第3話 12月21日 桜木南マンション・夏目波流


 綺麗な消え方はじめましたへようこそ。

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  イニシャル = N・H

  年齢    = 25歳

 N・H様 ご登録ありがとうございます。


 希望日があればご記入ください。

  ▼とくになし

   十二月を希望します

   十二月二十一日を希望します


 最後に『はい』を選ぶと契約終了です。

 スケジュールが決定した時点で

 メッセージをお送りします。

 本当に綺麗な消え方を望まれますか?

  ▼はい

   いいえ





 最後の質問で『はい』という項目を選ぼうとした瞬間、スマートフォンのバイブ音が鳴り、夏目波流は心臓が止まりそうになるほど驚いた。慌てて電話に出る。


「波流、えっとぶりやないで。元気にしとるんけ」

 義母からの電話だった。夏目が最後に電話をしたのは半年前だ。


「うん。まぁ……普通」

「なんや、しんだい声出してからに」


 『しんだい』というのは疲れているという意味の方言だ。たった一言二言を答えただけで体調を見抜かれてしまうのは、義理とはいえ母親の持っている能力のなせる技なのだろうか。


 夏目は布団から体を起こして目をこする。

 なかなか眠れないまま、ずっとスマートフォンのサイトを見ていたせいか頭が回っていない。時計を見ると時刻は朝の六時をすぎていた。


「寝てたんだよ」

「ほれはすまんやったねぇ。ほなけんど寝起きの悪い波流にしては、えらいはよう出たな。夜更かしでもしとったんやないんけ」


 電話の向こうで義母が笑っているのが聞こえる。どうやらとっさについた嘘はバレていたようだ。うっかりテレビ電話モードで出てしまったのではないかと確認してみるが、そんなことはなかった。ただの母親の勘というやつらしい。


 義母の訛りにつられて、夏目も故郷のイントネーションになる。

「こんな朝はように電話してくるほうが悪いんやないの」


「ほんなん夜に電話して、彼女とイチャイチャしよったら悪いでないで」

 夏目の大学時代に、クリスマスの夜に義母からの電話を慌てて切った後、折り返すのをうっかり忘れていたときのことを未だに根に持っているようである。

「やけん、ほれは、ゲームのラスボスを倒してただけやって何回も言うとるじゃろ」


 いくら真実を説明しても信じてもらえない。やってないことを証明するのは、悪魔の証明並みに難しい。


 それ以来、義母は必ず朝に電話をしてくるという地味な嫌がらせを楽しみにしているようだが、いくら改善を求めても受け入れてもらえないので、夏目はもう完全に諦めていた。


 カーテンを開ける。外はいい天気だった。眩しさに眼を細める。


「ほうや、みかん甘いのあるけん今度送ろうか?」

「ええよ。また箱ごと送られても食べきれん」


 箱の一番下になっていたミカンにびっしりカビが生えた時のことを思い出して、夏目は嫌な顔をする。


「一人で食べようとするけん腐らせるんじゃろ。近所の人に配ればええのに」

「ここは田舎やないけん、ほんな近所付き合いとかせんよ。ほれに東京にもみかんぐらい売っとるし。欲しかったら自分で買うけん」

「ちょーっと都会に住んだぐらいで偉そうに」

「偉そうにとかしとらんし」


 夏目は苦笑する。義母は自分が生まれた街以外で生活をしたことがないらしい。それを少しだけコンプレックスに思っているようだ。こちらにそんなつもりはなくても自慢に聞こえるのかもしれない。その思考回路がなんだか牧歌的で微笑ましい。


「ちゃんと食べとるんけ。どうせまたいらんもん買うて、食費削って腹空かせとるんやないんね」


 十五年も母親代わりをしているだけある。さすがに鋭い。


「ちゃんと食べてるよ……大丈夫だよ。ガキじゃないんだから」

 夏目はとっさに嘘をついた。言葉尻の声が揺らぐ。


「波流は嘘つくのが下手やねぇ。声が裏返っとるし、急に標準語になっとるよ」

 あっさり嘘はばれてしまったようだ。


「お金がきついんやったら、無理にお金送らんでええけんな」

「ちゃんと払うし。医大に行くときに、自分で決めたことやけん」


 電話の向こうで義母が笑ったようだ。

「ほうけ。なら好きにしたらええ。がいなところはあんたの父さんにそっくりやね」


 『がい』というのは我が強いとか根性があるとかいう意味だ。このフレーズは小さい頃からよく義母には言われていた。夏目が覚えている父も、確かにこうだと決めたことは譲らない頑固なところがあったかもしれない。


