第23話 12月22日 桜木南病院・神谷高司

 連絡通路の窓際から下をずっと見ている看護師がいることに神谷高司は気がついた。同じ場所を見下ろすと、裏庭のベンチで夏目波流が弁当を食べているのが見える。


「いくら誘っても断られると思ったら、やっぱり君はあの研修医みたいなやつが好みだったんですね」


 その声にビクリと肩を揺らした森野こころは、慌てて会釈をしてその場を立ち去ろうとした。


「惹かれるのはわかりますよ。真逆ですから。でも彼はやめといたほうがいいと思います。きっと君を傷つけるタイプだ」


 神谷は森野の後をつけるように歩き出す。

「君って誰からも好かれてますが、誰のことも本気で好きじゃありませんよね。親にきちんと愛されたことがないからですか」


 森野は足を止めて神谷を見た。図星だったようだ。


「僕みたいな男といるほうが建設的だと思いますけどね。僕なら君の気持ちがわかりますから」


 神谷は指で唇をなぞりながら森野に近づき、心の奥を覗き込むように目をじっと見た。困惑しているが拒絶の反応はない。

「どうですか、今夜あたり一緒にディナーでも」


 腰に手を回して抱き寄せた瞬間、森野の視線が右へと流れた。

「あのすみません。夜勤があるので失礼します」 


 森野は会釈をして早足に神谷から離れていった。神谷が振り返るとそこには尾崎玲華が立っていた。なかなか最悪なタイミングだ。そういえば昔からこういう女だった。いつも間が悪い。もともと相性が良くなかったのかもしれない。


「あの子が私の代わりですか。何代目かは知りませんけど」

 尾崎は神谷を睨みつけている。


「これから口説く予定だったんですけどね。君に邪魔されたんですよ」 

「じゃあ本日のディナーは私がお相手してあげましょうか」


 神谷は苦笑する。


「おかしいな。君とは半年前に別れたはずですが」

「同僚として食事するぐらい普通じゃありませんか」

「君の場合は、ただの食事だけですまないですからね。それなりの店じゃないとあとで文句を言うでしょう? 刺身や寿司みたいな生物はダメだとか注文も多いですし。それに一度別れた女性に大金を払えるほど僕は心が広くないんでね。ドブに金を捨てる方がマシです。しがらみがない分ね」

「相変わらず酷い男ですね。でもガッカリですよ。あんないかにもな女を口説くなんて」


 余裕なふりをしているようだが口元が少し引きつっている。本当に良い女はこの程度の言葉では怯まない。自分に確固たる自信があるからだ。多少酷い扱いを受けようがビクともしない。


 それに比べると尾崎のような紛い物は簡単に壊れる。無駄に分厚いくせに脆いプライドが多少は傷ついているのだろうか。


「いくらでもガッカリしていただいて結構ですよ。そもそも有名人の弟じゃなくなった途端に、僕との関係を拒むようになったのは君の方じゃないですか」

「違う、あれは誤解で……私は」


 今にして思えばなぜこんな女と付き合っていたのだろうと考えながら、神谷は尾崎を眺めていた。連れて歩くには見栄えがいいだけで、性格も頭も悪い。しいて言うならマシだったのは体の相性ぐらいか。それさえも半年前に急に拒まれることが何度か続いたこともあり、どうでもよくなったという記憶しかない。新しい男でもできたのだろう。追求することすら馬鹿らしく、そのまま別れることにしたのだ。


 ただの因果応報というやつだ。人をぞんざいに扱うものは、同じようにぞんざいに扱われるだけだ。


「もうそろそろ仕事に戻った方がいいんじゃないですか。あまり油を売ってると婦長さんに怒られますよ」

「いつもさぼっているあなたに言われたくないですけど」

「そういえば最近、君が管理をするようになってから薬品の誤発注が増えたと婦長さんがこぼしてましたね。よからぬことを考えているのなら、もう少し上手にやったほうがいいですよ」


