第13話 12月21日 桜木南町・藤崎理玖
「くそったれ」
藤崎理玖は逃げる女を追いかけていた。繁華街の路地裏を縫うように走り続ける女は意外に足が速かった。
「なんで俺がこんなことしなきゃいけねーんだ」
藤崎はようやく女の腕を掴んだ。
「てめぇ逃げたらどうなるのかわかってんだろうな」
泣いているのは松河弥生だった。奨学金の返済で首が回らなくなって桜木南信販に来た女だ。
「自分がやるっつったから連れて行ったんだろうがよ」
利子も返せない状態になって、手っ取り早く稼がせようとAVの撮影現場につれていったが隙をついて逃げられた。メガネをかけた地味でおとなしそうな女だし大丈夫だろうと油断していたら、これだ。
「だからやめとけって最初から言っただろ。お前みたいなやつは向いてないって」
「あのときはできると思ったんだよ。でもやっぱり」
弥生は溢れる涙を拭っている。泣きすぎて鼻水まで出ているようだ。
「二十六なんだろ。いまさら処女でもあるまいし」
「悪かったわね、いまさら処女で」
「は?」
「初めてなのにみんなの前でしたくない」
藤崎はため息をついた。いつもならこんなことはしなかっただろう。
「じゃあ俺とやるか。処女じゃなければいいんだろ。ちょうどそこにラブホあるし」
腹いせじみた行動がガキ臭いことなんてわかっている。悪いのはやらせてくれない森野だ。そう自分を必死に正当化させながら弥生の手を引っ張る。
「え、ちょっと、なに」
「ほら入るぞ」
「嫌です」
「なんでだよ」
「だってタイプじゃないし」
「ざけんなっ。俺だってお前なんかタイプじゃねーよ。好きな女だっているっつーの」
あの日、部屋で強引に森野を抱きしめた瞬間の感覚を思い出し、藤崎は舌打ちをする。
「処女なんか一回やって捨てちまえばいいだろ。つーか俺だって童貞だっつーの」
弥生がプッと吹き出すように笑った。
「なに笑ってんだよ」
「だって、チャラそうなのに童貞って」
「笑うなって言ってるだろ」
藤崎が弥生の胸ぐらを掴んで壁に押し付ける。
「笑っていいよ。私のことも。ばかみたいでしょ。こんな年になってキスもしたことないんだから」
悔しさと恥ずかしさのせいか、弥生の唇は震えていた。
「ずっと勉強ばっかりして、それなりにいい大学入ったのに、こんな見た目だし、いっつもオドオドしてコミュ障だし、就活もうまくいかなくて。結局バイトすらクビになるような人間だし。誰かが好きになんてなってくれるわけないよね。卒業してからもずっと借金のために借金して。ばっかみたい。なんで無理して奨学金なんて借りたんだろう」
弥生は力なく笑う。目からぽろりと涙がひとしずくこぼれ落ちた。
「悪かったよ」
バツが悪くなって藤崎は弥生から手を離した。
「みんなが成人式に出てた時、私は実家に帰る旅費すらなかった。着物借りるお金なんてもちろんない。親がお金持だったら成人式や卒業式に綺麗な着物着て、卒業旅行は海外に行ったりしてさ、新車をポンと買ってもらった子もいるんだよ。住む世界が違いすぎるよ」
弥生はおどけたような表情をする。
「就活で使うスーツだって靴だって、私はバーゲンでたたき売りされてるような安いやつで、ブランドもののスーツ着てる子と集団面接なんかしたらみっともなくて、いっつも恥ずかしかった」
弥生が来ている茶色のダッフルコートは子供服のように丈が短い。留め具もプラスチックの安っぽいデザインだ。もしかしたら学生時代の服をまだ着ているのかもしれない。きっとブランド物を買ったことも身につけたこともないのだろう。
「生まれた時から恵まれてる人しか夢なんかみたらダメなんだよね。そんなのわかってたよ。私みたいに貧乏でコミュ障なやつなんか、幸せになれるわけないよね。バイト先でも真面目系クズって馬鹿にされて、すぐクビになるし。新しいバイトもなかなか決まらないし。もう疲れたんだよ。真面目に生きてたって、ダメなやつはダメなんでしょ。もうわかったよ」
水につけた花火のように、弥生の顔から湧き出る怒りがシュッと消えた。弥生は再び肩を揺らすように激しく泣き始めた。
これだから泣いてる女は嫌いなんだ。他人の人生がうまくいかない理由を聞かされたところで、どうしろと。藤崎はため息をつく。
スマートフォンのバイブ音がする。どうせさっき逃げ出してきた撮影現場の関係者からだ。藤崎は電話に出た。
「すみません。見失いました。今度埋め合わせしますんで。いやそれは勘弁してください。お願いしま……」
一方的に切られた。あの怒り様では、二度と仕事を振ってもらえないだろう。
「くっそ。言い訳ぐらい最後まで聞けよハゲっ」
