第1話 12月18日 桜木南病院・夏目波流

 夏目波流がERに到着すると、救急隊員がストレッチャーを運び込んだところだった。


「宇月雪音、五歳、女性、意識レベル300、呼吸困難」

 迎え入れた医師や看護師が声を合わせて処置台へ患者を移動させる。

「1、2、3!」

「宇月さん、わかりますか、宇月雪音さん」


 医師が肩を叩いて話しかけても返事はない。マスクで酸素投与をしているが呼吸が苦しそうだ。看護師が服を切開し、血液を採取する。薬剤を投与できるように静脈ラインを確保しながら、モニタリングされた数値を読み上げている。


「血圧89の71、脈拍150」


 部屋に入ってきた夏目を見つけた医師の猪熊一樹が指示を出す。

「遅いぞ、夏目。胸部レントゲン」


「はい!」

 夏目は思わず出そうになった欠伸を噛み殺して眼鏡をかけ直すと、指示された通りに撮影する。心胸郭比が69%。心拡大も認められる。肺の部分は真っ白だ。


「だいぶ肺に水が溜まってるな。心臓もでかい」

 猪熊の声が低くなる。


 もともと体が大きく顔も怖い猪熊だが、重症患者の処置をするときは必ずと言っていいほどさらにドスの効いた声になる。無意識のうちに声を押し殺しているのかもしれない。

 隣で見ている夏目も気を引き締めた。


「左心不全による肺水腫か。フロセミド、エプレレノン、カルペリチド出して。BNPは」

「1300超えてます」

「拡張型心筋症の可能性が高いな」


 猪熊の表情が曇る。肺水腫が原因の呼吸困難はこの場で処置できるが、拡張型心筋症となるとそうはいかない。


「心電図と心エコーも用意してくれ。心臓カテーテル検査の準備も頼む」


 嵐のような処置が終わり夏目がERを出ると、通路脇のソファーに座っていた少年が立ち上がった。まだ背が伸びきっていない華奢な体つきは小学生の低学年ぐらいに見える。だが顔つきはしっかりしている。実際は高学年かもしれない。


 髪の毛が目に入りそうなぐらい伸びすぎていて、服装もあまり清潔な感じがしないのが気になる。少なくとも親の保護が行き届いた家庭の子供ではなさそうだ。


「雪音は……どうなったの。大丈夫なの。雪音、死んだりしないよね」

 さきほどまで処置していた少女と顔がよく似ている。兄妹だろうか。泣いていたのだろう。目が赤い。


 夏目はしゃがんで少年の目を見る。不安ではちきれそうになっている少年をなんとか安心させようと夏目は微笑んだ。

「大丈夫。処置は無事に終わったから。詳しいことはあの怖い猪熊先生から説明があると思うよ」


「だれが怖い先生だ」

 いつも夏目を指導をしている先輩医師の猪熊が背後で睨んでいる。医者というより格闘家でもしているほうが似合いそうな体格をしている。


「ほらな、猪熊って名前だけじゃなくて顔も声も怖いだろ」

「夏目、おまえ喧嘩売ってんのか」


 猪熊は足で夏目の背中を軽く蹴った。夏目はバランスを崩しそうになりながらも少年に話を続ける。


「猪熊先生はね、こんな見た目だけどこの桜木南病院で一番腕がいい先生なんだよ。だから安心して」

「こんな見た目はよけいだ」


 猪熊が夏目の頭に手刀を落とす。振動で鼻の奥がツンとする。

「痛っ」


 二人のやりとりを聞いていた少年の表情が少しだけ和らいだ。夏目の心も少しだけほころぶ。子供の扱いはあまり上手なほうではないが、猪熊のおかげでなんとか失敗せずにすんだかもしれない。


 猪熊が夏目の隣にしゃがみ少年に話しかける。

「雪音ちゃんのお兄さんかな」

 少年はこくんと頷いた。


「名前を聞いてもいいかな」

「宇月拓海」

「拓海くんだね。今日はお父さんかお母さんは来てないのかな」

「いない」

「え?」

「父さんは捕まった。母さんは父さんが殺したから、もういない」


 一瞬で空気が張り詰める。

 夏目も猪熊も気がついた。半年前にこの町で殺人事件を起こした宇月拓也の子供だと。もうすぐ裁判が開かれるということで、最近になってまたワイドショーやニュースを賑わしている事件だ。浮気をしていた妻を殺し、さらに浮気相手の男も殺したのが、この少年の父親なのだ。


