第2話 12月19日 桜木南病院・夏目波流

 小児科病棟を訪れた夏目波流は、病室の中を見回した。


 ベッドサイドにはぬいぐるみやおもちゃが置かれている。いかにも子供らしいパジャマを着ている子も多い。大人ばかりの病棟に比べると部屋の中が色とりどりで賑やかしい。


 一番奥のベッドで横になっている有村勇太を見つけた。自宅の階段で足を滑らせ緊急搬送されてきた少年だ。夏目が応急処置をしたが、大腿骨の骨折ということで、改めて金属で固定する骨折合術をすることになっていた。


「勇太くん、これ作ってみたんだ」


 夏目が声をかけると、スマートフォンをいじっていた勇太は顔を上げた。目の前に差し出された小さなフィギュアをちらりと見ただけで、すぐに目をそらし布団をかぶってしまった。


 子供の瞳は雄弁だ。

 夏目には一瞬でわかった。あからさまにがっかりされたことが。無言の否定というのが一番つらい。『これじゃない』と怒ってもらえたほうが、まだマシかもしれない。


 勇太は布団の中でゲームを続けているのかBGMと効果音だけが聞こえてくる。

 完全に無視をされて手持ち無沙汰になった夏目は、小さなフィギュアをじっと見つめていた。


 夏目が作ったのは五センチ四方のキューブ型のジオラマ風フィギュアだ。子供たちに人気のアニメをモチーフにしている。勇太がアニメのシャツを着ていたことを思い出して、徹夜で作りあげた。ジオラマで再現したのは、主人公の少年がピンチになると、異世界から仲間のロボットが現れて助けにくる場面だ。


 3Dプリンターで出力し、色付けはフィギュア用の塗料で工夫した。できる限りの努力はしたが形や色合いが微妙に違っていたのかもしれない。


 手術は今日だ。もう一度作り直す時間はない。

 ベッド脇には鮮やかな千羽鶴と寄せ書きが飾られていた。クラスメイトが作ったものなのだろうか。夏目も同じように応援するつもりで作ったのだが、余計なお世話だったようだ。


「夏目先生、すみません」

 勇太の母親が頭をさげた。


 十歳の子供がいるとは思えないほど若々しく見える。髪型やメイク、服装が女子大生のようだ。初めて会ったときは勇太の姉だと勘違いしていたぐらいだ。


 申し訳なさそうに謝る母親の表情を見て、夏目は小さい頃の記憶が頭をよぎった。

 授業参観に訪れた義母が他の母親たちに比べて年齢が上だったためクラスメイトに「夏目んち、ばーちゃんが来とるんか」とからかわれて、取っ組み合いの喧嘩に発展したときのことだ。


 喧嘩をしたクラスメイトの母親が謝っていたときの表情が勇太の母親と似ている。顔の作りではなく雰囲気がだ。母親になってもなお自分は女であるということを全身で主張し続けている女性が、ふいに母性を見せた瞬間の奇妙なアンバランスさが似ているような気がしたのだ。


「この子、最近いつもこうで」


 手術を目の前にして不安な気持ちを抱えているのは子供だけではない。親も同じだ。むしろ子供より胸を痛めているだろう。そんな相手に気を使わせてしまい、夏目は申しわけない気持ちでいっぱいになった。


「こちらこそすみません。いらなかったら捨ててもらってもいいですから。勇太くん、また来るよ」


 夏目は苦笑しながら、補助テーブルの上に小さなフィギュアを置く。母親に会釈をして病室を出ていった。


 気持ちを切り替えようと、夏目は小さな息を吐く。子供の相手は難しい。医師として働くつもりなら慣れなくてはならないが、人には向き不向きがある。いまさらその努力を夏目がしても意味があるのかどうかはわからない。


 廊下を歩き出した夏目に声をかけてきたのは看護師の森野こころだった。

「わざわざ来てくれたんだ」

「休憩のついでに、ちょっと寄ってみただけです」


 森野が夏目の顔をじっと見ている。近くで見ると潤んだ大きな瞳と長い睫毛が、子猫を連想させる。

「もしかしてあれ作るの、かなり徹夜した?」


 森野の問いに夏目は苦笑する。目の下のクマを見抜かれたのかもしれない。看護師相手に嘘はつけないようだ。

「まぁ一応……気に入ってもらえませんでしたけど」

「子供は正直だから。そういうこともあるよ」


 森野は微笑んだ。見ている方も笑顔になりそうな柔らかい笑顔で夏目を見ている。


 童顔で幼く見えるが夏目と同じ二十五歳だ。森野のほうが職場の経歴は長い。夏目が小児科で研修をしていたときは何度となくフォローをしてもらったので、未だに頭が上がらない。