 何も言い返せずにいる尾崎を残して、神谷は歩き出す。

 釣った魚に餌をやらない男が責められるのは理解できるが、リリースした魚に餌をやらなかったからと怒られるのは意味がわからない。自分で海に戻ったのだから、自分で餌をとるべきだ。


 以前、研修医の夏目に看護師とは仲良くすべきだとアドバイスをしたことがあるが、あの言葉は正しくない。仲良くすべき看護師とそうではない看護師がいるというのが正式なアドバイスだ。少なくとも男をATMかアクセサリーのようなものと考えている尾崎のような女とは、遊びならいいが本気で仲良くすべきではない。もちろん夏目のような男はそんなことは教えなくてもわかっていることだろう。




 神谷が待合室の前を通りかかると、テレビでは新築マンションの建設現場で起きた事故のニュースが流れていた。資材の下敷きになって亡くなったのは久城詠子という女性だった。


 桜木南こども学園の関係者だということは、今のところはあえて伏せられているようだ。建築会社の不正がある程度あばかれてネタがなくなった頃合いを見て、今度はお涙頂戴の取材をするという方針なのだろう。組織の段取りにしたがって進んでいるようだ。


 ニュースが終わると事故を起こした会社と競合する建築会社クラルテのCMが流れている。創業してまだ数年にもかかわらず、主に公共事業の受注で業績を伸ばしてきた会社だ。国内最大級の桜木南ショッピングモールの工事を請け負ったのもこのクラルテらしい。


 今回の事故はこの会社の依頼によるものだった。業界大手のライバル社から住宅部門のシェアを奪いたいという目論見があったようだ。


 不正データを見つけたのは内部の人間だが、普通に内部告発するよりも事故をきっかけに発覚するほうがそのダメージは破壊力を増す。人が死んだとなれば隠蔽するわけにもいかない。


 普通に戦うより、相手にダメージを与えておいてから叩き落とすほうが効果は大きい。相手が落ちることがわかっていれば、大きくえぐれた部分に侵略者が自分の利権をねじ込むこともたやすくなるからだ。瀬山からの報告によれば、ほとんど決まっていた大型コンペが今回の事件のおかげで綺麗にひっくり返ったらしい。


 上田創士が起こしたトラック事故も同じように裏で莫大な金が動いている。コルテーゼという運送会社が広告費名義で支払った金額は、ライバル社の不祥事に乗じて掠め取った利益で十分に元が取れたようだ。今後のことを考えれば大幅なプラスだ。


 外から観測している人間には、それぞれの事件や事故はただの不祥事にしか見えないだろう。黒風に目をつけられた企業は一夜にして転落する。どうして落ちたのかもわからないうちに。


 これから世界を動かすのは国でも企業でもない。ごく限られた選ばれし人間だ。組織の都合の良いように、金儲けのためだけに世界がおもちゃにされるのだ。


 こんなことがいつまで続けられるのかはわからない。なにもかもが茶番だとわかっている。だがすべては計画通りだ。始まってしまったものは止められない。この地獄から逃れるすべもない。ならば楽しんだ方が少しはマシだ。





 エレベーターという密室は、どうしてこうも魅惑的なのだろうか。神谷高司は自然に笑みを浮かべていた。


 逃げ場のない狭い空間。誰かに見られるかもしれない緊張感。数秒間という短いタイムリミット。すべてのお膳立てが男女の仲を濃密にする。神谷はわざと耳元で囁くように声を掛けた。


「ネオンテトラとベタは同じ水槽に入れたらダメですよ。喧嘩しちゃいますから」

「すみません。よく知らなくて」


 そう答えた椎名りさの耳が少し赤みを帯びているように見えた。好意を持たれているのはわかっていた。だから神谷もわざと同じエレベーターに乗ったのだ。相手が期待しているのなら答えるのが筋というものだろう。神谷は指で唇をなぞりながら言った。