「遅くなりまして、すみません」

 女性が駆け寄ってきた。冬だというのにやたらとハンドタオルで汗を拭っている。痩せているから肥満による汗というわけではなさそうだ。更年期障害なのだろうか。見ているこちらが気の毒になるぐらい何度も頭を下げている。


「児童養護施設・桜木南こども学園の久城と申します」

 施設の名前を聞いた瞬間、猪熊の表情に落胆と嫌悪の色が走ったのを夏目は見逃さなかった。猪熊は立ち上がり丁寧にお辞儀をした。


「処置をした猪熊です。あちらの部屋に来てもらえますか。雪音さんのことでご説明したいことがありますので」

 猪熊に促され、少年と女性が奥の部屋に入っていくのを夏目は見守っていた。


 少年に病状を聞かれた時に大丈夫と答えたものの、今回行ったのは応急処置にすぎない。突発的な不整脈や心不全を防ぐために薬で症状を抑えたとしても、大きな発作があれば危険な状態になることには変わりない。


 二〇一〇年に改正臓器移植法が施行されて、日本でも小児の移植手術が可能になったとはいえ、子供の臓器は常に不足している。ドナーが見つかるまで待てるほど彼女の心臓がもつかどうかは微妙なところだ。かといって億単位の金を積んで海外の病院で移植をするという手段は、児童養護施設にいる子供には難しいだろう。


 現状では彼女の命を確実に救うという選択肢は、大金と運がなければほとんどないに等しい。医者ができることは、彼女の心臓がずっと働き続けるという奇跡を祈ることぐらいだ。


 そんな神頼みのような曖昧な言葉を少年に伝えなくてはならない猪熊の気持ちを思うといたたまれない。患者の命が手から零れ落ちるという経験を嫌というほどしていても、きっとこれからもずっと、この憂鬱な気持ちに慣れることはないのだろう。





 夏目が待合室を通り過ぎると、テレビでワイドショーが流れていた。容疑者の宇月拓也の顔写真が表示されている。


「宇月拓也容疑者は半年前に妻を殺害後、浮気相手とされる神谷航平さんを殺害した罪に問われています。本日初公判が行われている地裁前には人気俳優だった神谷航平さんのファンが詰めかけています」


 画面の中でコメンテイターが説明している経歴によれば、班目響也という議員の秘書をしていた元エリートらしい。とても人殺しをしたとは思えないほど、物静かで優しそうな表情をしている。人は見かけによらないということだろうか。


 夏目がナースステーションの前を通りかかると、看護師たちが噂話をしていた。

「浮気してた妻を殺すってだけでもアレなのに、浮気相手も殺すって……ねぇ」


 看護師たちが口々に知っている情報を披露している。ワイドショーで仕入れたネタやネットで見た情報を、さも自分で一から調べたかのような口ぶりで報告し合っていた。


「神谷航平って結構クリーンなイメージで売ってたのに」

「中学時代の同級生と結婚したんじゃなかった? 奥さん自殺したんだって」


 殺された浮気相手の男というのが、神谷航平という有名俳優だったことで、さらにマスコミの報道は過熱していた。ほかに大きな事件が少なかったこともあり、その話題がエンドレスに扱われる状況に火を注いでいたのも少年たちにとっては、ある意味不運だったのかもしれない。


「あの犯人の子供だって」

「だからあの施設なんでしょ。ほかと違って犯罪者の子供とか優先的に引き取ってるらしいから」

「あそこ、前に治療費踏み倒したことなかったっけ」


 児童養護施設の桜木南こども学園は、この病院では悪い意味で有名だったようだ。猪熊が露骨に嫌な顔をしていた理由が夏目にもようやくわかった。


「確かほかの入院患者と喧嘩して怪我させてとか、揉め事になったこともあったし」

「早めに転院してもらったほうがいいんじゃない。どうせ移植手術はうちでやれないし、そもそもあの子達にそんなお金ないでしょ」


 噂をしている内容はほとんどが事実かもしれないが、この手の噂話を本人のいない場所でしているのを聞くのは、あまり気持ちのいいものではない。


 一番辛辣な意見を言っているのは正看護師の尾崎玲華だった。ナチュラルなメイクをしていても派手に見える顔立ちは目を引く。声が大きく、よく喋る。普段から隙あらば噂話をしている人だ。相手によって話す内容や態度をコロコロ変えるところを何度となく見ている。夏目の苦手なタイプだった。