 どんな状況でも笑顔で優しく患者に接する森野は小児科の子供達に好かれていた。研修医やほかの科で働く医師にも評判はいい。彼氏はいないらしいので男性陣には別の意味でも人気のようだ。


 森野の視線がまだ自分に向けられていることに気づいて、夏目は少し気恥ずかしさを感じながらも聞いてみる。


「僕の顔に何かついてますか」

「いつも眠たそうな顔してるのは、フィギュアを作ってたからだったんだなーと思って」

「生まれつきそういう顔なんだと思います。小学生の頃からいつもダルそうと言われてたので」

「そうかなぁ。入った時はもうちょっと元気だった気がするけど」


 森野は首を傾げている。

「今は救急外来だっけ。ただでさえ大変なんだから、徹夜はほどほどにしといたほうがいいよ。研修医の中で一番覇気がないって評判だから」


「酷い言われようですね」

 夏目はあんまりな評価に落胆しつつ苦笑するしかなかった。


「給料日まで金欠なんで、一日一食で腹減りが悪化してるせいかもしれません」

「そんな無茶して倒れたらどうするの」


 森野がしょうがないなと子供を叱る母親のような表情を見せる。

「もったいないよ。どこいっても仕事を覚えるのが早くて優秀だって先生褒めてたんだから。もっとシャキっとしないと」


「……はい」

 褒められることにあまり慣れていない夏目は居心地が悪そうに生返事をした。森野はすべてお見通しというような優しいまなざしで見つめている。


 森野は人を気遣うのが上手だ。患者だけではなく周りの人間をよく見ている。他人の良いところを見つけては、さりげなく褒めたり感謝の言葉を伝えている。こういうところが人に好かれる要因なのかもしれない。


 人に気を使うつもりが逆に気を使わせてしまう残念な自分とは大違いだと夏目は思った。医師として、人として見習いたいところだ。


「森野さーん」

 患者に呼び止められて森野は足を止める。退院する子供と保護者に挨拶をして、姿が見えなくなるまで手を振っていた。


 再び歩き出した森野が言った。

「今日はありがと。勇太くんのこと気にしてくれて」


 フィギュアを見せたときに、失望していた勇太の瞳を思い出して、夏目は苦い顔をする。

「逆効果だったかもしれません。よけいなことをしました。すみません」

「せっかく良いことをしたのに、自分を責めたらダメだよ」


 真剣な眼差しで森野が見ている。そっと肩を叩いてふわりと笑う。森野の手が肩に触れただけで、夏目の鼓動が早くなる。まるでフォークダンスで初めて女子と手をつないだ小学生のようにドキドキしているのを感じていた。


 毎日のように患者に何人も、何十人も直接体に触れているはずなのに、夏目がこんな風に感じるのは森野が相手のときだけだ。いつからそんな風に意識していたのかは思い出せない。気が付いた時にはそうだった。


「誰かが自分のことを気にしてくれてたって気持ちだけで十分嬉しいもんだよ。心配しなくても、ちゃんと伝わってるから大丈夫」


 落ち込んでいた夏目の心に森野の言葉が刺さった。ぎゅっとこんがらがっていた紐がはらりと解けるような感覚に包まれる。


 今までに何度も森野の言葉に励まされ、救われていた。研修医として失敗をしたり落ち込んだりするたびに、森野は欲しい言葉をくれる。


「だと……いいんですけど」

「じゃあ、またね」


 仕事に戻っていった森野の後ろ姿を夏目は見つめていた。無意識のうちにいつも森野の姿を目で追っていることに気づくと、恥ずかしさで目を逸らした。この淡い思いが叶う可能性が低いことがわかっていたからだ。


 どんどん体がおかしくなっていく未来しか用意されていない自分には、その気持ちを伝える権利がない。そう言い聞かせていた。




 桜木南病院の裏庭にある木製ベンチに夏目は腰を下ろした。


 金具は錆びて背もたれの一部はニスが剥げて腐りかけている。食事をするには向いていない場所だが、しばらく一人になりたいときは、いつもここで昼食を取るようにしていた。救急外来の搬送があればすぐにわかる場所だったからだ。眠気覚ましに外気の冷たさもちょうどいい。


