第4話 12月22日 桜木南病院・夏目波流

 夏目波流はERが少し落ち着いたタイミングを見計らって、小児病棟へ向かった。手術を終えた有村勇太の様子を少し見ておこうと思ったからだ。


 だが病室にいる勇太は眠っていた。疲れているのだろう。起こすのは忍びない。また出直した方がいいかもしれない。


 枕元には、夏目が渡した小さなフィギュアが転がっていた。どうやら捨てられずにすんだようだ。夏目は少しだけホッとしたように胸をなでおろす。


 ふとベッドサイドに吊るされた千羽鶴を見るとなんだか妙だった。鶴が足りていない部分がある。虹色に並んでいるはずなのに赤い色の折り鶴だけ、あとから取り除かれたようになっていた。手術前にお見舞いに来た時はすべての色が揃っていたはずだ。わざわざ赤色の折り鶴だけ抜き取るなんてことをするだろうか。よくわからない。


 不思議に思いながら夏目が病室を出る。廊下に森野こころが立っていた。

「ちょうどよかった」

「え?」


 ずしりと重みのある巾着袋を渡された。

「どうせ明日まで、一日一食のつもりだったんでしょ? ちゃんと食べないと」


 袋の中を見ると、二段重ねの弁当箱が入っていた。

「晩御飯の余り物だから。気にしないでいいから」


「いや、悪いですそんな」

 夏目は必死に返そうとするが森野は受け取らない。


「研修医のエースに倒れられると私たち看護師も迷惑するんですよ。だからみんなのためだと思って食べなさいね」

 森野はにっこりと笑う。


「勇太くんね、手術前にあのフィギュアのことじっと見てたよ。勇気をくれるお守りみたいに思ってたのかもしれないね」

「お守り……に」

「ちゃんと伝わってたでしょ。だからそのお礼も兼ねてるから、ちゃんと食べてね」


 夏目の心に小さな光が灯った気がした。森野といるといつもそうだ。欲しいと思っている言葉をくれる。大事な言葉が心にしみる。

「ありがとう……ございます」


 小さく手を振って仕事に戻る森野を見ながら、夏目は自分のほっぺたを叩いてみた。ちゃんと感触はある。どうやら夢ではないようだ。裏庭を目指して歩き出すが、やけに足元がふわふわしている。


 きっと脳の中でドーパミンが大量に撒き散らされているにちがいない。夢心地というのはこういうことをいうのだろう。うっかりスキップでもしてしまいそうな浮ついた足取りで裏庭にたどり着いた。


 いつものベンチに座って弁当箱を開ける。卵焼き、筑前煮、ほうれん草の煮浸し、シャケの切り身、豚の生姜焼き、プチトマト、ブロッコリーと彩りも鮮やかで、残り物というにはあまりに手が込んでいた。


 夏目は手を合わせて心の中で感謝しつつ弁当に箸をつける。もしかしたらいつものように味がしなかったらどうしよう。せっかく作ってもらったのに申し訳ない。少しだけ不安に襲われながら卵焼きを口に含んだ。


 なぜだかわからないが泣けてきた。ちゃんと味がわかるだけでもありがたいのに、こんなにも美味しいなんて卑怯だ。夢中でほかのおかずやご飯を次から次へと口に入れる。


 自分はまだ生きている。

 頭ではいくら死にたいと思っていても、体はこんなにもまだ生きようとしているのだと夏目は感じていた。





 良いことがあった後は、必ず何か嫌なことが起こる。


 自分に都合の悪いことが起こるたびに、そう言う知り合いがいた。夏目波流は迷信やジンクスはあまり信じないほうだが、今日のようなことが起こると本当なのかもしれないと思いたくもなる。


 夕方になって忙しさがひと段落したタイミングで夏目が小児病棟へ向かうと、ナースステーションで作業をしている森野こころの姿を見つけた。洗った弁当箱を手渡そうとした時、彼女からアロマの匂いがした。神谷高司と同じ匂いだ。


 仕事でたまたま一緒にいただけかもしれない。だがそう納得させるには少し匂いが強すぎる。少し仕事の話をしたぐらいでそんなに匂いが移るわけがない。つまりそういうことなのだろうか。


 夏目はつい数時間前に森野から弁当を受け取って、幸福感に包まれ舞い上がっていた自分が恥ずかしかった。


「苦手なものとかなかった?」

「いえ、あの……ぜんぶ美味しかったです」

「よかった」


 森野は笑っている。その笑顔が誰にでも同じように向けられているということに気づくべきだった。きっと彼女にとってはお腹を空かせている野良猫に餌をやるような気持ちだったのかもしれない。