「今回はこれでチャラにしてあげますよ」


 椎名を壁際に囲いこむようにして唇を重ねようとした。だがその瞬間に扉が開く。椎名が慌てた様子で腕の間からするりと逃げると、そのままエレベーターを出て行った。


 到着した階に目を向けると、待っていたのは研修医の夏目波流と看護師の尾崎玲華だった。二人とも厳しい表情で神谷を睨んでいる。


 尾崎は目をそらすと、エレベーターには乗らずに立ち去った。捨てたはずの男が目の前で別の女といちゃつくのは許せないという意思表示のつもりだろうか。


「乗らないんですか」

 悪びれる様子もなく神谷がそう言うと、夏目は無言で乗り込みボタンを押した。エレベーターが動きだす。夏目が質問してきた。


「現在進行形は三人なんですか」

「今は二人かな」

「数が合いませんね。尾崎さんと付き合ってるんじゃなかったんですか」

「尾崎さんとは半年前に終わりましたよ。そんなに気になるなら、もう一人が誰だか教えてあげましょうか」

「結構です」


 仏頂面をしてやり過ごそうとしている夏目の横顔を神谷はじっと観察していた。「お前のような男が一番嫌いだ」という拒絶のオーラが全身から漏れている。誰か一人を愛することが正しいと信じきっている若さゆえの潔癖さは、森野こころにとっても魅力的に映ることだろう。


 それほどまでに純粋に人を好きになれたのは、いつまでだろう。すぐには思い出せないぐらい、幼く淡い記憶しかない。


 森野のように、誰にでも優しいのは誰にも優しくないのと同じだ。

 だからこそ、潔癖なまでに誰か一人だけを特別だと感じて、その一人だけを愛することができる人間が羨ましいはずだ。自分には難しいとわかっているからこそ、無意識のうちに嫉ましく感じている部分もあるかもしれない。


 だが、神谷自身はそんな葛藤すら感じなくなっていた。誰かの獲物を横取りすることに慣れすぎて、感覚が麻痺しているのだろう。まだ汚れていない純粋な若者に、少し意地悪をしたくなったのはそのせいかもしれない。


「森野さんが本命ですよ」


 思いもかけない角度から飛んできた神谷の言葉に夏目は怯んだようだ。まばたきが早くなった。聞いた言葉を必死に脳で処理しようとしているのかもしれない。


 もしかしたら夏目自身も薄々は気づいていたのだろう。男というのは不思議なもので、どれほど鈍感な男でも同じ女を狙っている男の存在だけは敏感に感じ取るものだからだ。


 きっと最初に三人と質問した時点で、森野は勘定に入れてあったのだろう。そうかもしれないと思いながら、そうであってほしくなかったという表情が見て取れる。わかっていて質問するとは、夏目は案外マゾなのかもしれない。


「そんなこと言っても大丈夫ですか。もし僕が森野さんに、今見たことを伝えたらどうするんですか」

「君は言わないよ。絶対に。真面目だから」


 神谷は笑っている。夏目の気持ちを知っていて楽しんでいたのかもしれない。わかった上でいたぶっているのだ。性根が悪いなと思いつつも、相手が斬り込んできたから斬り返しただけだと自分を正当化する。


 神谷は人の心を掌握することを専門にしている人間だ。夏目は興味にかられて話しかけるべきではなかった。ひよっこの研修医が敵う相手ではないということを少しは夏目も学習したことだろう。


 目的の階に到着してエレベーターの扉が開く。夏目は軽く会釈をすると出ていった。やや前傾姿勢で歩幅は広い。少し乱暴に足を振り下ろす歩き方で苛立っているのがよくわかる。まだまだ若いなと思いながら、神谷は後輩の姿を微笑ましく見送った。





 桜木南病院のカウンセリングルームには、ベンジャミン、ポトスなどの観葉植物が飾られていた。ソファーや机なども落ち着いたアース系の色調で統一されている。大きな二つの水槽には色鮮やかなネオンテトラやベタといった小ぶりの熱帯魚が泳いでいるのが見える。


 小さくため息をついてから、神谷は電子カルテを確認する。

 有村勇太、十歳。自宅の階段から落ち大腿骨を骨折し入院していたが、担当している森野こころから話を聞いてほしいと直々にお願いをされた少年だった。いつも笑顔を絶やさない森野が、かなり深刻そうな表情をしていた。慎重になるべき案件だ。


