第8話 12月24日 桜木南マンション・夏目波流
「もうお仕事はおやめになったほうが。その状態で続けるということは、患者さんの命を危険にさらしていることになるわけですし。もちろん夏目さん自身が一番わかってらっしゃるでしょうが」
夏目波流は部屋に戻ってきてからずっと、筋萎縮性側索硬化症(ALS)だと診断を下した医師の言葉を頭の中で反芻していた。
踏ん切りがついたという意味では、森野こころの目の前で症状が出たのは良かったのかもしれない。あんな無様な姿をこれ以上見せたくない。だからこの決断は正しいのだ。夏目はそう思い込むことにした。
スマートフォンを手に取ると、『綺麗な消え方はじめました』と書かれたサイトを表示する。登録の最後でやめたままにしていたページはログインの期限が切れていた。もう一度最初から登録しなおしていく。
綺麗な消え方はじめましたへようこそ。
イニシャルと年齢を正確にご記入ください。
イニシャル = N・H
年齢 = 25歳
N・H様 ご登録ありがとうございます。
希望日があればご記入ください。
十二月二十五日を希望します
十二月を希望します
▼とくになし
最後に『はい』を選ぶと契約終了です。
スケジュールが決定した時点でメッセージをお送りします。
本当に綺麗な消え方を望まれますか?
▼はい
いいえ
最後に『はい』を選ぶと、夏目は長い溜息を吐く。今度は誰にも邪魔をされずに登録することができたようだ。
これでいい。このまま消えた方がいいのだ。
夏目がそう決意した途端に、体の芯から凍っていくような感覚に襲われた。エアコンの温度を上げても寒くて仕方がない。暖かい部屋にいるのに、体の震えで歯がかみ合わなかった。自律神経がおかしくなっているのかもしれない。
マグカップに水を入れ、電子レンジで温める。沸騰したお湯にココアの粉末を入れてかき混ぜて、部屋に持って行こうとした時だった。
手に持っていたはずのマグカップが床に落ちていた。落とした感覚はない。気がついたら手からすり抜けていたのだ。床に叩きつけられたマグカップは派手に割れた。中に入っていたココアも床だけではなく白い壁にまで飛び散っている。
どうやら足だけではなく、手の方にも症状が出始めているようだ。思った以上に、進行が早いのかもしれない。
夏目は陶器の破片を拾って、洗濯するつもりだったタオルで床や壁を拭いた。
何やってんだ。
変な笑いがこみ上げてくる。もう死ぬことを決めたのに、部屋の掃除をしているなんて。滑稽だった。なのに涙が止まらない。
そうだ。死ぬんだ。
自分でそう決めたはずなのに、心がざわつく。今の滑稽な姿を見下ろしている別の分身がいるような気がしていた。
もう一人の自分が、部屋をゆっくりと見ている。あの幸せだった一夜を思い出すように。
台所を、テーブルを、3Dプリンターや机を。記憶の欠片を拾い集めるように、ぐるりと視線が動く。森野の笑顔と拓海の泣き顔が脳裏に浮かんだ。
「拓海にはあんなに偉そうなこと言ったくせに、人間ってほんと弱いよな」
夏目は苦笑いをした。
もういいんだ。
心の中でそう思った時、生きることを諦めきれない分身の気配が消えた。
登録が受諾されたスマートフォンの画面をじっと見ていると、田舎の義理の両親と、すでにこの世にはいない本当の両親の姿が頭をかすめる。
「……ごめん。もう決めたんだ」
マグカップの破片と、こぼれたココアを吸い込んで土色に汚れたタオルをゴミ箱に捨てると、夏目はベッドに倒れこんだ。
毛布にくるまり止まることのない寒気を我慢しながら、綺麗な消え方を指示する死神からのメッセージが届くのを待ち続けていた。
綺麗な消え方はじめましたへようこそ。
ゆうた様。
本日のリストが更新されました。
どの愚者に綺麗な消え方を与えるべきかお選びください。
▼N・H 25歳
本当にこの愚者でかまいませんか?
▼はい
いいえ
では、与えるべき裁きをお選びください。
▼爆弾テロに巻き込まれて死亡
(横領議員を失脚させるために貢献)
本当にこの綺麗な消え方でかまいませんか?
▼はい
いいえ
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