第21話 12月18日 桜木南病院・神谷高司

「毎日死にたいと思っています」

 そう言った上田清史郎は、言葉とは裏腹に穏やかに微笑んでいた。


 上田は認知症の初期症状があるということで診断に来たが、鬱症状も出ていると判断されて回されてきた患者だ。八十五歳になってもなお死にたいと願うのは人間の業なのだろうか。そう思いながら神谷高司は上田をじっと観察する。


 悩んでいるという段階ではない。もうすでに死ぬことを心に決めている人間が見せる表情だった。神谷の義姉も同じような笑みを浮かべて「死にたい」と口にした翌日に自殺した。


 無駄だという声が神谷の心の中に湧き上がる。説得なんて意味がないという囁きが聞こえる。神谷は目を閉じて、黙れと心の中で必死に念じた。


 意識を別のものに集中する。脳に直接反応がある外部的な要因を意識した。手っ取り早いのは触覚、嗅覚だ。膝の上で組んだ指に強く力を込める。深く息を吸い込んで匂いを嗅ぐ。ようやく黒い声が消える。


 カウンセリングルームには、いつもアロマの匂いが漂っていた。ゼラニウム、ラベンダー、ネロリ、ベルガモットなどをブレンドした特製オイルが使われている。


 この部屋に来るほとんどの患者は不安や憂鬱を抱えていることが多い。少しでも患者のネガティブな感情を抑えられたらと思って始めたアロマだったが、今となっては神谷自身の心を落ち着かせるために使っているのではないのかと錯覚することがある。


 そう感じるときは必ずと言っていいほど心も体も疲れていることが多い。アロマが強く感じるときは危険な兆候だ。今日も嗅覚が敏感になっている。半年前から精神状態がどんどん悪化しているのを神谷は感じていた。


 目を開けると上田が不思議そうな顔をして神谷を見ていた。誤魔化すように神谷は笑顔を作る。女性なら一瞬で落とせる自信があったが、高齢の男性にはあまり効果がないようだ。


 上田の鞄からスマートフォンの着信音が聞こえてくる。


「ちょっとすみません」

 そう断った上田が慌てた様子で鞄からスマートフォンを取り出す。どう操作していいのか戸惑っているようだった。


「最近使い始めたんですか」

「息子の創士に無理やり持たされましてね。私がどこにいるのか把握したいから持っておけと言うんですが。今時はこんな小さいものに場所を知らせる機械が入っとるんですね。すごいやら恐ろしいやらで」


 老眼鏡を出していろいろ画面をタップするが、操作を間違ったのかライトが点滅しだした。


「使い方は何回も聞いたんですが、すぐ忘れてしまって」


 まだ初期段階とはいえ認知症を患っている老人に最新型のスマートフォンを使いこなせというのは無理な注文のようだ。神谷は見かねて助け船を出す。


「ちょっと見せてもらっていいですか」

 神谷は苦笑しながらスマートフォンを受け取ると画面を確認する。


「スマートフォンは慣れるまで大変ですよね。最初の頃は数字にタップしただけで電話がかかることを知らなくて迷惑をかけたり、いろいろ失敗しましたよ」


 上田が間違って起動したらしいライトアプリを終了させると、メニューをざっと見る。創士という人物からメールが届いているようだ。


「息子さんからメールがあったみたいですね」


 文面がちらりと見える。

「病院に着いたぐらいでいちいち何回も連絡してくるなよ。今忙しいんだから。本当に困ったときとか道に迷ったときだけ電話しろって言っただろ」


 どうやらあまり優しい息子ではないようだ。

 スマートフォンの画面を見せると、メールを読んだ上田は不愉快そうな表情を見せた。


「前に病院に行こうとして迷子になって、警察にやっかいになって怒られたんですよ。だから今日は前もって安心させようと思って電話したんですけどね。機嫌が悪いみたいです。いつものことですが」

「息子さんは同居されてるんですか」

「ええ。五十一になるんですけど、ずっと実家ぐらしで。妻が去年亡くなってからは私と二人暮らしです」

「一緒にこられてないのは息子さんのお仕事が忙しいからでしょうか」


 上田は呆れたように笑った。


「仕事なんかろくにしてませんよ。昔は長距離トラックの運転手をしてたんですが、五年前に一度大きな事故を起こして。人が死んだもんですから運転が怖くなったとかで仕事をやめてしまいましてね」

「死亡事故ですか……」

「それからずっと引きこもり状態で、家でゲームばっかりしとります。私と一緒にいるとイライラするらしくて、病院の付き添いなんぞできるかと言うとりました」


 息子に言われた嫌な言葉でも思い出したのか、上田は忌々しいという表情を見せる。


「今日は久しぶりに仕事に行くとか言うとりましたが、本当かどうかわからんです。いつも今度こそちゃんと働くと言っては、すぐにやめてを繰り返しとりますから」


 高齢ニートというやつだろうか。親子で通院したほうがよさそうな案件かもしれない。だが高圧的なメール文面から察するに、きっと自ら通院しそうにないタイプだ。かといってこの親では説得は難しいかもしれない。


「私の年金で暮らしとるようなもんなのに、ほんと態度ばっかりデカくなって困ったもんです。私に黙って借金もしとるみたいですし、ろくでもない息子ですよ」

「借金は……感心できませんね」


 神谷は唇を指でなぞりながら、言葉とは裏腹に嬉しそうな笑みを浮かべそうになり、すぐに困ったような表情をしてごまかした。


 ほぼ引きこもりでトラウマがあり借金もあるということなら、うまくいけば、あの仕事に誘導できるかもしれない。認知症の父親がきちんと話を通してくれるかは未知数だが、駄目元で一応聞いてみることにした。