 車椅子に座っている勇太は、ずっと下を向いたままスマートフォンをいじっている。ゲームをしているようだ。


「君の病室で物騒な本が捨てられていたと聞いてね。看護師の森野さんが心配していましたよ」


 神谷が差し出したのは、児童向けのジュブナイルノベルだった。だがカバーを外すと中には自殺のマニュアル本が隠されていた。


「君は……自殺をしたいのかい?」


 神谷が手にしている本を、勇太は汚物を見るような目で見つめている。

「僕が買ったんじゃない。病室にいないときにその本が置いてあったんだ」


 本を開いてめくると、最後のページに小さなメモと赤い折り紙が挟まっていた。メモには『赤い鶴に大事なメッセージを書きました』という文字がプリントアウトされている。


 千羽鶴から抜き取られた皺だらけの赤い折り紙には、『しんじゃえばよかったのに』『もどってくんな』『しね』といった、いくつものひどい言葉が書き記されていた。


 どれも子供が書いたようなつたない文字だった。わざと下手くそに書いているようにも見える。筆跡で誰が書いたかわからないようにするために偽装しているつもりなのだろうか。


 だが、濁点の書き方に明らかな特徴がある。アポストロフィのように右から左へ斜めに払ったような筆跡だ。左下がりの平行線になっている。通常は左から右へ斜めに流したような右下がりか、もしくは垂直に書く人が多いはずだ。かなり違和感がある。


「酷いよね。みんな僕が退院するまで応援してくれてるって信じてたのに。もしかしたらお見舞いに来た奴の中に、その本とメッセージを置いていった奴が混じってたのかも。ずっと友達だと思ってたやつが書いたのかな」


 もし子供がやった悪戯だとしても、あまりにやり方が卑劣だ。待ち伏せした相手に笑顔で近づき、ナイフで刺すような用意周到さと猟奇的なものを感じさせる。


「怖いんだよ。もう学校なんか行きたくないよ。僕のこと死ねばいいって思ってるやつがいるところなんて、行けるわけないだろ」


 それまで必死に強がっていたようだが、弱音を口にした途端に勇太の目には涙が浮かんだ。たまった涙が頬を伝う。


 姿の見えない殺意は怖い。疑いが心に闇を育てる。誰も信じられなくなる。心の制御がまだ上手にできない子供ならなおさらだ。


「ご両親には相談してみましたか?」

「できるわけないだろ」

「どうして」

「だってお母さんには僕しかいない。お父さん、去年死んじゃったから」

「ご病気か何かですか」

「事故だよ。僕が同じように階段から落ちて怪我したから、お母さんものすごく心配してた。なのに僕がいじめられてるなんて話したりできないよ」


 勇太はぎゅっと拳を握り締める。


「それにお母さんが好きなのはクラスメイトに大人気の僕なんだ。勉強も運動もよくできて、みんなから慕われてる自慢の息子じゃないとダメなんだ。いじめられてるなんて、絶対言えるわけないだろ」


 どうやらこの家族もまた、壊れた家族のようだ。


 急にアロマの匂いが強く感じられるようになってきた。神谷はこめかみに手をやる。この仕事をしていると、まともな人間はもうこの世には誰もいないのではないかという錯覚に陥りそうになる。

 だがそれは錯覚だ。そう言い聞かせて、勇太を安心させるために笑みを浮かべる。


「お母さんにも言いたくないようなことを先生に話してくれたんですね。勇太くんは強いな。ずっと我慢してるのは辛かったでしょう」


 神谷は勇太の手を取り、両手で包み込むようにする。微かに手が震えている。


「でも大人を見くびったらダメですよ。子供が親に迷惑をかけるのは当たり前のことなんだから。勇太くんの気持ちを正直に話した方がいい」


 勇太の目が一瞬だけ神谷の目を捉えた。だが瞳に映っていたのは絶望と拒絶だった。すぐに神谷の手は払われる。

「先生は何も知らないからそんなこと言えるんだ。お母さんがどんな人か教えてあげるよ」


 勇太はスマートフォンを操作して、神谷に画面を見せた。


「僕のお母さんはね、僕が生まれたときからずっと、僕が何をしたか全部記録を残してるんだよ。最初はブログで、今はツイッターで。友達が教えてくれたんだ。僕のことが全部ネットで書かれてるよって。怪我や病院のこと検索したらヒットしたんだって」


