは俺がなんとかしてやるから。だからちゃんと手術受けろよ」

「うん」


 拓海は後ろ手に隠していた魔法のステッキを差し出した。

「あのさ、これ」


 雪音の表情がパッと明るくなる。

「魔法のステッキだ。どうしたのこれ」


「夏目先……サンタさんが作ってくれたんだ。今年はクリスマスは忙しいんだって。だからちょっと早めにプレゼントって」

「すごーい」


 雪音は、拓海からステッキを満面の笑みで受け取った。しばらくの間、夢見るような表情で眺めている。ステッキを握りしめた手を挙げ、上にかざして呪文のような言葉を唱えてから、ステッキをくるりと回した。


「ほら、本当に願い事叶ったよ。ずっと心の中でお願いしてたの。お兄ちゃんに謝りたいって」


 手を差し出して、拓海の目をじっと見ている。

「握手して」


 拓海は雪音の小さな手をぎゅっと握る。雪音は笑った。

「これで仲直り」

「うん」


 拓海も小さく笑っている。

 二人をこっそり見守っていた夏目と森野は、小さくハイタッチをした。


 病室を離れて、二人は階段を下りていく。

「よかったね」

「そうだね。本当によかった」


 あと二、三段で一階フロアに降りるというタイミングで、不意に夏目の足に力が入らなくなった。階段を踏み外しそうになった瞬間、森野に腕を掴まれギリギリで滑り落ちずにすんだ。


「大丈夫?」

「眠くて、ちょっとふらついただけ。大丈夫」


 森野に支えられるようにして、最後まで階段を降りる。


「それだけ? 本当に? もしかして……」

「なんでもないからっ」


 夏目は無意識のうちに声を荒げていた。森野がびくりと体を硬くして、掴んでいた腕を離した。


 怖がらせてしまったかもしれない。

 そう思った瞬間、わけのわからない悲しみがこみ上げてくる。泣きたいわけでもないのに涙が流れる。


「どうしたの。どこか痛いの?」

 森野が心配そうに覗き込んでいる。


 人前で症状が出るのが、よりによってこの瞬間だったことが恨めしくて仕方がない。どんどん体がおかしくなっていく自分の姿をこれ以上、森野に見られたくはなかった。


「ごめん。本当になんでもないんだ」

 夏目は足に感覚が戻ったか確かめる。なんとか歩けそうだ。


「今日はいろいろ、ありがとう。それじゃ。また」

「え、でも、夏目くん」


 森野の顔を見ないようにして少し足を引きずるようにしながら、夏目は逃げるようにその場を離れる。小児病棟を出てロビーへと向かった。


 なかなか涙が止まらない。上位運動ニューロンの障害による顔面神経麻痺が出ているのだろうか。


 ついさっき、どうしてあんなに悲しみに心が支配されたのかがようやくわかった。

 同情されたくなかったのだ。

 相手にそんなつもりがないことは頭では理解していても、心を騙すことは難しい。


 笑っている森野が好きだった。あんな顔は見たくなかった。


 もう潮時かもしれない。これ以上無様な姿を晒す前に、消えた方がいいのだ。

 夏目がそう心に決めた時、ようやく涙が止まった。心だけではなく体も運命に抗うことを諦めた瞬間だったのかもしれない。そう夏目は思った。




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