「ありがとうございました」

 夏目は廊下を歩き出した。


 わかっていた。最初からわかっていたはずだった。なのに一度知ってしまった喜びが大きいほど、それを失った時の反動も大きい。


 知らなければこんなに苦しくなかったのに。知ってしまったものは仕方ない。

 ずっと手に入らないものを悔やみながら生きていかなければならない。だがそれもいずれ身も心もおかしくなれば気にならなくなるのだろうか。





 夏目は有村勇太のいる病室を覗くと、ベッドで横になっている勇太の姿を見つけた。ベッドサイドに飾られていた千羽鶴がなくなっている。


「手術無事に終わって、よかったな」

「良くないよ」


「リハビリは大変だけど、きっちり頑張れば三学期には学校に戻れるんだぞ」

「戻りたくない」

「どうした。前はあんなに早く学校に行きたいって……」


 勇太はスマートフォンでゲームをしているのか、ずっと画面を見たままだ。

「夏目先生ってさ、森野って看護師のことが好きなの?」

「な、なにを」

「先生、知らないの? 誰にでも優しいやつは嘘つきだってこと」


 森野から神谷と同じ匂いがしたことを思い出していた。わざわざ嘘をつかれるほどの間柄でもない。こちらが勝手に勘違いしただけだ。


「森野さんは……嘘つきじゃないよ」

「僕と一緒だよ。いっつも学校でニコニコしてたけど、みんなに嫌われたくなかっただけだもん」


「そんなことないだろ」

「そんなことあるよ。でも意味ないってわかったから、もうやめたんだ。いい子ぶりっ子するの」


 ふてくされたような表情で、勇太はちらりと夏目を見た。

「どうせ先生が僕にフィギュアくれたのだって、点数稼ぎのためでしょ。子供に優しいってアピールするために」


「……そう思いたいならそれでもいいよ。別に僕が勝手に作りたかっただけだから。でも勇太が少しでも喜んでくれたらいいなと思いながら作ってたのは本当だから」


 勇太は返事もせず、じっとスマートフォンのゲーム画面を眺めている。


「そんなにそのゲーム面白いのか」

「U・S、K・E……選んだ愚者が本当に死んじゃったみたいでさ。僕、もしかしたら死神なのかな」

「死神って」


 勇太は布団をかぶってしまった。それ以上はもう話を続けるつもりはないようだ。

 仕方なく夏目は部屋を出て行った。


 初めて会った頃の勇太は、こんなひねくれた言い方をする少年ではなかった。手術前ぐらいから急に変わってしまったような気がする。


 U・S、K・E、選んだ愚者、死神という言葉も気になる。千羽鶴のことといい、何かあったのだろうか。

 勇太を心配しつつも、夏目は廊下を歩き出した。





 夏目波流がロビーの前を通りかかると宇月拓海が叫んでいた。

「お前だろ、雪音に全部教えたの」


「なんの話」

 看護師の尾崎玲華が訝しがるように拓海を見下ろしている。


「とぼけるな。お前しかいないだろ」

「知らないって言ってるでしょ」


 立ち去ろうとする尾崎を追いかけて、拓海が立ちふさがる。

「お前のせいで……雪音がもう手術受けたくないって言い出したんだぞ」


 手に持っていたスケッチブックで殴りかかろうとしていた拓海の手を夏目が掴む。

「なにやってんだ」


 拓海は怒りと悲しみがないまぜになったような表情で夏目を見た。

「こいつが雪音に……父さんが母さんを殺したって」

「だから、なんのこと。言いがかりはやめて欲しいんだけど」


「嘘ばっかりつきやがって。お前らみたいな大人なんて大っ嫌いだ」

 拓海が夏目の手を振り払って走り去る。拓海の姿はすぐに見えなくなった。


「腹いせに子供に仕返しですか」

 夏目が尾崎を見ると睨み返された。


「尾崎さんはなんのために看護師になったんですか。人を助けるためになったんじゃないんですか」


 夏目は一瞬なにがあったのかわからなかった。後からじわりと頬に痛みを感じる。ビンタされたのだとやっと気づいた。


「何も知らないくせに」

 尾崎は夏目を睨みつけてから立ち去った。


「えらいとばっちりだな」

 コンビニの袋を手にした猪熊一樹がやれやれという表情で見ている。休憩で外から戻って来たときに、この騒ぎに気づいたのだろう。


「さぼってないで、とっとと仕事に戻れってことだ。行くぞ」

 ERに向かう猪熊の後を追って、夏目も歩き出す。


「夏目は揉め事に首を突っ込みすぎなんだよ」

「突っ込みたくて突っ込んでるんじゃないです」


 夏目は猪熊に追いついて、肩を並べるように通路を歩く。

「だから心配なんだよ」


 猪熊が夏目の背中を思いっきり叩いた。

「いってぇーっ」

「いつまでも心配してくれる人間がいると思うな。どんなに元気な奴でも、ある日突然いなくなることもあるんだから」


 そう言った猪熊のかすれた声を聞いて、夏目は少しだけ不安に駆られた。いつも若々しく元気な猪熊が急に年老いて見えたからだ。気にしすぎかもしれない。そう思い直して夏目は猪熊の後を追った。





 ERでの仕事を終えて夏目波流は家に帰る準備をしていた。今日は当直はない。明日はオンコールもなしで完全なオフだ。久しぶりにゆっくりできるかもしれないと思っていた時に、猪熊に呼び止められた。


「夏目、お前に内線」


 猪熊がうっすらと笑いを浮かべている。怪訝に思いながら電話に出ると相手は森野こころだった。電話越しの声を聞くのは初めてかもしれない。なんだか耳がこそばゆい。


「拓海くん、そちらに行ってない?」

「いえ。一度ロビーで見かけましたけど。その後は見てません」

「そっか。桜木南こども学園から連絡があって、まだ戻ってきてないみたいなんだ」


 ロビーで尾崎玲華と揉めてから、宇月拓海はそのまま施設には戻らなかったということなのだろうか。


「ちょうど帰るところなんで、少し近所を探してみます」

「助かる。じゃあ私もこれから探すから、もし見つかったら連絡してくれる? 番号教えるから」


 夏目は慌ててメモを取ってから電話を切る。コートを着ているといつの間にか背後に立っていた猪熊がメモを覗き込んでいた。

「なんだ、デートか?」


 夏目はメモをコートのポケットにしまう。

「違います。拓海くんが施設に戻ってないらしいんです。ちょっと探してきます」


「お前はまたそうやって……」

 猪熊は困ったような顔をしている。


「雪音ちゃんも心配してるかもしれませんから、いってきます」

 夏目はERを出て行った。



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