 勇太の見せた画面には、母親が書いたらしい『@ゆうた大好きママ』というツイッターアカウントが表示されている。


 @ゆうた大好きママ

 手術する息子ちゃんのために、先生がフィギュアをプレゼントしてくれた。

 息子ちゃん大喜び。元気になってくれて良かった。



 @ゆうた大好きママ

 最近、息子ちゃんが冷たい。

 スマートフォンの新しいゲームに夢中みたい。

 どんなゲームやってるのか聞いても教えてくれないし。

 不破くんに相談したら大丈夫っていうけど、ママ心配だなぁ。


 @ゆうた大好きママ

 息子ちゃんの手術が無事に終わって一安心。

 手術の間、先生がプレゼントしてくれたフィギュアを

 ずっと握ってたから安心できたみたい。

 勇気のお守りをくれた先生に感謝。


 @ゆうた大好きママ

 せっかく手術も成功したのに、息子ちゃんが学校に行きたくないって言いだして

 ママ困ってます。



 毎日かなりのツイートをしている。勇太の母親はツイッター廃人のようだ。数分前のツイートすらある。


「今までのこと全部だよ。運動会で大活躍したとか、テストで満点とったとか。一番酷いのは初めてクラスメイトから告白されたときのLINEの内容が全部書かれてたことだった。それ以外にも僕がモテるとか、僕が告白された女子の名前もいっぱい書いてあった」


 勇太は怒りと諦めとない交ぜになったような目で、水槽の中の熱帯魚を見つめていた。きっと自分がその熱帯魚と同じような観察される側になっていたことを、無意識のうちに感じ取ってしまったのだろう。


「これは全部、勇太くんが自分でお母さんに話したことですか」

「話すわけないだろ」

「じゃあ、どうして」

「このスマートフォンはお母さんのお古を使ってたんだ。指紋認証が残ったままだったから、全部盗み見されてた。それに気づくまで、ずっとチェックされててさ。今付き合ってる彼女とのやりとりだって勝手にツイートされてたし」


 カップルが寝ている間に相手の指紋認証を突破してスマートフォンの中身を見るというパターンはありがちだが、親子の場合となるとさらに監視の意味合いが強くなる。


「ネットで公開するなんて頭おかしいでしょ。恥ずかしいよ。僕に教えてくれた友達がきっとほかのクラスメイトにも話したんだと思う。だから、彼女や告白してきた女子のことを好きだった奴が僕にムカついて、千羽鶴に『しね』って書いたのかもしれない」


 これだけ赤裸々に公開されていれば、やっかみや恨みも買うはずだ。いじめの種にされるのも仕方がないかもしれない。


「僕はアイドルでもなんでもない。ただの子供だよ。なのにどうして自分のことを勝手に世界中にバラされなきゃいけないの」


 きっと母親は日記帳のつもりで書いているのだろう。悪気がないのならなおのこと始末が悪い。


「それがもし全部本当のことならまだいいよ。違うんだよ。中には僕が言った覚えのない言葉や、やった覚えのないことまでいっぱい書いてあるんだ。僕がお母さんの盗み見に気がついて指紋認証を消した後は、僕の情報がなくなったはずなのにツイートは減らなくて、今度はもっと嘘を書くようになってた」


 ここを見ろという風にスマートフォンの画面を勇太が指差す。


「夏目先生にもらったフィギュアはちょっと嬉しかったけどお母さんの前で大喜びなんてしてないし、手術室に持って行ったりしてない。全部嘘なんだよ。そうやって書いた方が受けがいいってだけで、いっぱい僕の言ったこともやったことも勝手に違うことにされてた。そうやって嘘ついて、可哀想な子供を看病するいいお母さんを必死に演じてた。お母さんは自分が褒められたいだけなんだよ。僕はお母さんの道具なんだ」