 一言注意すべきかどうかを夏目が考えていたとき、ナースステーションの看護師たちを睨みつけている宇月拓海の姿が目に入った。棚に置かれたボールペンを手に取ると思い詰めたような表情で廊下を走り出した。嫌な予感がして夏目は拓海のあとを追いかける。


 待合室のソファーの前に拓海は立っていた。看護師たちの言葉を思い出したのか衝動的にボールペンを握りしめた右手を振り上げた。勢いに任せて腕を振り落ろす。ソファーにボールペンが突き刺さる瞬間、夏目の手が少年の腕を掴んだ。


「やめろ」

 なんで邪魔をするんだという表情で夏目を見つめている。小さな手が震えていた。


「どうしてこんなことを」

「あいつらが……悪口言ってた」

「誰かに悪口を言われたら、腹いせに関係ないものを壊すのか」

 拓海は答えない。


「ムカついたんだったら、その相手に直接文句を言えよ。関係ないものに当たり散らすな。お前がやってるのはただの破壊行動だ」

「痛いだろ、放せよ」

「約束しろ。こんなことはもうしないって」


 拓海がボールペンを捨てる。夏目はボールペンを拾いあげると、拓海の目をじっと見た。


「行くぞ。抗議したいことがあるなら正しい方法でやればいい」

 夏目は拓海と手をつないだまま、ナースステーションに向かった。


「ほら、言いたいことがあるんだろ。言えよ」

 夏目が看護師の前に拓海を連れて行く。拓海は看護師たちを睨みつけ、両手をぎゅっと握り、唾を飲み込んだ。


「俺と雪音は何もしてない……」

 少しかすれ気味の声変わりをしかけている拓海の声が部屋に響く。


「父さんが人を殺したりするはずがない。俺はそう信じてる。父さんと母さんのこと何も知らないくせに、バカにすんな!」


 噂話をしていた看護師たちが手を止め、怪訝そうに見ている。


「雪音だって、父さんも母さんも戻って来るってずっと信じてるんだ。だから父さんが母さんを殺したなんてあいつの前で言うなよ、絶対に!」


 噂話に参加していた看護師たちは、気まずそうにお互いの顔を探っている。

 拓海の頭に優しく手を置くと、夏目は口を開いた。


「金を払わなかったのはこの子たちではないんですよね。だったら、相手が誰でも病院として誠実に治療すべきではないのですか」

 夏目は、噂を率先してしゃべっていた尾崎を睨みつける。


「転院してほしいとおっしゃっていたのは、尾崎さんですよね。看護師として不適切な発言だと思いますが。拓海くんにきちんと謝ってください」


 名指しされた尾崎が睨み返してきた。

「なんで私が」


「まぁまぁ……そのくらいにしてはどうですか」

 仲裁に入ってきたのは臨床心理士の神谷高司だ。指で唇をなぞりながらニコリと笑う。すらりとした長身と端正な顔立ちは、芸能人としてテレビにでも出ているほうがしっくりくる。


 新しく入ってきた看護師が必ず気をつけろと注意される程度には、この病院内では女たらしで有名な人物だった。すべての科の看護師と同時進行で付き合ったことがあるという都市伝説すらあるらしい。神谷がかばった尾崎も、彼女の一人だという噂のある看護師だった。


 神谷は拓海の前にしゃがんで目線を合わせる。

「嫌な思いさせて悪かったね。代わりに謝りますから許してもらえませんか」


 拓海はじっと神谷を見ている。大人の建前で口先だけで謝っているだけだと見抜いているのか不服そうな表情をしている。


「宇月拓海くんはこちらに来てませんか?」

 准看護師の森野こころがナースステーションを覗いていた。少年の姿を見つけて笑顔になる。


「雪音ちゃんの意識が戻ったから、一緒に来てくれるかな。お兄ちゃんがそばにいないと心配するだろうし」


 拓海の手を取った森野が夏目に目配せする。もしかしたら気を利かせて拓海を連れ出しに来てくれたのかもしれない。


「じゃ、行こっか」

 森野と拓海はナースステーションから出て行くと、残された者たちの間になんとも言えない微妙な空気が広がった。気まずさに耐えきれなくなった夏目は、軽く会釈をしてから出ていく。