事務所に帰ったらかなり社長に怒られそうだ。先方に菓子折りを持って謝りに行かされるかもしれない。なんでこんな女のために頭を下げないといけないのか。藤崎はイライラをぶちまけるように言葉を投げつけた。
「自分で選んだ道だろ。泣けば許されると思ってんのか。高い金使って大学入って四年間何してたんだ」
「ずっと頑張ってたよ。資格だって取ったし、成績だって優秀だったんだよ」
「でも就活ダメだったんだろ。ならお前がやってた努力は、ただの自己満足だ」
「そんなんじゃ……」
図星なのか弥生は目を逸らした。
「自分は真面目、自分は偉い、自分は頑張ってる。それを人に見せるための努力だろ。無駄に意識だけは高いくせに、自分の人生を金に変えるための努力をしてねぇ。そういうやつばっかりだぞ。うちにくるやつ」
「努力って……なに」
弥生は引きつったような薄ら笑いを浮かべる。だが目は笑っていない。
「私のレポート丸写した女が、私の第一志望に内定してた。しかも私のほうがレポートをパクったと疑われて単位落とされて留年して。お金ないから退学して新卒カードすら使えなくなった」
藤崎を睨み返してきた弥生の目はこれまでで一番鋭いものだった。
「これって努力と関係ないよね。ズルした人だけが得をするなら努力なんかしたって無駄じゃん。こんな目に合わなきゃいけないほど私なんか悪いことしたのかな。おかしいよね。なんで私ばっかり」
「それで金が貰えるならずっと悲劇のヒロインぶってればいい。世の中どんなクソでも要領いい奴が美味しい思いするってだけだ。小学生のガキでも知ってる」
弥生は何も言い返せないようだ。高校もまともに出ていない人間に言いくるめられているようではどうしようもない。
「そんな簡単なこともわからないバカのくせに、自分はお前たちみたいな底辺とは違うって顔をずっとしてる。でも俺たちからしてみたら、社会から零れ落ちてる度合いなんてたいして変わりない。一握りの大金持ち以外はみんな大差ないだろ」
藤崎は苦笑する。底辺が底辺に説教をする。世も末だ。
「ほら、また私は違うって顔をした。諦めろよ。本当にまともな奴は街金なんかで金を借りたりしねぇんだよ。いいかげん気づけ」
スマートフォンの着信バイブが鳴る。社長からメールが来ているようだ。
手土産を買って謝ってこいという指示が書かれている。先方の偉い人の大好物だというどら焼きの画像が添付されていた。
「お前のせいで余計な仕事が増えただろ」
藤崎は舌打ちをする。
「ほんとお前みたいな中途半端なやつが一番タチが悪いな」
「中途半端ってなによ」
「努力したらなんとか人生大逆転狙えるかもしれないって思えるギリギリのボーダーラインのやつのことだよ」
藤崎のボーダーラインはとうの昔に見えなくなった。だからこういうなまっちょろい奴を見るとイライラする。
「もしかしてまだ信じてるのか。頑張れば夢は叶うとか。現実はそんなのないから。負けた奴はずっと負けた奴。勝った奴はずっと勝った奴。ここはそういう世界なんだよ」
「そんなの……わかってる」
「わかってないよ。お前は心の底ではまだ奇跡を信じてる。だからこれだけ後がない状況で、舐めたことぬかしてられるんだ」
弥生は唇を震わせていた。コートの留め具を握りしめ藤崎を睨みつけている。
「目を覚ませよ。もし万が一奇跡が起こるのが本当だとしてもだ、お前みたいな奴がチャンスを掴もうと思ったら、何もしなくても幸せなやつらの何十倍も何百倍も努力と運が必要なんだよ。なのに少し努力をしたぐらいで自分は頑張ってるって安心して、結局なんにも手に入れられず絶望するのがオチなわけだ。お前みたいなやつがそれに気づくのは、いつだってもう取り返しがつかなくなってからだ」
「……わかったよ。やればいいんでしょ」
弥生は来た道を戻ろうとする。
「やるって何をだよ」
「どうせ私みたいに負けた奴には、これからもろくでもない人生しか待ってないんでしょ。だったら保険金かけて殺してよ」
「お前な……」
「よくドラマとかでやってるでしょ。金返せなくなったやつは最後は保険金かけられて死ぬってやつ。いいよそれで」
またか。また俺に人殺しの斡旋をしろっていうのか。
藤崎はスマートフォンでブラウザを立ち上げて、仕事の依頼内容を確認した。タイミングも条件もちょうどいいものがいくつかある。
「そんなに死にたいんだったら、綺麗な消え方させてやるよ」
これでいったい何人目だろうか。
初めの頃は数えていた。だがいつの頃からか藤崎は数えることをやめた。本物の死神だってきっと魂を刈った人数なんて数えていないだろう。
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