第22話 12月20日 桜木南老人ホーム・神谷高司

 桜木南老人ホームの食堂では、何十人もの老人が一斉に食事をとっていた。大きな窓から光がたっぷりと差し込んでいる。明るくて居心地の良さそうなフロアだった。


 白衣を着たままの神谷高司は、老人たちが食事をしている様子をじっと眺めていた。ほとんどの人が介護がなければまともに食べられない状態だ。赤子のようにイヤイヤをしてなかなか食べない者もいれば、口からよだれのようにおかゆを垂らしている者もいる。


 親がこんな状態であることを直視している子供はどれだけいるのだろうか。見て見ぬ振りをしているからこんなに老人ホームに人が溢れているのかもしれない。


 親の心子知らずというのはよく言われるが、子の心親知らずという諺もある。二つの諺を合わせると、人というのは自分の都合ばかりを考えているという意味にも取れる。


 結局のところ人と人が分かり合えることなどないのが現実なのかもしれない。親子が家族という血のつながりだけで分かり合えるならこんな場所は必要ない。


 目の前にいる老婆は口を大きく開けて雛鳥のように食事が運ばれるのを待っていた。介護をしていた者が箸を滑らせ、つかみそこねた煮物が床にころげ落ちる。その女性は気にせず拾って老婆の器に戻した。毎日掃除をしているとはいえ土足で足を踏み入れる場所に落ちたものを食べさせるのは良い介護とは言えない。


 もし食事を与えている相手がその女性の乳飲み子だったら、絶対に拾って食べさせるようなことはしなかっただろう。どうせもうすぐ死ぬのだからという、年老いた者への渇いた気持ちがそうさせるのだろうか。


 老婆は自分がされたことに気づいていないのか、その煮物を満足そうに食べている。きっとゴミがついた不愉快な舌触りにも気付けないほど、すべての感覚が鈍感になっているのかもしれない。


 いずれ年をとったら自分も同じような扱いを受けるのだろうかと思うと神谷は胃の奥に冷たい氷を落とされたような感覚に陥った。


 電話の着信バイブが鳴る。神谷は食堂を出た。玄関へと続く廊下を歩きながらスマートフォンを取り出し電話に出る。


「神谷先輩の報告書、拝見しました。人の行動を金に変える愚者ファンド。実にいいシステムだと思います」


 相手は瀬山哲平だった。大学時代の後輩だ。学部は違うが同じサークルに所属していた。以前は厚生労働省の官僚をしていたが、今は班目響也という若手議員の秘書をしているらしい。


「眠っている資産を吸い上げる方法としては、手軽で初期投資も少なくて済みますからね。黒風の上層部も期待しているそうです」


 黒風というのは瀬山が所属している組織のことだ。その名前が表舞台に出ることはほとんどない。つまりはそういう人間たちの集まりだということだ。


 玄関の自動ドアを抜けると、皮膚を突き刺すような冷たい空気に身震いをする。神谷の勤務する桜木南病院と目と鼻の先とはいえ、暖房が効いた室内に少しでも早く戻りたくて仕方がない。無意識のうちに歩幅が大きくなる。


「金儲けがしたい奴も、金に困ってる奴も、死にたくて仕方がない奴も、みんなが得をするなんて夢の錬金術ですよ。まあこのシステムで一番稼ぐのは私たち黒風ですが」


 電話の向こうで後輩が下品な笑い声をあげた。

 信号がちょうど赤になり足止めを食らう。少し歩いただけなのにもう手が冷たい。かじかんだ指に息を吹きかける。


「国もこのシステムをさっさと採用すればいいんですけど、頑固者が首を縦に振らないらしいんです。財源問題も解消されると思うんですがね」


 神谷はため息をつく。信号が青になった。横断歩道を渡ると、桜木南病院に向かって歩いて行く。


「あいかわらず君は一人で話をするのが好きみたいですね。自分の意見が言いたいだけなら電話ではなくメールでもすればいいのではないですか」


 神谷の嫌味を聞いて、瀬山は電話の向こうで笑ったようだ。何度聞いても下品で耳障りの悪い笑い声だ。


「メールはダメですよ。いくら専用のスマートフォンを使っていても、サーバー経由で証拠が残りますから。音声会話なら前もってピンポイントで傍受されていなければ問題ありませんから」


 神谷は組織から送られてきた専用スマートフォンを使っていた。世界中のどこにも販売されていない、黒風の関係者だけが使っているオリジナルモデルだ。ぱっと見は今時のスマートフォンに似せて作られているが、世間で一般的に使われている機種に比べると何世代も先の技術が投入されていた。


 ロックの解除はパスコードだけではなく、指紋認証、音声認識、虹彩認証にも対応していて、一般的なスマートフォンに比べれば他人が勝手に使うのは難しくなっている。ロール式に内蔵されている付属画面を広げればタブレット風に使うことも可能だ。スペック的にもクロック数、ROMや電池の容量、解像度など、すべての数値が桁違いだった。