 またやってしまったと夏目は心の中で舌打ちをする。正論を言いすぎて煙たがられるのは学生時代に何度もやっているのに、未だに学習できていないことに情けなくなる。これでまた看護師に刃向かうウザい研修医という不名誉な噂が広がるんだろうなと思うとうんざりしていた。


 だがいずれ何もかも終わりになるなら、どうでもいいのかもしれない。そんな空虚な感情が夏目の心にするりと忍び込む。


 違う。そうじゃない。今は考えるな。

 夏目は必死にそれ以上考えないようにして、足早に歩き出した。





「夏目くん、でしたかね」

 背後から声をかけてきたのは神谷だった。夏目の横に並んだ瞬間、ふわりと甘い香りが漂う。カウンセラーをするときに焚いたアロマかなにかの香りだろうか。それとも付き合っている女の香水だろうか。


 夏目の隣に並んだ神谷は腰の高さがまったく違う。存在しているだけで相手に劣等感を抱かせる人間というのはどこにでもいるようだ。気にした方が負けだ。


「正義感を発揮するのはとてもいいことだと思いますが、君はまだ研修医です。今から看護師に嫌われるようなことは極力避けたほうがいいですよ。彼女たちとは仲良くすべきだと思います」


 そんなことは言われなくてもわかっていると言いそうになって、夏目は必死にこらえる。


「おかしいことは、おかしいって言っただけですよ」

「真実は人を傷つけることもありますからね。嘘が上手なほうが生きやすいと思いますよ。僕みたいに」


 神谷はにっこりと笑った。人をたらしこむタイプの笑顔だ。もし夏目が女だったら確実に魂を持っていかれていただろう。


「神谷先生は説教が好きなんですね」

「女性に喧嘩を売るより、後輩に説教するほうが平和だと思いますがね」


 無意識のうちに不機嫌になっているのを夏目は感じていた。男として遺伝子レベルで危機感を感じるのは生物として正しい反応なのだろう。


「嫌味も好きなんですか」

「君ほどじゃありませんよ。なんなら今度ナースと合コンがあったら呼びましょうか。仲直りの仕方もレクチャーしてあげてもいいですよ。カウンセリング料をもらいますけど」

「結構です」

「かわいくないですね。次の研修先がうちになる可能性もあるのに。もう少し未来の先輩と仲良くしといたほうがいいと思いますけどね」


 廊下の突き当たりにあるカウンセリングルームの前に、椎名りさが立っていた。いわゆるMRと言われる製薬会社の営業をしている女性だ。最近出入りをし始めたらしく、病院内でもよく目にするようになった。


 猪熊一樹と親しげに話をしていたようだ。手を振りながら猪熊が遠ざかっていく。勤務中にMRと親しげに立ち話をするなんて珍しいなと思いながら、夏目はその後ろ姿を見つめていた。猪熊はバツイチとはいえ今は独身だから親しい女性がいても不思議はないのかもしれない。


 近づいてくる神谷を見つけた椎名は、お得意様のためのとっておきの営業スマイルを見せた。

「神谷先生、今度こそお話を聞いていただける約束でしたよね」


 ベージュのパンツスーツを着た椎名は、すらりとしたモデル体型をしている。長身の神谷の隣に並ぶとさらにそのスタイルが映える。


「悪いね、ちょっと休憩が長引いてしまって。次の患者が控えてるから、またにしてもらえますか」

「ではその診断が終わるまでお待ちしてますので。どうかお話を」

「今日はもう無理かもしれません」


 神谷は左の袖をめくり時計を確認する。ブランド品に興味がない夏目でも、それが高級だとわかるぐらいに有名な時計だ。これ見よがしに合コンでチラ見せしている神谷と、それを見て沸き立つ女性陣の姿が容易に想像できて、夏目は冷ややかな視線でそれを眺めていた。


「一週間後ぐらいに来てくれたら時間が取れると思いますよ」

「それ、水槽の水を変えるタイミングってことでしょうか」

「ばれましたか」


 神谷は苦笑している。


「諦めませんよ。お話聞いていただけるまで、何回でも来ますから」

 怒った子供のような表情をした椎名は、会釈をして立ち去った。


 ため息をついた神谷が、夏目を見てにこりと笑う。

「じゃあ合コン決まったら、また声かけますから」


 部屋に入っていく神谷の背中を見ながら、精神科への配属は絶対に希望しないと心に誓った。もちろん正式に配属が決まるまで仕事を続けていられればの話だ。





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