第24話 12月23日 桜木南病院・神谷高司

 神谷高司がカウンセリングルームの前に戻ってくると、扉の前に猪熊一樹が立っていた。ダウンジャケットを着ているとガタイの良さが強調される。猪熊に本気のタックルをされたら肋骨ぐらいは簡単に折れそうだなと想像した神谷は、小さな笑みを浮かべる。


「珍しいですね。せっかくの休みなんだから、どこか遊びにいけばいいのに」

「神谷みたいに合コン行く暇も気力もないんだよ」

「よく言いますよ。こっちが誘ってもこないくせに。そういえばこの前、椎名さんと親しげに話してましたが、もしかして彼女を狙ってるんですか。それともまだ奥さんのことが忘れられないとか」


 猪熊は気まずそうに苦笑する。


「……そういうんじゃないよ。別にもう恋だの愛だの面倒臭いだけだ。俺も年だしな。もうすぐ四十六だ」

「何言ってるんですか。男の四十代なんて一番女性を口説きやすいタイミングですよ。黙っているだけで若者にはない落ち着きがあるとか、同年代なら誰でも知ってるようなありふれた話をするだけでもさすがとか、若い女性は勝手に勘違いしてくれますからね」

「それはお前みたいなイケメンだけだろ。一緒にすんなよ」


 猪熊は自分がまるでブサイクのような物言いをよくするが、今風の顔ではないだけで、どちらかというと昔ながらの無骨な男前タイプだ。


 きっと老人ホームに連れて行けば、何人かは昭和の銀幕スターだと勘違いしてくれるかもしれない。複数の老婆に言い寄られて戸惑っている猪熊を想像して神谷は苦笑する。


「で、なにか用があったんじゃないですか」

「いや、なんでもない。邪魔したな」


 猪熊は立ち去ろうとしたが足を止めて、神谷を見た。


「次もし研修で行くことがあったら、夏目のことを頼むよ。あいつ不器用だけど根はいいやつだからさ」

 そう言い残すと猪熊は背中ごしに手を振って去っていった。


 どうやら猪熊は気づいているようだ。研修医の夏目波流が危うい人間であることに。きっと猪熊自身と同じ匂いがするのだろう。二人とも真面目で正義感に溢れたまっすぐなタイプだ。医者に向いている性格だからこそ、折れた時の反動は大きく脆い。


 黒風が公開しているリストに猪熊らしき人物が登録されていることに神谷は以前から気づいていた。まだ準備段階で日付までは決まっていないようだ。


 一人娘の命を救えず、妻にも離婚されるという最悪な状態を一度は乗り越えたはずだが、結局ダメだったようだ。


 あの様子なら決意をするのは時間の問題だろう。猪熊は夏目の心配をするより自分の心配をすべきだが、それをしないのが猪熊という人間なのかもしれない。




 神谷がカウンセリングルームに入ると、椎名りさがいた。熱帯魚に餌をやっている。


「おや。こんな時間に珍しい。今日は約束してなかったはずですが。先日の罪滅ぼしのつもりですか?」

「……えぇ、まぁそんなところです」


 椎名は困ったような顔で小さく笑った。餌を入れすぎたせいか、熱帯魚が食べきれなかった餌の残骸が浮いている。

 神谷は指で唇をなぞりながら言った。


「でもまだまだ勉強不足みたいですね。餌は与え過ぎてもダメなんですよ」

 神谷は背後から椎名の腰に手を回す。耳元で囁くように声を掛けた。

「この前の続きは、ここでしますか?」

「そう……ですね」


 椎名の体を引き寄せて首筋にキスをしながら、神谷は机の上に手を置く。電源が切られていたはずのデスクトップPCから微かに熱を感じる。マウスの位置も違っているようだ。神谷と猪熊の話し声を聞いて、慌てて電源を切ったのだろう。


 椎名の腕を掴んで体を振り向かせると、じっと椎名の目を覗き込むようにして神谷は尋ねる。

「本当の仕事はなんですか」


 椎名の体が一瞬こわばった。神谷は笑みを浮かべる。まだ若いせいか訓練が行き届いていないのだろう。これが黒風の用意したハニートラップだとしたらあまりにお粗末だ。別の筋だろうか。


「何のことですか。キャバクラの源氏名とか持ってませんよ」


 わざとらしくはぐらかした椎名は笑みを浮かべている。唇は少し引きつっているが、挑戦的な瞳はなかなか魅力的だった。


 相手が何者かわからない以上、あまり深入りするわけにもいかないが、騙されてみるのも悪くはない。すでに堕ちきっている人間に怖いものなどなにもない。

「ただのジョークですよ」


 内線電話が鳴る。尾崎玲華からだった。


「椎名さんなら、こちらに来てますよ。わかりました。すぐに戻るように伝えておきます」


 電話を切ると神谷は笑った。

「続きはまた今度にしましょう。きちんと伝言を伝えなかったと尾崎さんに叱られるといけませんから」


 ほっとしたような、それでいて少しだけ残念そうな表情をした椎名は、服装を整えながらこう言った。

「尾崎さんには気をつけて下さい」


 椎名の声のトーンは低かった。ほかの女に嫉妬してという感じではない。どちらかというと身の危険を案じているようなシリアスな声だった。


「大丈夫ですよ。彼女とはもう半年前に切れてますから」

 神谷が軽い調子で答えてみたが、椎名の目は真剣だった。


「彼女は先生が思っているより危険です」

「……わかりました。気をつけておきますよ」


 椎名は小さく微笑んだ後、部屋を出て行った。探りに来た相手にアドバイスをするという行為が理解不能だが、しばらく用心するに越したことはないだろう。




 綺麗な消え方はじめましたへようこそ。

 ゆうた様。

 本日のリストが更新されました。

 どの愚者に綺麗な消え方を与えるべきかお選びください。

  ▼I・K 45歳

 本当にこの愚者でかまいませんか?

  ▼はい

   いいえ

 では、与えるべき裁きをお選びください。

  ▼飲料水の毒物混入で死亡

   (不衛生な工場の暴露に貢献)

 本当にこの綺麗な消え方でかまいませんか?

  ▼はい

   いいえ



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