 夏目の父は地元の大学病院で医者をしていた。あまり裕福ではなかった両親が必死に払ってくれた奨学金や授業料を、父は仕事をし始めてからこつこつと返したらしい。それを知った夏目は自分もできるだけ同じようにしようと義理の両親にお金を送り続けている。


「ほなけど波流はお医者さんになったんやけん、患者さんの前で倒れたら様にならんで。体にきぃつけなあかんよ」

「わかっとるけん。義母さんもきぃつけてな。義父さんにもよろしく言うといて。ほなな」


 夏目は電話を切ってスマートフォンをじっと見る。なんでこんなタイミングでかけてくるんだろうとため息をついた。


 夏目の実の父と母はもうこの世にはいない。夏目が十歳のときに交通事故で亡くなった。一人になった夏目を育ててくれたのが今の両親だ。子供のいなかった姉夫婦が引き取ってくれたのだ。


 本当の子供でもないのに医大にまで行かせてくれた。そんな義理の両親にさらに病気になったから世話をしろとは、とてもじゃないが言えない。


 さきほどまで見ていた『綺麗な消え方はじめました』のサイトを確認する。まだ最後の登録はしていない。登録をしてしまったら後戻りはできないかもしれない。そう思うとなかなか踏ん切りがつかなかった。


 自分で死ぬ勇気すらないくせに、誰かに綺麗に殺してもらおうとするなんて都合が良すぎるのではないかと思うと決心が揺らぐ。結局答えが出ないままだった。


 夏目はバスルームに向かうと、服を脱ぎシャワーを浴びる。ガチガチの体がお湯の温かさで少しずつほぐされていく。


 もしかしたら、良からぬことを考えていることも、義母にはすべて見透かされているのかもしれない。だが相談する勇気はない。自分のことを心配してくれる人だからこそ言いたくないこともある。親不孝だとわかっている。


 これからいつ終わるかわからない面倒ごとを押し付けるぐらいなら、自分から終わりにするほうが親孝行なのではないのかと考えていた。だが、それが正しいのかどうか夏目にはわからなくなっていた。


 人の声が持っている情報は、本人が思っているより体に影響を与えるのかもしれない。頭で考えるよりも体が先に反応する。懐かしさ、優しさ、厳しさ、温かさ、言葉にならない感情が同時に流れ込んでくる。すべてを話してしまいたいという思いと、黙ったまま消えたほうがいいという思いで揺らいでいた。


 夏目は濡れた体をバスタオルで拭きながら部屋に戻り、テレビをつける。四角い枠の向こう側は今日も楽しそうだ。美味しそうな料理をタレントが食べて笑っている。


 チャンネルを変えるとニュース番組が流れていた。トラック運転手の事故についての特集だ。被害者は、うちの病院に運ばれて亡くなった上田創士という男性だった。


 いつものように亡くなった人にはプライバシーなどどこにもないかのような報道がされている。顔写真、名前、年齢、卒業文集、ありとあらゆる情報が垂れ流されていく。


 上田の父親が主張していたように、過去に人身事故を起こしてトラック運転手の仕事はやめていたようだが、最近になって以前と同じ系列の運送会社で働き始めた矢先の事故だったらしい。


 警察の調べで、事故を起こす前の勤務時間が十六時間に及んでいたことが発覚したようだ。明らかな超過労働だ。積荷も重量オーバーで、事前に交わされた取引内容と異なる産業廃棄物が積まれていたことも明らかになり運送会社への追求が厳しくなっていた。


 さらに上田が事故直前にネットにアップしたと思われる写真から、ほかの契約社員も超過労働をさせられている証拠が発見されたことや、シフトを断った場合は上司が殴る蹴るといった暴行をしている動画まで公開されたことでネットで炎上。ブラック企業の闇を暴くための格好の材料として報道が過熱しているらしい。


 前に上田が事故を起こしたときは、決定的な証拠を提示できなかったせいで、日常的に超過労働を強要されていたという事実は隠蔽され、全責任を運転手に丸投げされて終わりだった。それがようやく死んでから企業側の不正が認められたということのようだ。


 事故で亡くなったのは無念だろうが、自分を切り捨てた会社に一矢報いたという意味では、少しは報われたのだろうか。


 どちらかというと綺麗な消え方になるのかもしれない。なぜだかわからないが、夏目はふとそんなことを思った。もちろん上田創士という人間が夏目と同じように死にたいと思っていたかどうかは知らない。そんな気がしただけだった。


 あの認知症をわずらっている父親はどうなるのだろう。企業から賠償金をもらえるかもしれないが、息子の命と引き換えにお金をもらって嬉しい親などいるのだろうか。


 親の気持ちは自分が親になったときにようやくわかると言われているが、きっと夏目はその気持ちを知るチャンスはないのだろうなと漠然と思っていた。


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