 鳥の声が聞こえて、夏目は空を見上げた。

 冬の空は雲ひとつなく澄み渡っている。だが夏目の心には、ずっと靄のようなものが広がっていた。


 近所のコンビニで買ったサンドイッチをレジ袋から出す。ハムとレタスが挟まれたサンドイッチを口にするがあまり味がしない。亜鉛が足りないのか、それともストレスからくる味覚障害だろうか。しばし目をつむって味を確かめるが、やはり味がはっきりしない。


 夏目は別の味を求めて、コーヒーを袋から出そうとした。だが、うまく手に力が入らず掴み損ねて、落ちた缶が地面に転がる。

 握力が落ちているのかもしれない。じっと手を見て何度か握り直して、ため息をつく。


 まともなのはあとどれぐらいだろう。


 缶を拾い上げ、飲み口を服で拭ってからプルタブを開けてコーヒーを口に含む。砂糖もクリームもたっぷり入っているタイプを選んだはずなのにブラック並みに苦かった。


 ろくに味を感じていないくせに糖質を摂取した後のダルさはきちんと襲ってくるようだ。夏目はベンチの背もたれに身を任せるようにして目を閉じる。

 このまま目覚めないほうが幸せかもしれない。疲れていると身も蓋もないことを考えてしまうのは悪い癖だ。


 このところずっと疲れているのに眠れない。どうせ眠れないならと諦めて、修行のような気持ちでフィギュア作りをしていたぐらいだ。筋萎縮性側索硬化症(ALS)の症状が悪化し始めている影響か、時々作業の手順が滞るときがある。


 今はまだ一人でいるときにしか自覚症状はないが、もしこれが病院で処置をしているときだと思うとゾッとする。気づいていないだけで、すでに仕事中も症状が出ているのかもしれない。どんどん自分の体が信じられなくなっている。


 まだ誰にも話していない。正確には話す勇気がない。


 昨日も眠れなくなってネットを見ていた。無意識のうちに、死にたい、疲れた、もう無理だといった、ありとあらゆるネガティブなキーワードを入力しては、ネットの向こう側にいる自分より不幸な人間を必死に見つけようとしていた。


 夏目は自分のやっている愚かさに気がついて愕然とした。なのにその作業はやめられなかった。人の命を助ける仕事をしている医者でさえこのザマだ。

 魔が差したのだろう。吸い寄せられるようにクリックしたバナーにはこんな文言が書かれていた。


「綺麗な消え方はじめました。美しくこの世から消えたい方はこちらをクリック」


 飛び先のサイトには、自殺とは見えないように、綺麗な消え方で殺してくれると書かれていた。しかもただ死ぬのではなく、誰か困っている人を助けるような死に方を演出してくれるらしい。


 本当なのかどうかわからない。どうせ釣りサイトか何かかもしれないと思いながらも、しばらく登録するかどうか悩んでいた。登録が完了すれば、最適な死に方が用意できた時点で連絡がくるという。


 これに登録しておけば、もしかしたらみんなに迷惑をかける前に死ねるかもしれない。一筋の希望が心に灯ったとき、もう夜が明けていた。

 そのまま気絶するように仮眠をとって病院に出勤したが、明らかに睡眠時間は足りていない。さすがに眠気が限界に達しているようだ。


 少しだけ眠ろう。夏目がそう思った時、夢うつつのまどろみを切り裂くサイレンが鳴り響いた。裏口に救急車が入ってくる。夏目は残っていたコーヒーを慌てて流し込むと病棟へ戻っていった。





 心肺停止状態でERに運び込まれてきたのは上田創士というトラック運転手だった。高速道路でカーブを曲がりきれずに防壁に突っ込み、そのまま十メートル下まで落ちたらしい。なんとか運転席からレスキューされ搬送されてきたが手の施しようがない状態だった。


 悪いことが重なる日というのはある。


 今日はいつもより救えない命が多かった。ただでさえ睡眠不足の状態で疲労もピークだというのに、患者が目の前で死ぬとダメージは大きい。勤務時間がさらに長く感じられて疲れがより蓄積されていく。


 いくつもの命がこぼれ落ちてERに静寂が訪れた頃には朝日は昇り、当直の時間は終わっていた。それでもまだ仕事は終わらない。そのまま通常業務を続けてそれが終わったらようやく家に戻れる。