 利用されていると感じている母親に相談などできるわけがない。相談したら最後、またツイートされるだけだからだ。自分を護るべき親がそういうことをすると感じている子供なら、大人が差し伸べた手を拒否しようとしたのも無理はない。

 大人だけではない。人はみんな信じられないと感じているのかもしれない。


「僕じゃない僕のことを世界中のみんなが知ってる。それは僕じゃないのに。こんなことされても僕はお母さんが望むみんなの人気者の子供を、これからもずっとやらなきゃいけないのかな」


 勇太はスマートフォンをじっと眺めている。だが視線の先はもっと遠くを見ているようだった。


「本当は誰かに死ねって思われてるのに。もし退院できても、恥ずかしくてもう学校も行けない。生きてたって良いことなんかない。誰かに死んで欲しいって思われながら生きていたくなんかない。そんな風に思うのはそんなにおかしいことなのかな」


 どこかの誰かが、自分の行動全てをストーキングして、笑ったり怒ったり恨んだり妬んだりしている姿を想像しているのかもしれない。見えない場所から、心にナイフを仕込んだ誰かが狙い澄ましている姿すら妄想しているかもしれない。


 どうすればこの怯えた子供を救うことができるのか。


 乗り越えなければならないハードルはいくつもある。闇に突き落としてそのまま自滅するのを待つ方が簡単だ。だがあの森野に託された相手となると、そう簡単に途中で投げ出すわけにもいかない。


「最近ずっと毎日死にたいと思ってるんだ」


 そう言った勇太は、澄み切った水面のように穏やかに微笑んでいた。

 もうすでに死ぬことを心に決めた人間が見せる表情だ。まただ。皆同じ顔をする。


「先生、どうして人は自分を殺したらだめなの」


 やっぱり無駄なのだという声が神谷の心の中に湧き上がった。説得なんて意味がないという囁きが聞こえる。


 神谷は目を閉じて、黙れと心の中で必死に念じる。少しの間だけ黒い声が消える。完全に消えたわけではない。心の奥底でくすぶっているのを神谷は感じていた。


 目を開けると勇太が不安そうな表情で神谷を見ていた。誤魔化すように神谷は笑顔を作る。


「難しい質問だね。君がこの世から消えることを悲しむ人が一人でもいるなら、死ぬべきではない。そういうのが行儀のいい答えだ」

「校長先生が朝礼で言いそう」


 勇太は口をとがらせる。つまらない返事だという抗議のつもりだろう。子供は素直だ。


「そうだな。大人の建前というやつだ。でも本人が死ぬことでしかその苦しみから逃れられないと感じるほど本人が悩んでいて、ボロボロになっている状況なら、周りの人間がその人の自殺を止めることが本当に正しいのかどうかと言われると判断が難しくなる」


 神谷は胸の前で手を組んで、少し息を整える。なるべくゆっくりと。慎重に。言葉を選びながら制御しなくてはならない。今はまだ相手のトリガーを引いてはならないと自分に言い聞かせる。


「綺麗な言葉でその人の心を誘導して、なんとかその時は命を繋ぎ止めたとしても、その人はいつかまた死にたくなるかもしれない。生きていればきっといいことがあると励ますのも常套句だけど、それまでずっと死にたいと思うほど辛い目にあっている人に、『必ずいい未来が待っている』と信じ込ませるのはとても難しい。例えば、食べるものさえなくて、今にも死にそうな浮浪者にむかって『宝くじを買えば大金持ちになれるよ』と励ますようなものだ。常識的に考えればそんなことはありえないし、とても傲慢で無神経なアドバイスでしかない」


 ネットにあふれている励ましの言葉は、ほとんどがこの手の偽善まみれのアドバイスばかりだ。心が弱っている者が見れば、よけいに追い込まれる。毒にはなっても薬になることはない。