「では一度、お二人で来られてみてはどうでしょうか」

「二人で、ですか」

「息子さんにもお話を伺いたいと思いますし。もう少し会話が必要かもしれません。上田さんの症状が悪化しないようにするためには、息子さんの協力が不可欠ですので」

「どうせ私が頼んだところで、きっと創士は来ませんよ。とっとと死ねと思ってるでしょうから。実際に死ねと言われたことは何度もあります」


 短時間の会話の中に、死という言葉が出すぎている。よくない傾向だ。神谷は上田の目をじっと見て言った。


「息子というのは、得てして親に反発する生き物です。汚い言葉を投げつけるのは甘えているからですよ。心の奥底では許してもらえると思っているからこそ言えるのです」


 神谷は優しく微笑んで、尖った空気を変えようとする。


「本当にいなくなって欲しいと思うほど嫌っている相手には、悪態すらつかないものです。そんなことをする価値さえないと考えるからです。だから悪態をつかれている間は大丈夫です。まだ相手の存在を認めている証拠ですから。一度、一緒に来てください」


 神谷は上田のスマートフォンを操作して、無料アプリを紹介しているサイトを表示させた。


「最近こういうアプリが流行ってるの、ご存知ですか」


 アプリの名前は『今日の綺麗な言葉』と書かれている。


「いや、あまりこういうのは。息子からの電話とメールしか使ってませんので」

「少しは息抜きになりますよ」


 上田に画面を見せるようにしながら、神谷はアプリのダウンロードの仕方を実際にやってみせながら教える。


「ほら、こうやって。毎日気が向いたときにここに表示される今日の言葉を見て、気に入った言葉があれば、このお気に入りというボタンを押してください。いつでも気に入った言葉だけまとめて見られるようになりますよ」


 スマートフォンの画面には、世界中の偉人や有名人の名言、生活の知恵のような言葉がいくつも表示されている。上田は恐る恐るといった様子でアプリの操作を真似してみる。


「アプリを使っているほかの人の感想を読めば、悩んでいるのは自分だけではないと感じることもできると思います」


 スマートフォンから顔を上げた上田は、心配そうに神谷を見る。


「お金は大丈夫なんですか」

「心配ありません。この下の方に広告が出てますよね。これが収入源なんですよ」


 広告バナーには『綺麗な消え方はじめました』と表示されている。このバナーをタップすると、通常は子供でも遊べる無料アプリの紹介サイトにつながっているが、今は神谷が手渡す前に裏モードを設定してある。綺麗な消え方を斡旋する特別なサイトにつながるようになっていた。


 上田がバナーをタップするかどうかはわからない。だがきっと死にたいと口にするような患者なら、綺麗な消え方という言葉に吸い寄せられる可能性は高い。その先のステップに進むかどうかは本人次第だ。


「なるほど。テレビのCMみたいなもんなんですね」

 少し安心したように上田は頷いた。


「できなくなったことを嘆くより、少しでもできることをして、小さな挑戦を積み重ねていくのが今の上田さんには大事なことですから」

「できなくなったことを嘆くより、小さな挑戦……ですか」


 上田がそう呟いた。声のトーンと表情から、神谷は自分の言葉がきちんと届いていないなと判断した。


 いつものことだった。神谷がカウンセリングをするたびに、絶望の底にずっと座り込んでいる相手に手を差し伸べても、すぐに握り返してもらえることは少ない。それどころか差し出した手に気づいてさえもらえないことのほうが多い。


 それでも手を差し出すことをやめるわけにはいかない。それが臨床心理士の仕事だからだ。だがそれを続けるうちに、自分自身も絶望の底に落ちていることがある。


 神谷は自分に問いかける。お前は今どこにいるのかと。

 きちんと普通の地面に立っていると確認する。だがその答えに意味がないことを神谷は知っていた。落ちてしまった者は自分がいる場所がどんなに酷い場所だったとしても、自分だけは普通の場所に立っていると錯覚しているからだ。


「いろいろとありがとうございました」

 感謝の言葉とは裏腹に時間の無駄だったというような表情をしている上田は、深くお辞儀をしてから部屋を出て行った。


 開いた扉から外の空気が入ってくる。アロマの香りが揺らぐ。普段より強く感じる匂いでめまいがしそうだった。


 神谷はパソコンのカルテを入力し終えると、プロテクトのかかっているサイトにログインし、最新リストを開いた。ずらりと並ぶ文字を見ていると見覚えのあるイニシャルと年齢に目が止まる。


『U・S 51歳 運送中の事故で死亡(超過労働を告発するために貢献)』


 上田の息子の名前は創士だったはずだ。年齢も合致する。どうやら別ルートの客だったようだ。


 借金がらみで街金から斡旋されたのか、それともネットでネガティブな単語を大量に検索したときだけに表示される広告バナー経由で来たのかはわからない。だがすでに登録は済み、実行段階に移っているらしい。こちらで手をくだす必要はなさそうだ。


 神谷は閲覧していたサイトからログアウトしてため息をつく。

 いつまでこの茶番は続くのだろうか。降りることが許されない場所へ導かれたのは、すべては兄のせいだ。

 疲れている、神谷はそう感じていた。



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