 初めてその専用スマートフォンを見せられた時に、神谷は底知れぬ恐怖を感じた。この世にまだない物を作り出せるほどの技術力が、組織の背後にあるということを物理的に証明しているからだ。

 そんな相手に逆らうとどうなるのか。考えるまでもなかった。


「電話なら大丈夫というのはどうでしょうね。すべての会話の傍受ぐらいならいくらでもやれるんじゃないですか。現に黒風のシステムなら可能なようですし」


 以前、組織が作ったという追跡システムのデモンストレーションを、瀬山に見せられたことがある。ターゲットの顔や歩き方、大まかな所在地を登録するだけで、行動範囲をAIで予測し、監視カメラやネット回線など、ピンポイントで傍受しながら半永久的に追跡できるというものだった。あのシステムを使えば会話の傍受ぐらい、いくらでも簡単にできるはずだ。


「ですから、普通の方々に見つからないようにという意味です。一般的な警察とか政府とかのね。まぁ見つかったところで後でどうとでもできますが、うろちょろされると気分が悪いですから」


 瀬山の言う『後でどうとでもできる』というのは事実だろう。警察にも政府にも、ありとあらゆる場所に黒風の関係者がいるということを瀬山が証明している。警察に潜り込んだ者が手に入れたICレコーダーで神谷を脅しているぐらいだ。やろうと思えばなんとでもできるのだろう。


「あなたのお母様もお元気そうで何よりです。半年前に息子さんをあんな事件で亡くされて気落ちされていたようでしたから」


 床に落ちた煮物を食べていたのは神谷の母親だった。半年前に脳梗塞を起こして一命は取り留めたが、脳血管性認知症をわずらっている。


 まだらに記憶が抜け落ちるので、神谷のことは息子だと認識できる時とできない時がある。今日は他人だと思っていたようだ。高司ではなく先生と呼ばれた。白衣を着ていたから先生という認識なのだろう。


「まさか航平さんがあんな形で亡くなられるとは思いもしませんでしたが。もちろん今度はあなたが何かおかしなことをしたら、神谷先輩だけではなくお母様も綺麗な消え方をなさるということはお忘れなく」


 一方的に電話は切られた。神谷が電話に出られるタイミングを見計らってかけてくるのもいつものことだ。お前のことは見張っているという脅しでもあるのだろう。拒否する権利などないということだ。


 母が倒れたのは、兄の神谷航平が浮気相手の夫に殺された直後だった。神谷より四歳年上の航平は、小さい頃から母に溺愛されていた。俳優としてデビューしてからもずっと一番のファンは母だった。


 神谷が臨床心理士を目指したのは、母がどうして兄弟を同じように愛さないのか、その理由が知りたかったからだ。そのぐらい兄に対する母の愛情の注ぎ方は、神谷に対するそれとは異なっていた。だからこそ兄の航平が殺された時の母の取り乱し方は尋常ではなかった。


 もし母が倒れることは避けられなかったとしても、どうせなら兄の航平が殺される前に倒れていたほうがまだ幸せだったのかもしれない。そうすれば息子が無残な死に方をしたのは嘘ですよと騙すこともたやすかっただろう。


 目の前にいる神谷が息子であることを忘れている時は、母はきまって俳優の神谷航平が自分の息子だと自慢してくる。『あなたにちょっと似てるのよ』と母は嬉しそうに笑う。


 だが実際は兄の航平と神谷はあまり似ていない。兄の顔は母親譲りで、神谷はどちらかというと父親によく似ていた。


 母が神谷を愛さない理由はきっと、成長すればするほど神谷が父親に似てきたからかもしれない。若い女に手を出して家を出て行った夫と似ている息子など愛せるわけがない。


 しかも溺愛していた兄の航平が、裏切り者の夫と同じように浮気をして殺されたなどという事実は母には受け入れがたいものだった。


 だからこそ母は無意識のうちにその記憶をなかったことにしようとしているのかもしれない。事件が起こらなかった世界だと信じていられるときだけは、兄の航平は母の中でまだ生きている。


 母が幸せならばそれでもいいと神谷は思っていた。正気に戻るたびに、死んだ兄を思い出して泣き叫ばれるよりはよっぽどマシだ。


 ただ一つだけ、どんなに狂った状態でも母に忘れられるのはいつも神谷だけだということが少しだけ心を冷やす。母の記憶がどちらに傾いている状態でも、神谷にとって不愉快な結果しかもたらさないのは事実だった。


 ふとトラック事故で息子を亡くした上田清史郎のことを思い出した。本物の息子を出せと叫び、処置をした医師の猪熊を困らせていたのは昨日のことだ。


 もうずいぶん前のことのように感じられる。認知症が悪化して息子のことがわからなくなる前に息子が死んだのは幸せだったのか、それとも何もかもがわからなくなってから息子が死んだほうがマシだったのだろうか。そんなことは本人にしかわからない。


 だが、少なくともあの親子はどちらの場合でも幸せではなかったのだろう。そんな気がしていた。




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