 神谷はちらりと水槽に目をやる。

 気性の荒いベタが周りの魚に喧嘩を売るように派手に動いていた。追いやられたネオンテトラは水槽の隅にある岩陰へ逃げてじっとしている。


 水の入れ替えを頼んだ椎名が、同じ水槽に入れてしまったからだ。あまり熱帯魚に興味のない人間には、魚にも相性があるということすらわからないのだろう。


「知ってるかい? 魚も鬱になるんだよ」


 脈略のない魚という単語を聞かされた勇太は戸惑っているようだった。

 危険な方向へ思考が固まっている患者と話すときは、神谷は意図的に相手を撹乱するような単語を混ぜる。人の脳はシングルタスクだ。別のことを考えている間は、しばらく古い思考へ戻れない。


「弱っている魚を天敵と一所の水槽に入れておくと最初は逃げ回る。やがて逃げ回ることに疲れて、逃げてもこの状況は変わらないと認識すると諦めるんだ。逃げることすらしなくなって、隅っこでじっとしてるんだよ」


 神谷は席を立って水槽に近づく。和を乱していたベタを網ですくうと、ガラスのコップに入れた。岩陰に逃げていたネオンテトラが様子を伺うように顔を出し、ようやく平穏が訪れた水槽の中でゆるりと泳ぎだした。


「人間も一緒だ。逃げられない、逃げても意味がない状況に長く身を置きすぎると、人も鬱になるんだよ。だから環境を変えることが大切なんだ」


 勇太の目線の先には、のびのびと泳ぐネオンテトラの姿があった。自分もそうなれるのか、まだ半信半疑な表情をしている。


「でも勇太くんみたいな子供が自分で環境を変えるのは難しい。ならば自分を変えるしかない。まずは自分の中に希望を作ることから始めたほうがいい。未来が良くなるかもしれないと、嘘でもいいから信じられる何かを手に入れなければ人は変われない。君もそういうものを見つけたほうがいいのかもしれないね」


 神谷は机の隅に置かれていた飴玉を手に取った。


「なんでもいいんだ。もし死にたいって思ったら、そのことを考えるのを一時間だけ先延ばしして、食べたいものを食べる。我慢してたけどやれなかったこと、やってみたかったことを一つだけやってみる」


 勇太の小さな手の上に飴玉を落とす。


「そしたら今すぐ死ななかったおかげで、少しだけ良いことがあったって証明できるだろ。もしそれができたら、今度は二時間、半日、明日まで、そうやって徐々に先延ばしする時間を長くしていくんだ。そのうち自分の行動で未来が変えられるって実感できるようになってくる」


 勇太が神谷の目を見た。きちんと言葉が届いている感触がある。


「これをやりたいから、それをしたいから、とりあえず明日まで生きていようと思えるぐらい、自分が好きでやりたくてたまらないものを、たった一つでもいいから見つけるといい。今はできないことでもいい。それができるようになる日を夢見ることができるような、なにかを探してみたらどうかな。自分の中に希望ができれば、きっとお母さんにも本当のことが言える日が来る。勇太くんが真実を告げる勇気がでるまで、もう少し先生と一緒に頑張ってみよう。そうすればいつか勇太くんの世界を変えることができるよ」


 大丈夫だ。彼にはまだ自分で這い上がる余力がきちんと残されているようだ。やはり子供を騙すのは容易い。


「神谷先生って、普通の先生っぽいことも言えるんだね」

「真剣に聞いていると思ったら、感想はそれなのかい」


 神谷は苦笑した。だが暗闇を見つめていた瞳を少しでも別の場所へ向けることができただけでも成果があったと考えるべきだろう。


「これでも先生だから、たまにはね。いつもは次の合コンにどの子を誘おうかとか、そんなことばっかり考えていますけどね」

「知ってる。この病院で一番イケメンな先生が看護師キラーだって、看護師さん達が話してた」

「そのイケメン先生というのは誰のことだろうね」


 神谷は笑いながら内線をかけて、小児科の森野に連絡する。

「終わったから。迎えに来てもらえますか」


 電話を切った神谷は、勇太を乗せた車椅子を部屋の外まで誘導する。ふいに勇太が顔を上げて神谷に話しかけた。


「森野さんは狙ったらダメだよ。夏目先生がその人のこと好きみたいだから」

「それはいいことを聞いた。ぜひ今度合コンに誘ってみようかな」


「だからダメだって」

 勇太はまた口をとがらせている。


 そうしているうちに森野が近づいてくるのが見えた。いつものスマイルだ。きっとこの病院で一番患者に人気がある看護師かもしれない。老若男女を問わず誰にでも好かれている。