 さすがに今日はぐっすり眠れるかもしれない。そんなことを考えながら夏目がERを出ると、死亡したトラック運転手の父親だという男が怒鳴りちらしていた。

 猪熊一樹が頭を下げてなんとか説得しようとしていたが効果がないようだ。


「創士は人を轢き殺してから、怖くて運転なんかしとらんかったんだぞ。トラックの事故で死ぬわけがあるか! お前ら私がボケ老人だからって、みんなで騙そうとしとるんだろ。金を踏んだくろうとしとるんならそうはいかんぞ。本物の息子に会わせんか」


 いくら状況を説明しても理解してもらえず、堂々めぐりが続いている。対応に困っていると神谷高司がやってきた。見かねた看護師が連絡を取ってくれたようだ。


 近づいてくる神谷に気づいた老人がすがるような目で見ている。

「神谷先生、こいつら私を騙そうとしてるんですよ。助けてください」


 老人の興奮を抑えるように神谷は緩やかな口調で話しかける。

「大丈夫ですよ、上田さん。息子さんのお話はあちらでしましょうか」


 カウンセリングルームがある方へと老人をうながして神谷が歩き出し、猪熊と夏目に目配せをする。

「うちの患者さんです。あとは任せてください」


 ようやく静かになり夏目は長い息を吐いた。猪熊もホッとしているようだ。

 神谷に助け舟を出されたことは気にくわないが、助かったのも事実だ。素直に感謝することにして夏目は休憩室に戻ることにした。


 休憩室には誰もいなかった。夏目はソファーに倒れ込むように座る。目を閉じると今なら眠れそうな気がした。だがやはり神経が興奮しているのか意識は落ちない。


 近くで人の気配がした。頬に何か当たる。

「熱っ」


 目を開けると猪熊がそばに立っていた。缶コーヒーが差し出されている。先ほど頬に感じた熱の正体はそれだったようだ。


「ありがとうございます」

 夏目はコーヒーを受け取ったが熱すぎて一度テーブルの上に置いた。袖を伸ばして缶を掴むと、ようやく普通に持てる。


 じんわりとした熱が手に気持ちいい。プルタブを開けて飲もうとするが、まだ中身は熱いようだ。猫舌の夏目が飲めるようになるまでしばらく時間がかかるかもしれない。


「よっぽど、おねむみたいだな。何回あくびしてんだよ」

「すみません」

「若いからって無理してると、ぽっくり逝くぞ」


 猪熊は豪快に笑う。休憩室の冷蔵庫を開けて中から出してきたのは紙パック入りのイチゴ牛乳だ。見た目に似合わず甘党らしい。


 目の前のソファーに座り、ストローをさしてチビチビ飲んでいる姿は、蜂蜜に夢中になっている熊のようでなんだか微笑ましい。


「なんだ」

「いえなんでも」

 観察していたのがばれて気まずくなった夏目は目線を外した。


「好きなことを仕事にするってなんなんだろな」

 そう言った猪熊の声は低かった。ERで重症患者を処置しているときのようだった。


「人を救いたくて医者になったはずなのに、誰よりも人が死ぬところを見ないといけない。花屋だってそうだ。花が好きな人ほど、数多くの花を捨てる羽目になる」

「そうですね。でもその矛盾に気づくのは、その仕事についたあとなんですけど」

「まったくだ」

 猪熊は小さく笑う。しばらくの沈黙の後、猪熊が言った。


「夏目は自分の担当してる患者が死んだとき、泣いたことあるか」

「もちろん……ありますよ」

「俺も初めて患者を死なせたときは、トイレでこっそり泣いた。次の日になんでもないような顔をしてまた仕事をして。何回か繰り返すうちに、いつの間にか病院にいるときは泣かなくなった。自分の娘が目の前で死んだときもだ」


 夏目は猪熊の目を見た。どこか遠い過去を見ているような目をしていた。猪熊がバツイチだという話は聞いたことがあったが、娘を亡くしていたというのは初耳だった。


「慣れって恐ろしいよな。泣きたくても泣けないんだよ。悲しいのに。病院で泣けなかったことを妻は許してくれなかった。離婚するまでずっとだ。当然だよな。普通の人にはわからない。目の前で人が死んでも大丈夫になるって理解できないのが普通なんだよ。やっぱり壊れてるんだろうな。人として何か」