 彼女のせいで割を食っている同僚ナース以外にはという但し書きもつくかもしれないが。女の敵は女。それは回避しようのない世の中の摂理だ。


「なにがダメなんですか?」

 森野は首を傾げている。神谷は笑顔で答えた。


「なんでもないですよ」

 不思議そうな表情で、森野はもう一度首をかしげている。小柄で童顔な森野が見せる仕草は、小動物のそれに似ていた。きっと研修医の夏目は、森野のこういうところが好きなのだろうなと勝手に分析する。


 男を引き寄せる女性というのは無自覚にそそる仕草をするものだ。無邪気に男を誘惑している。ストーカーやレイプ被害に遭遇するのもこのタイプが多い。いわゆる魔性の女というやつだ。


 勇太の母親もツイートやブログの自撮り写真を見る限りは、若い頃は似たようなタイプだったのかもしれない。だがいくら美人でも、十歳の子供がいるとは思えないぐらいに若作りをして、必要以上に美に執着している姿は痛々しい。病的なものを感じた。何かを隠し恐れている者が見せる行動パターンだ。


 神谷はカウンセリングをしている間、ずっと疑問に思っていたことを聞いた。


「そういえば、あの千羽鶴はクラスメイトがくれたものですか」

「どうしてそんなことを聞くの」


 答えによっては一番当たってほしくない予想が当たってしまうことになりそうだったが、聞かないわけにはいかない。


「ちょっと気になってね。勇太くんが直接クラスメイトから受け取ったのか、それとも……」

「お母さんが見つけたんだって。僕が検査をしてる間にベッドのところに置いてあったみたいだよ」

「じゃあ誰が持ってきたかを見てないんだね」

「うん」


 やはりそうか。クラスメイト以外にも二人。可能性が高いのはむしろその二人かもしれない。


「不破って人はお見舞いに来たことはありますか」

「誰それ。そんな友達いないよ」


 ならば一番可能性が高いのは一人だ。

 どうやらその人にも話を聞いた方がよさそうだ。思った以上に根が深い問題が潜んでいるのかもしれない。


 こちらを見ていた森野と視線が交わった。すべてを説明をしなくても森野にはわかったようだ。だが何も気づいていないふりをして勇太に向かって柔らかく微笑む。


「じゃあ、戻ろうか、勇太くん」

 そう言った森野は、神谷に向かって深く礼をしてから、勇太の車椅子を押して小児病棟の方へと帰って行った。


 森野は人の表情を読みすぎる。それは長所でもあり短所でもある。

 まるで自分のようだと森野の背中を見つめていた。愛されなかった子供時代を送った者は、得てして人の行動や思考を無意識のうちに読んでしまうことが多い。森野も幸せな子供ではなかったのかもしれない。


 人が恋をするのは自分と似ている者か、全く逆のタイプかどちらかということが多いが、今回の場合は前者だろう。勇太の言葉が本当なら、研修医の夏目は森野を狙っているという。ならば好都合だ。誰かが手に入れようとしているモノならよけいに欲しくなる。それは神谷の悪い癖だった。


 小さい頃から自分の本当に欲しいものは手に入らなかった。いつの頃からか最初から諦めることを覚えた。諦めすぎて何が欲しいのかわからなくなった。だから誰かが欲しがっているモノを横取りするようになった。そうすることでしか欲望が満たされなくなったからだ。


 人として壊れているのはわかっている。

 そんな人間が人の心を診断しているのだ。人を救えるわけなどない。


 だから騙すのだ。

 救われているように信じ込ませるために嘘をつく。自分では信じていない言葉を繰り返す。相手の心の中で真実になればそれでいい。

 騙される方が悪いのだ。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る