 医者が人として壊れていないと続けられないというのは夏目自身も心当たりがあった。人が死ぬたびに泣き喚いていたら仕事にならない。正常でいるために自らの感情を壊すのだ。


「うちの娘も、雪音ちゃんと同じ病気だったんだ。ドナーを待ってるうちに症状が悪化して、結局助けられなかった」

「そう……だったんですか」


「うちの病院では雪音ちゃんを救えない。児童養護施設の人にも金はないと泣きつかれた。でも拓海くんが言うんだよ。自分が金を作るから妹を助けてと。医者として、大人として情けなくなったよ」


 猪熊は飲み干した紙パックをゴミ箱になげた。うまく入らず席を立って拾いに行く。

「どうしようもない。でも、そういう運命なんだろうな」


 夏目は運命という言葉を噛みしめる。どうにもならないことというのは、世の中にたくさんある。それを人間は運命だと受け入れるしかない。

 雪音という少女のことも、どうにもならないことなのは確かだった。


 症状の良くない患者が、日本での移植を待ちきれないとなると、海外での移植手術をするために億単位の金が必要になることが多い。児童養護施設がその金を用意するのは不可能だし、彼らが犯罪者の子供ということで寄付金に頼ることも難しい。


 もし万が一用意できたとしても、最近は金にものを言わせて割り込みをするのは倫理的にどうなのだという厳しい意見も出てきて問題視されつつあり、海外の移植すら難しくなっている。二〇〇八年のイスタンブール宣言以降は海外からの移植患者の受け入れを禁止している国も増えて、年々渡航移植費用が高くなっているのが現状だからだ。


 心臓そのものの移植が難しいとなると、現状で残されているのは弱った心臓の筋肉を再生させる細胞シートを移植する方法ぐらいだろうか。


「新しい細胞シートが、条件と期限付きで製造販売の承認が下りてるはずですけど、うちでは扱わないんでしょうか」


 夏目がそう提案するが、猪熊は首を横に振った。

「前に院長に相談したんだがあまり乗り気じゃないらしい。まだ様子を見たいんだろう」


 猪熊は目線を落とし苦い顔をした。夏目は食い下がる。


「小児拡張型心筋症の臨床研究も成功してるみたいですし、今のところは重篤な有害事象は発生してないみたいですが」

「まぁいろいろあるんだよ。日本のお家柄というか、世界一になりたいというくせに、自分が失敗するのは嫌なやつが多いからな」


 猪熊は拾った紙パックを、叩きつけるようにゴミ箱に投げつけた。誰かを思い出したのか、猪熊が心底嫌そうな顔をした。


「それでもまだ細胞シートはマシなほうだよ。七例の治験しかない状態でも申請してから一年以内に承認されてる。再生医療の法改正がなかったらもっと時間がかかってた。それでも誰もが気軽に使えるようになるには、まだ何年かかるかわからないけどな」


「細胞シートが普及して安価になれば、うちでも雪音ちゃんを治療してあげられる可能性があるってことですよね」

「それまで雪音ちゃんの心臓がもつかどうか」

 猪熊は厳しい顔をする。


「でもいつかはきっと……」

「いつかってのは、いつだよ!」

 猪熊が声を荒げる。


「俺たちがいくらそんな気休めを言ったところで、患者に必要なのは今なんだよ。いつかじゃ遅いんだ」


 吐き捨てるようにいった猪熊は、今まで見せたことがないような、悲しみと痛みと後悔とない交ぜにした表情をしていた。


 この人はどれだけつらい思いをしてきたのだろう。倍近くの人生を送ってきた先輩の苦しみを理解するには、夏目はまだ若すぎたのかもしれない。


「最近思うんだ。なんで俺たちばっかり、こんなに人が死ぬのを見ないといけないんだろうって。人間ができることなんかたかが知れてるのに。無力だなって思い知るために、俺はこんな仕事をしたかったわけじゃない」


 何かを言わなくてはと、慌てて立ち上がり必死に言葉を発する。

「先輩は多くの命を救ってます。無力なんかじゃないです」


 夏目はテーブルを蹴飛ばしてコーヒーをぶちまけた。それを見た猪熊は噴出すように笑った。


「すまん。未来ある研修医に言う言葉じゃなかったな。ちゃんと掃除しとけよ。じゃあ、お先」


 そういった猪熊は、いつものように頼もしい先輩としての笑顔を見せて出て行った。


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